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土曜日 ゆうがた 5:50〜5:55

気象と防災 ラジオメモ


番組概要

気象予報士・防災士の神山 浩樹(IBCアナウンサー)がお届けする5分間。


パーソナリティ

神山 浩樹

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2025年10月11日

2025年10月11日

陸羽地震と川舟断層

1896(明治29)年は東北地方にとって受難の年でした。理科年表によると6月15日、津波により岩手県だけで18000人以上の犠牲者を出した明治三陸地震津波があり、そして2ヵ月半後、8月31日午後5時6分過ぎ、秋田と岩手の県境でM7.2の陸羽地震が発生し、両県で全壊5792戸、209人の方が亡くなりました。M7.2は最大震度6強を観測した2008年の岩手・宮城内陸地震と同程度のエネルギーです。

岩波新書・伊藤和明著「地震と噴火の日本史」によると、激しい揺れに見舞われたのは秋田県東部から岩手県西部にかけてで、秋田県仙北郡や平鹿(ひらか)郡、岩手県の西和賀郡、稗貫郡などに被害が集中しました。特に仙北郡の千屋(せんや)、長信田(ながしだ)、畑屋(はたや)、飯詰(いいづめ)、六郷(ろくごう)などの町村では、75%以上の家屋が全半壊しました。家屋の倒壊や焼失と共に地盤が液状化して地割れから泥水を吹き出し、千屋村だけで家屋の全壊338戸、焼失7戸、死者34人を出しました。岩手県側でも雫石や花巻で全壊家屋が生じ、とりわけ花巻では44戸が全壊しました。

この地震により、奥羽山脈の一部にあたる真昼山地と、西側の横手盆地との間を、ほぼ南北に走る地表の食い違い=活断層が現れ「千屋断層」と呼ばれています。また真昼山地の東の麓、岩手県側の和賀川に沿っても地震断層が現れ「川舟(かわふね)断層」と呼ばれています。陸羽地震はこの「千屋断層」と「川舟断層」という2つの活断層が活動して引き起こしたのです。1989(平成元)年、電力中央研究所は川舟断層の活動履歴を知るために発掘調査を行いました。このとき断層の剥ぎ取り標本を作成し岩手県立博物館に展示しています。剥ぎ取り標本は、調査で現れた地層を特別な接着剤で薄く布に貼り付けたものです。縦2m、横3m程の標本は西側の斜め上半分が茶色い砂の層、東側の斜め下半分が濃い茶色の小さい石の層で、地表のずれがはっきりわかるものでした。この調査により、川舟断層は6300年から3万1000年ほどの間隔で発生することがわかりました。今後300年以内に地震を発生させる確率はほぼ0%と考えられている、とのことです。

2025年10月4日

2025年10月5日

初霜・初氷の観測終了

気象庁は2025年8月27日、この冬から「初霜 ・初氷」の観測をやめると発表しました。これまで職員が目視で確認していましたが、観測技術発達により全国を網羅して気温などの推計をHPなどで提供できるようになった為とのことです。「霜」は大気中の水蒸気が氷の結晶になり、地面や地上の物体に付着したものをいいます。一般にうろこ、針、羽又は扇子のような形状をしています。「初霜」は秋から春に至る期間、初めてその霜を観測した日です。盛岡の平年は10月26日で、最も早く観測したのは1984年の9月27日、最も遅かったのは2017年の11月10日でした。尚去年は10月21日に観測しています。「初氷」は初霜同様、秋から春に至る期間、初めて屋外にある水が凍った日です。盛岡の平年は10月31日で、最も早く観測したのは1966年の10月6日、最も遅かったのは2021年の11月18日でした。尚去年は10月21日に初霜と同時に初氷を観測しています。

初霜・初氷の発表は無くなりましたが、季節の移り変わりを知る代替手段として気象庁が勧めているのが「デジタルアメダスアプリ」です。全国に約17キロ間隔で配置したアメダスの観測値に加え、気象衛星ひまわりや気象レーダー等の観測を組み合わせて、降水量や気温、天気などを1キロ四方の格子状に分割して解析、推定しています。このアプリは全国の任意の地点における気象状況を具体的な数値として表示することができ、お住まいの地域の初霜・初氷を知る目安になります。

さてピンポイントの気温をチェックしたとして、一体、何度で霜が降りたり、氷が張ったりするのでしょうか。気温は地表面から1.5メートルの高さで観測されています。過去30年間、盛岡で初霜・初氷を観測した日の最低気温を平均すると、霜は「1.4度」で下り、氷は「0.3度」で張っています。ただこれよりも高い気温、2018年の初霜は「3.4度」、2000年の初氷は「2.1度」で観測されていました。翌朝の最低気温の予想と照らし合わせ、農作物の管理など参考になさって下さい。冬の便りとして親しまれてきた「初霜」「初氷」の観測、発表。技術の向上と共に、その役目を終えます。

2025年9月27日

2025年9月27日

2025年夏の最高気温

2025年8月3日、盛岡では最高気温が37.2度まで上がり、1924(大正13)年7月12日に記録した観測史上最高と並びました。101年ぶりとなります。この件について盛岡の古戸さんから質問を頂きました。ありがとうございます。「僕は『えっ!こんなに気温が上がるって、どういう事!まさか、盛岡も40℃まで、上がるんじゃない!』と、これを見てびっくりしました。そこで今年の最高気温は、なぜ、こんなに上がったのでしょうか?教えて下さい」。

2025年夏の猛暑は全国的なものでした。気象庁の観測史上最高気温のデータを見ると、群馬県伊勢崎41.8度をトップに、静岡県静岡・埼玉県鳩山41.4度、群馬県桐生・兵庫県柏原41.2度と、上位5地点はいずれも2025年7月30日から8月6日の間に記録しています。

気象庁の異常気象分析検討会は、記録的高温の要因として「2つの高気圧」「高い海面水温」「地球温暖化」を挙げています。1つ目の2つの高気圧とは「太平洋高気圧」と、更に上空の高い所で大陸から日本付近に広がる「チベット高気圧」です。この夏は上空を流れる偏西風が北に偏ったことに伴いチベット高気圧の日本付近への張り出しが顕著に強まりました。太平洋高気圧と共に非常に背の高い1つの高気圧のように働き、持続的な下降気流で雲ができにくく強い日射しが降り注ぎ、気温が上昇しました。又2つ目ですが、日本近海の7月平均の海面水温の平年差は+1.7度となり、1982年の統計開始以降では最も高くなりました。特に北日本周辺で海面水温が顕著に高く、高い海面水温により地表付近が平年より高温多湿に保たれ温室効果が強まり、北日本周辺の顕著な高温に影響した可能性が考えられます。そして3つ目。地球温暖化の影響評価で記録的高温は、地球温暖化がなかったと仮定するとほぼ発生し得ないことがわかりました。一方で既に地球温暖化が進行している2025 年現在においても、約60 年に一度の稀な高温だったと推定されました。異常気象が日常になっています。

2025年9月20日OA

2025年9月20日

雷の疑問

2025年8月26日、27日は北日本を通過する寒冷前線の影響で、内陸を中心に雷雨となりました。この雷についてファルコンさんから質問を頂きました。「昔お婆さんが、雷の時は部屋のヘリのそばに行くな?と聴いた記憶があります。何で?また、雷って移動しながら音を出すのですか?音が頭の上を右から左に行くように聞こえました。『バリバリ』『ゴロゴロ』『ビシャンゴロゴロ』の音の違いは大気が関係しているんでしょうか?」ありがとうございます。

雷が鳴っている時、屋内は基本的に安全です。しかし家の中でも感電した例があります。気象庁によりますと全ての電気器具、天井・壁から1メートル以上離れれば更に安全とのことです。又積乱雲接近時は突風が発生し、飛来物により窓ガラスが割れてケガをする恐れがあります。カーテンは閉めた方が良いでしょう。つまりお婆様の話しは「落雷・突風」の2つの危険から身を守る教えと思われます。尚雷が発生する積乱雲は上空の風に流されます。音が移動するように感じられたのは、その為です。

さて積乱雲の中では、プラスの電気とマイナスの電気を蓄えた氷の粒に分かれていて、その電気がもとで雷が起こります。「NHK気象ハンドブック」によりますと、雷鳴は雲の中の放電によって放電の経路が瞬間的に熱せられて空気が膨張し、その気圧の衝撃波が音となって伝わることです。放電が起きる時は、数万アンペアの大電流が流れるので、放電の通り道は1万度以上の高温となって電光を発します。1回の放電は約100分の1秒の短時間の現象ですが、雷鳴は放電の経路の距離や大気の密度の差による屈折、或いは地面からの反射など、色々な経路を通ってきた音が干渉し合います。距離が近い時はバリバリと非常に大きな音がしますが、離れるにつれてバーン、ドーン、ゴロゴロと段々弱くなり、低い音に変わっていきます。雷の音は十数キロ離れると聞こえなくなっていきますが、光はもっと遠くからも見えます。つまり質問にあった雷鳴の違いは「距離」が関係しているのです。

2025年9月13日

2025年9月13日

南海トラフ巨大地震と富士山噴火

京都大学の鎌田浩毅(かまたひろき)名誉教授は著書「大人のための地学の教室」で、「東日本大震災では東日本が甚大な被害を受けましたが、今度は同じ海の地震が西日本を襲う恐れがあります。それがフィリピン海プレートの沈み込み地帯で起こる南海トラフ巨大地震で、発生するのは2035年プラスマイナス5年と予測されています」と述べています。これまでの歴史を振り返り「1707年の宝永地震では東海地震、東南海地震、南海地震が3つとも連動しました」「3つが連動して20秒以内という短時間ですべてが起きたとされています」「次の1854年の安政南海地震は東南海地震と南海地震が32時間の差で起きました」。それから次の「昭和東南海地震は1944年に起きて、2年後に昭和南海地震が起きています」として、特に1707年の宝永地震以降に動いていない、静岡沖の東海地震に注意するよう指摘しています。「これまでの南海トラフ巨大地震の歴史では、だいたい3回に1回は3つの地震が連動している」ことから前回より318年の空白があり、その切迫性を強調しています。

更に東海地震は富士山に近いことから富士山の噴火を警告しています。1707年の「宝永地震のあと、同じ年に富士山は宝永大噴火という大噴火をしています。地震が起きてから49日後」だったのです。このことから2030年代に「まず南海トラフ巨大地震が起きるでしょう。これはマグニチュード9.1の巨大地震です。その数か月後に富士山が噴火する可能性が高い、ということです」と警鐘を鳴らしています。

政府の地震調査委員会は2025年1月15日、南海トラフ巨大地震の今後30年以内の発生確率について、これまで「70%から80%」としていたものを「80%程度」に引き上げました。日本周辺の海溝や全国の活断層で想定される地震の発生確率を毎年1月1日時点で計算し、必要に応じて更新し発表しています。地震調査委員会では80%程度とは「いつ起きてもおかしくない数字」と述べ、引き続き備えを進めるよう求めています。「地震」と「津波」「火山」への備えは待った無しです。

2025年9月6日

2025年9月6日

三陸フェーン大火

2025年7月9日、宮古市崎山にある「三陸フェーン大火記念碑」を訪れました。碑文には「山火事が発生 それは強い風を呼び 地を駆けるように 忽(たちま)ちこの部落を襲い 一瞬のうちに全戸焼失 野も山も全く焼土と化した 茫然自失」と刻まれ、災害の経験を今に伝えています。

森林総合研究所研究報告No.172によりますと「昭和36年5月末、三陸沿岸地方では台風4号くずれの低気圧にともなった寒冷前線通過のさいの乾燥した強風のために、林野に大火災がおこり」「死者5人、負傷者122人」「14か所から発火した山火は勢いを増して拡大」「推定焼失面積は約26,000ha」に達しました。2025年2月に発生した大船渡市の大規模な山林火災の延焼範囲3370ヘクタールの7.7倍が焼失したことになります。「火災は5月29日以前にも発生しており、これらは一旦鎮火したようであったが完全ではなく、29日の強風であおられて再出火」「原因別にみると、たき火の失火が5件、強風により林木が炭がまに倒れて発火したもの1件、他の5件は原因不明」「瞬間風速30m/sにも達する暴風のため延焼速度が速く、また砂じんや灰が舞い上がって目もあけられず、消火よりも民家への延焼をくい止めるのが精一杯であった」「宮古市の女遊戸、箱石部落18戸と岩泉町の袰野、赤鹿、中里部落89戸が全焼し、田老町ラサ鉱業田老鉱業所もほとんど全滅」「結局、建物の全焼は587棟で罹災世帯数は813に及んだ」「完全に鎮火したのは31日~6月1日でこのときの少雨の雨が幸いしたものと思われる」とのことです。

宮古市災害資料アーカイブには、罹災児童の作文が掲載されています。「山火事に追われて にげたっけ。泣きながら にげたっけ。砂と 火の粉を かぶりながら にげたっけ。歯を くいしばって にげたっけ」「あすから ねる家がないんだと 思った時の自分。あすから たべるものが 何にもないんだと 思った時の自分。お父さんも お母さんも 皆うちしづんでいたっけ。あれから 一年たった 今。私は 祈りたい気持で いっぱいだ」-とおる・なからいー。罹災児童の声を聞いて、あなたは何を思いましたか。


※ここでは「部落」という言葉を「集落」という意味で使用しています。

2025年8月30日

2025年8月31日

カムチャツカ半島沖巨大地震

2025年7月30日午前8時24分、ロシア・カムチャツカ半島東方沖を震源とする巨大地震がありました。地震の規模を表すマグニチュードについて気象庁は当初8.7としていましたが、8月9日精査した結果8.8だったと発表しました。又国内で最大の高さだった久慈港での津波観測について、気象庁は速報値で1.3mとしていましたが、1.4mに更新しました。この地震で津波警報が出されたことにより沿岸全12市町村が避難指示を出し、県によりますと延べ5229人が避難しました。

最初に津波注意報が出されたのが30日午前8時37分、津波警報に切り替わったのが午前9時40分、津波注意報に切り替わったのが午後8時45分、津波注意報が解除されたのは翌31日午後4時30分でした。津波注意報が解除されるまで約32時間かかったことになります。なぜ、これほど時間がかかったのでしょうか。気象庁によりますと、地震が発生すると津波は四方八方に広がります。海外を震源とする遠地津波では、真っ直ぐ日本にやってくる津波とは別に、今回のようにカムチャツカ半島沖で南北2000キロにわたる海底巨大山脈「天皇海山列(てんのうかいざんれつ)」に反射してくる津波もあります。又津波の速度は水深が深いほど速く、浅いほど遅くなり、後からの波が前の波に追い付いて高くなります。時間と共により高い津波が到達する可能性があり、気象庁は津波注意報を長時間維持せざるを得なかったのです。

総務省消防庁によりますと、津波警報を巡り全国では1人が亡くなり12人がけがをしました。三重県熊野市では、国道で車が道路脇の崖下に転落し、運転していた50代の女性が頭を強く打ち命を落としました。津波警報を受け家族に「高台の避難所に車を置きに行く」という趣旨の連絡をしていたということです。また北海道厚岸町(あっけしちょう)の避難所では80代の男性が転倒し、左太ももの骨を折る大けがをしました。県内では久慈市の90代の男性と釜石市の30代女性が、それぞれ避難途中や避難所で熱中症で病院に搬送されました。津波注意報・警報が出されても慌てず落ち着いて行動し、また真夏は周りで声を掛け合って暑さ対策に留意しましょう。

2025年8月23日

2025年8月23日

大船渡山林火災報告書

2025年7月16日、消防庁は2月に大船渡市で発生した大規模山林火災の出火原因について、特定に至らなかったとする報告書を公表しました。報告書によりますと、最初に火災が目撃された赤崎町合足地区での調査の結果、出火した場所は、焼損が激しい切り株の周辺と考えられる、ということです。その場所からおよそ20メートル離れた水産加工施設には、まきストーブ用の煙突があり、山林火災が発生した日も使用されていました。煙突から火の粉が飛んだ可能性を調べるための再現実験を行った結果、出火原因である可能性はあるものの、火の粉は比較的エネルギーの小さい火源であり、仮に山林地表面の堆積物に到達したとしても容易に着火するものではなく、特定には至らなかったとしています。


また報告書には参考資料として「飛び火」に関する目撃談が記載されています。火災発生翌日の2月27日午前6時位に合足集落の北で、東側山林内の火災がその西側の草地に延焼し、更に草地から西側の山林の地表面に飛び火によって延焼した、と消防隊員が証言しました。現地調査の結果、東側山林から草地への延焼は、落ち葉や枯れ葉などの山林の地表面を燃やした「地表火(ちひょうか)」が山林を燃え下り、草地に引火して延焼した可能性が高いことが分かりました。飛び火を引き起こした火の粉が発生した草地の主な植生はススキと、セイタカアワダチソウである可能性が高い草でした。飛び火の推定距離は最低でも10mで、着火物は山林の地表面に生えていた枯れたススキ、あるいはスギなどの落葉や折れた枝の可能性があります。飛び火当時は風が強く風向変化が激しく、約5キロ離れた大船渡のアメダスの気象データでも6時30分頃の風向の変化が大きく、6時30分には出火から鎮圧までの11日間で最大の突風が記録されていました。火の粉の着火に関しては「一定風速の風が吹きつづけるのではなく、風の息により風速が断続的に変化する場合が、着火率を高くする」という実験結果があり、この突風が飛び火を引き起こした可能性があるとしています。


強風、少雨、複雑な地形と悪条件が重なりましたが、そもそも山林火災は、そのほとんどが人間の不注意によって起きていることを忘れてはいけません。

2025年8月16日

2025年8月16日

津波情報の欠測

気象庁は、地震が発生した時には地震の規模や位置をすぐに推定します。そしてそのデータを基に沿岸で予想される津波の高さを求め、地震が発生してから約3分を目標に、大津波警報、津波警報または津波注意報を、津波予報区単位で発表します。その後、津波の観測情報を出しますが、2025年7月24日から津波観測点で何らかの理由で津波の観測ができない場合には、その地点のデータは「欠測」であることが発表されるようになりました。「欠測」は過去にもありましたが、気象庁にはこれまで迅速に伝える手段がなく、記者会見の場で説明するしかありませんでした。

例えば2024年1月1日に発生した能登半島地震の際、石川県珠洲市長橋の津波・潮位観測地点では、地震直後から通信障害によりデータが受信できなくなりました。データを後日回収したところ、地震が発生した午後4時10分の2分後から急激に水位が下がり、マイナス1.2メートルのところでデータが途絶えていたことが分かりました。気象庁が2024年1月30日に現地を調査したところ、電波を水面に向けて測定する「津波観測計」が埠頭に設置されていますが、辺りは一面石と茶色い土の陸地になっていました。隆起によって海底があらわになり津波の高さを正しく観測できない「欠測」の状態に陥ったのです。しかし珠洲市には津波が押し寄せていて、飯田港で4.3mの痕跡が確認される等甚大な被害が出ました。又2011年3月11日の東北地方太平洋沖地震では、気象庁の津波観測施設が大きな被害を受けた影響により、一部の津波観測地点からのデータが途切れました。

もし津波情報で「欠測」ということばを見聞きした際には「観測できていないが、津波が来ている可能性があるので油断しないで」と捉え、これまで同様、津波警報等が発表されている間は避難を続けることが命を守ることに繋がります。津波が観測されていないからといって、避難をやめて家に戻ることがないようにしましょう。

2025年8月9日

2025年8月9日

宮古の気温

ラジオネーム・宮古のおじさんから、宮古の気温について質問を頂きました。ありがとうございます。「1.観測場所ですが宮古の場合は旧測候所(現在宮古海上保安署)でしょうか。2.今日の最高気温の予報は旧測候所で観測されるであろう予報でしょうか」というものです。質問した理由として、湾の傍の高台の旧測候所と市街地は1キロ位離れていて、夏場は5~6度も気温差があるからということです。「シルバー・リハビリ体操」に参加していて、30度以上の予報が出たら、高齢者の体調に配慮し中止にしていて、宮古の最高気温予報が28度でも市街地では32~33度あることから、予報が30度にならなくても、無理せず気を付けてほしい旨を付け加えているそうです。葉書には確認例も添えられていて、男性の住まいの付近では32度、市役所付近では31度、旧市役所付近では30度、なあど28度だったということです。


同じ宮古市内でも大きく差があります。盛岡地方気象台にお聞きしました。「宮古の気温はよくある質問です。旧測候所が北東側に外洋が見える高台にあるため、陸側の気温が上がると海から陸に向かう海陸風となり冷たい海風が測候所に届きます。旧測候所と市街地の間には中里団地という小高い丘があり、その丘を海風が越えられないために市街地の気温は高くなります。また予想気温は旧測候所のものです。市街地だと検証ができませんので」とのことです。旧宮古測候所は1883年(明治16)3月1日に内務省地理局宮古測候所として観測を開始しました。岩手県盛岡測候所が1923年(大正12)9月1日に観測を開始する40年前でした。海の傍の立地は「海から霧が入ってくる様子が見え、船の航行の安全のため、また毎日水温を測っていたので海に近い方が行きやすい」ということが理由でした。「『市街地で測れ』という苦情を何度も受けましたが約140年、海風の観測を続けた地点の方が大事で、また地球温暖化など長期の気候変化も観測している」とその役割を強調します。


旧宮古測候所は2007年(平成19)10月1日から無人となり観測を続けています。海風の涼しさを理解し、宮古のおじさんのようにデータを上手に活用していくことが大切だと感じました。

2025年8月1日

2025年8月1日

宮古市災害資料伝承館

2025年7月9日、宮古市災害資料伝承館を訪れました。東日本大震災など宮古市を襲った自然災害の記憶や教訓を風化させることなく次世代に伝えようと、市が旧田老総合支所跡地に建設したもので、2025年6月に開館しました。420平方メートル余りのスペースには、津波の猛威を物語る、一部がぐにゃりと曲がった道の駅「みやこ」案内標識など、およそ130点の資料が展示されています。


展示パネルでは震災の教訓として「津波被害は防潮堤だけでは防ぎきれない」そのために「地域住民の防災力を高めること」を強調しています。旧田老防潮堤がどのように機能したのか検証する資料によりますと、田老地区の住民をはじめ宮古市民は、津波対策については防潮堤だけでは限界があることを認識していました。そもそも田老の防潮堤が明治三陸地震津波の津波浸水高(しんすいだか)13.64mより低いことから、防潮堤のみに依存する考えは建設当初からなく、小さな地震でも津波を警戒すること、「命てんでんこ」で率先避難する重要性が説かれ続けてきました。避難の大切さは、田老の防災まちづくりや、防災・減災の住民の取り組みにも表れています。国道を基準に高台へ一直線に向かう避難道路である「碁盤の目のまち並み」、交差点の端を切って道路の見通しを良くする「隅切り(すみきり)」、昭和三陸地震津波が発生した3月3日に毎年行われる「避難訓練」、津波の恐ろしさを伝える「語り部活動」など、地域の防災力を高めてきたのです。


明治三陸地震津波を上回った東日本大震災津波に対して、防潮堤が全く役に立たなかったわけではありませんでした。パネルでは事実として「第ニ防潮堤は破壊されてしまったものの住民が津波から避難する時間を稼ぐ役割を果たしたこと」「残った防潮堤は津波の引き波による被害を防いだこと」「防潮堤から山側の海水が抜けずに湖のようになっていたため、後続波や引き波の影響を受けづらく、家の2階から助け出された人や屋根に上って助かった人がいたこと」を挙げています。繰り返される津波。「防潮堤が津波を一時的に引き止め、時間を稼いでくれる間に必ず避難すること」を決して忘れてはいけません。

2025年7月26日

2025年7月26日

大槌伝承の館

2025年7月8日、大槌町初の民間による伝承施設「大槌伝承の館(やかた)」を訪れました。元は町内のフラダンスの愛好団体の練習場所だった建物を改装、2024年6月にオープンしました。住民が撮影した津波の被害や復興の歩みを記録した写真、東日本大震災に関わる資料など200点余りが展示されています。


館長を務める大槌町の倉堀康(やすし)さん(41)は大槌高校を卒業後、釜石の建設会社に勤務しました。2011年3月11日午後2時46分、箱崎町の現場で4トントラックに乗っている最中に大きな揺れが襲いました。倉堀さんは「狭い道で電柱が倒れてきそうだった」と振り返ります。防災無線で「5mの津波が来る」と聞いたため、職場の仲間10人と共に高台へ避難。すると500m先の眼下の水門が津波に押されて開いてきました。通常海側にしか開かないのに陸側に開くのを目にして驚き、更に高台に移動して難を逃れました。しかし津波で両親を亡くし、役場職員だった兄は今も行方不明です。旧庁舎裏にあった自宅は全壊、玄関と風呂場の基礎だけが残っていました。


倉堀さんは避難所運営に携わり、また仮設団地の代表を務めたことから、震災後、要望があれば被災体験を伝えています。以前はあの日のことを話していましたが、最近は各地で自然災害が頻発していることから「次の災害にどう備えれば良いのか聞かれることが多くなった」といいます。2022年に防災士の資格を取得した倉堀さんは、町のハザードマップを指し示しながら「『洪水・土石流』『地震・津波』など自然災害によって指定避難所が違うことをご存じですか」と丁寧に説明します。また「命を守る行動の先にある避難所生活がどんなものか教える人がいない」と感じ、夜泣きが大変な赤ちゃんとお母さんのためにプライベート空間を確保すること、女子中高生のデリケートな悩みは女性スタッフにサポートしてもらうなど「避難所運営には女性の視点を」と訴えます。震災を風化させない、次の災害に備える場となっている「大槌伝承の館」は町役場向かいにあり、来館は原則として電話予約制となっています。

2025年7月19日

2025年7月19日

地震と万歳楽2

安政2年(1855)10月2日、南関東地域において発生した最大の直下地震である安政江戸地震は震度6以上の揺れとなり、家屋の倒壊などにより1万人前後が犠牲になりました。地震の情報は、直後に流通した1枚仕立ての摺物(すりもの)=瓦版や冊子として現在に残っています。


内閣府の災害教訓の継承に関する専門調査会報告書によりますと、代表的な記録である仮名垣魯文(かながきろぶん)が著したルポルタージュ『安政見聞誌(けんもんし)』表紙の表題の上の方には「万歳楽(まんざいらく)」という文字が記され、囲む意匠は鯰の姿に見えます。当時、地震は地中にいる大きな鯰が暴れるために起こるという俗信があったからです。大量に江戸市中に出回った錦絵版画の中にも鯰を主題とした鯰絵がありますが、災いの根源とだけ考えられているのではありませんでした。例えば『鹿島要石真図(かしまかなめいししんず)』は、画面上方に鹿島神宮の要石を名所絵のように描き、下方には鹿島大明神が大鯰を押さえつけている姿を描いています。鯰の周りには、材木といった建築資材、金槌や鉋などの大工道具、それらに加え小判が散らばる光景が描かれています。つまり富をもたらす地震は、それを享受できる人々とっては福となったという具合なのです。このように鯰絵には、災いと福との両面として、地震という出来事とその後の事態が表現されています。


そもそも「万歳楽」とは地震除けの呪い(まじない)ことばであると共に、安楽や快楽を謳歌する祝いことばでもありました。地震とは破壊や死傷といった震災をもたらし、ほとんどの人々にとって災いでしたが、他方で地震後の好景気や、物を施す施行(せぎょう)や救済は、幸いや福が与えられるきっかけとなる人々もいました。大槌町の山間部に今も残る、地震が発生した時に唱えるまじない「まんぜえろぐ まんぜえろぐ」。地震を鎮めるためのことばとして、また良い状況への転換を願うことばとして、人々に受け継がれてきたのです。

2025年7月12日

2025年7月12日

地震と万歳楽1

盛岡市の音楽療法士・智田邦徳(ちだくにのり)さんは、東日本大震災の被災地となった三陸沿岸のまちを訪れ、音楽を通じた支援活動を続けています。その土地の豊かなことばを調査しまとめたのが「三陸ことば絵本 改訂版」です。本の中で気になる風習がありました。大槌町の山間部では、地震が発生した時、火箸のような棒で囲炉裏端を叩いて「まんぜえろぐ まんぜえろぐ」と唱える、というのです。

「まんぜえろぐ」とは何でしょうか。岡田一二三著「みちのく南部の方言」には「マジャラグ/マジャログ・マンジャイログ・マンダログ」は「安全の祈りの唱文(しょうもん)」と解説しています。地域によっては地震の時、大工道具の手斧「チョーナ」を炉に刺して、これを唱えると安全、とのことです。語源の一つが雅楽の曲名「万歳楽(まんざいらく)の転」です。万歳楽は宮中の4人組の舞いで、後に2人組の万歳となって正月の門付けをするようになりました。「年のはじめ、めでたきためしを祝えば万歳楽とは聞こえたことなり」と、家々の厄を払ったと言い、これが厄除けの言葉のマンジャイラクとなり、地方によって、いろいろと転音して言われた、とのことです。尚著者は十勝沖地震の時に「逃げる生徒はマジャラグを唱える者が多かった」と証言しています。

江戸後期の旅行家「菅江真澄(すがえますみ)」に焦点を当てた東北芸術工科大学東北文化研究センター「真澄学第二号」にも、地震と万歳楽について記述がありました。真澄は天明5年(1785)の正月を現在の秋田県湯沢市で迎えています。その年の3月11日に強い揺れが襲い、人々は口を揃えて「万歳楽万歳楽」と唱えたと「小野のふるさと」に記しています。また安政2年(1855)10月2日、江戸で大地震があった直後、地震を起こす大鯰の伝説を主題とした鯰絵が飛ぶによう売れ、中には「万歳楽身の用心」「万歳楽ナマズ大危事」「世治し、建て直し、万歳楽、万歳楽」などと記されていました。次回は、万歳楽と唱える風習が広まった背景について取り上げます。

2025年7月5日

2025年7月5日

ダムと緊急放流

ダムは時期によって普段の水量が違います。「四十四田」「御所」「田瀬」「湯田」「胆沢」の5つのダムを管理している北上川ダム統合管理事務所によりますと、北上川で洪水が起こりやすい7月~9月は洪水を貯めるため、低い水位、比較的洪水が起こりにくい10月~6月は、発電や灌漑補給のために高い水位になっています。ダムの水が少ないように見えても、計画的に行っていることもあるのです。


夏場は、大雨による洪水の一部をダムに貯め、下流に流しても安全な量だけ水を流します。このような時は、前もってスピーカー等で状況を知らせます。洪水が治まるとダムに流れ込む水の量も少なくなります。ダムの水は洪水を貯めた分だけ増えているので、次の洪水に備えるために下流の状況を見ながら、貯めた水を流してダムの水を少なくします。しかしダムを造る時に想定した量を超える洪水が流れ込むことがあります。貯水量には限界があり、この場合は下流に流す水の量を徐々に増やしながら「ダムに入ってくる水の量と同じ量」を下流に流すようにします。これが「緊急放流」です。緊急放流を行わないと貯水位が上昇し続け設備が損傷し、続く洪水も制御できなくなる恐れがあります。そうであれば、そもそも貯水量をもっと少なくすれば良いと考えてしまいますが、ダムは発電など利水機能もあります。大雨予想が外れることもあり、ある程度は水を貯めておく必要があるのです。


東北地方の国直轄ダムでは「緊急放流」の実施例はありませんが、2024年8月、台風5号の記録的大雨の際、県管理の久慈市の滝ダムで実施されました。緊急放流を行うとダムが無い川と同じような状況になり、河川氾濫のリスクが一気に高まります。仮に四十四田ダムで緊急放流した場合、盛岡市内の北上川沿いの広い範囲で氾濫する恐れがあります。緊急放流の目安の一つが顕著な大雨が予測された場合に実施される「事前放流」です。雨が降る前から河川水位が上昇する場合がありますので、サイレンによる警報や、防災情報に留意することが大切です。

2025年6月28日

2025年6月28日

大湯環状列石

2025610日、秋田県鹿角市にある「大湯環状列石」を訪れました。最大径52mの万座(まんざ)と最大径44mの野中堂(のなかどう)の「環状列石」を合わせた呼び名で、米代川の支流である大湯川沿岸、標高約180mの台地上に立地します。大湯ストーンサークル館から森を抜けると、広い草原に大小約8500個の川原石を二重の円に配置した2つの遺構が現れます。約4000年前、縄文時代後期の遺跡で、使われている石の6割は「石英閃緑ヒン岩(せきえいせんりょくひんがん)」と呼ばれ、環状列石から約24km離れた大湯川から運ばれてきたものであることがわかっています。


配石の下からは、円形や楕円形、方形の穴が見つかっています。この穴は「土坑(どこう)」と呼ばれています。土坑の大きさは1m前後で、大人が膝を抱えて入れる大きさとなっています。土の様子を見ると、自然に埋まった穴ではなく、人の手によって埋められた穴であることがわかりました。このことから土抗は死者を埋葬したお墓と考えられ、環状に配置された石は、お墓の上に作られた目印であることがわかりました。また万座環状列石の周りには、柱の跡があった場所に復元した掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)があります。一見、環状列石を囲んで縄文人が暮らしていたように思えます。しかし調査の結果、火を焚いた跡や使用していた土器が見つからず、この時期に特徴的な地面を掘りくぼめた床もなく、家として使われていなかったことがわかりました。また周囲からは、祭りや祈りに使われる土製品(どせいひん)などが多く出土しています。このことから大湯環状列石は「集団墓」であると共に、葬送儀礼や自然に対する畏敬の念を表す儀式を行った「祭祀施設」であったと考えられます。


作られた背景には当時の気候が関係していると推測されます。寒冷化が進み、狩猟や採集による食料の確保が困難になり、集落の移動や分散化が進みました。厳しい環境下で、共同体としての結束を強める必要性が高まり、祭祀を通じて一体感を醸成したのかもしれません。

 

2025年6月21日

2025年6月21日

夏至クイズ

2025年6月21日は「夏至」です。ここで夏至に因んだ2つのクイズをお出しします。次の中で夏至の日に起こることはどれでしょうか。1.昼(日の出から日の入り)が最も長くなる、2.日の出の時刻が最も早くなる、3.日の入りの時刻が最も遅くなる。正解は1です。盛岡の夏至の日の出は午前4時8分、日の入りは午後7時7分。つまり昼の長さは14時間59分です。最も短い12月22日の冬至は日の出が6時53分、日の入りが午後4時15分。昼の長さは9時間22分。比べると5時間37分の違いがあります。国立天文台によりますと、昼の長さが変化するのは、地球の自転軸が傾いているため、太陽の南中高度が変化し、高く昇るほど空を横断する経路が長くなるからです。夏至においては、自転軸の北極側が太陽の方向に傾き、地球上から空を見上げると太陽が一年間で最も北側を通ります。

尚、盛岡の日の出の時刻が最も早くなるのは、6月14日、15日の4時4分6秒、日の入りが最も遅くなるのは、27日、28日の午後7時10分6秒。それぞれ夏至の1週間ほど、前と後になります。季節によって太陽の動き方が変わるため、このようなズレが生じます。

続いてのクイズです。夏至の本日、昼の時間が一番長いのは、どちらでしょう。1.稚内、2.那覇。正解は1の稚内です。稚内の日の出の時間は午前3時45分、日の入りの時間は午後7時25分、昼の長さは15時間40分です。先程お話しした盛岡より41分も長くなります。一方那覇の日の出の時間は午前5時38分、日の入りの時間は午後7時25分、昼の長さは13時間45分。盛岡よりも1時間14分も短いのです。稚内は北緯約45度、那覇は北緯約26度と、緯度が大きく異なります。地球の自転軸が傾いているため、高緯度の方が自転軸から遠いところで日の出になり夜から昼に変わります。これは日の入りも同様です。この結果として稚内の方が那覇より、昼の時間は長いというわけです。

2025年6月14日

2025年6月14日

水のうの活用法

2024年8月27日夜、内陸では同じ場所で非常に激しい雨が降り続く「線状降水帯」が発生。盛岡の1時間降水量は68ミリを観測しました。恐怖を感じるような大雨でした。我が家は洪水の危険エリアではありませんが「トイレ」からは普段、耳にすることのない「ゴボゴボ」という音が聞こえてきました。これは下水道施設の不具合によるものではなく、大量の雨水が汚水管に流れ込み、汚水管の中の空気が押し出されることが原因と考えられます。降雨量が多い場合、上流から流れ込んでくる水の量も増え、下流側の地域では雨が止んだ後もしばらく音が止まない場合もありますが、時間の経過とともに収まる場合がほとんどです。

ただこのまま豪雨が続き住宅周辺が浸水すると下水が逆流して「トイレ」や「風呂場の排水口」から水が噴き出る可能性も考えられ、念のため「水のう」で対処しました。用意したのは「ゴミ袋2枚」と「水」です。我が家では45リットルを用いました。ゴミ袋を二重にして、中に半分程度の水を入れます。袋の中の空気を抜いて口を結び完成です。この水のうを「便器内の水が溜まっている場所」と「風呂場の排水口」に設置。幸い下水の逆流はありませんでした。片付けは簡単で、中の水を流すだけです。水は洗濯用水に、使用後のゴミ袋は乾かして再利用できました。

さて、建物の浸水対策は土のうが一般的ですが、雨が降り出してから土や砂の確保が難しい場合があると思います。その場合、この水のうによる対処法があります。水のうは単体でも使用できますが、段ボール箱とブルーシートを併用すればより効果的です。玄関やシャッターなど水の侵入を防ぎたい場所でブルールシートを敷きます。段ボール箱を並べて水のうを重しとして使用します。最後は段ボール箱を覆うようにブルーシートを丸めて、隙間を埋めて完成です。この浸水対策は、あくまでも台風接近前や水深の浅い初期の段階で行うものです。河川が氾濫するような大規模な浸水を防ぐことはできません。身の危険を感じる前に早目に避難することが大切です。

2025年6月7日

2025年6月7日

チャグチャグ馬コと天気

チャグチャグ馬コは、毎年6月に行われる、馬の守り神「蒼前様」を信仰とするお祭で、60頭ほどの馬が、滝沢市の蒼前神社から盛岡市の八幡宮まで14キロの道のりを行進します。馬の華やかな飾り付けと沢山の鈴が特徴で、歩くたびにチャグチャグと鳴る鈴の音が名称の由来といわれています。滝沢市や盛岡市によりますと、元々旧暦の5月5日に行われていましたが、農繁期と重なるため1958(昭和33)年から晴れの特異日とされる新暦の6月15日に開催日を変更。2001(平成13)年からは、より多くの人が観覧できるよう6月の第2土曜日に開催されています。

この特異日とは、過去数十年の天気の結果から「晴れ」などの特定の天気が現われる割合が、その前後の日と比べて、とても多かった日のことを指して使われています。はっきりとした定義はなく、調べたら確かに多いけれども、なぜそうなるのかもわかっていません。また特異日を気象庁では決めていません。例えば11月3日の文化の日は晴れることが多いことで知られていますが、その傾向が今後も同じように続くとは限りません。また、昔は「特異日」と言われていたけれど、今では「特異日」とは言いにくいように、その特徴が変わっていることもあるようです。

さて盛岡の場合、6月15日はどの程度、晴れているのか、前後2日と比べてみました。過去の気象データには「天気概況」という欄があります。職員が目視で天気の変化状況を観測するもので「昼」と「夜」の2つの項目があり、1967年から統計があります。そこで1967年から2024年まで、6月14日、15日、16日の昼の記録に「雨」という文字が入っている回数を確認しました。すると過去58年の内、雨が降ったのは6月14日は21回、15日は20回、16日は24回でした。6月15日は特異日と言えるほど雨が降らないわけではないですが、前後の日に比べて雨の日数がわずかに少ないことがわかりました。今年はどうでしょうか。2025年は、6月14日(土)に行われます。

2025年5月31日

2025年5月31日

夏の天候の見通しと黒潮の流れ

2025520日、仙台管区気象台は6月から8月の天候の見通しを発表しました。一言で言えば、この夏も「猛暑」が予想されています。上空の偏西風はユーラシア大陸から日本付近にかけて平年より北の位置を流れやすく、チベット高気圧は平年に比べ北側で強いでしょう。また太平洋高気圧は平年に比べ日本の南で西への張り出しが強く、本州付近を中心に暖かく湿った空気が流れ込みやすいでしょう。このため、向こう3か月、東北地方は暖かい空気に覆われやすく平均気温は「高い」予想、降水量は「ほぼ平年並み」の見込みです。


さて夏の気候に影響を与える気になる情報があります。気象庁は黒潮が紀伊半島から東海沖で大きく離岸して流れる「黒潮大蛇行」の見通しを発表しました。2017年8月から続いていましたが5月8日現在見られなく、大蛇行が終息する兆しがある、ということです。日本海流とも呼ばれる黒潮は日本列島の太平洋岸を南西から北東に向かって流れる暖流です。高温、高塩分で、黒ずんで見えます。流速は速いところでは毎秒2メートル以上に達し、その強い流れは幅100キロにも及び、輸送する水の量は毎秒5000万トンにも達します。流れるルートは船舶の経済運航コースを左右する他、漁場の位置や沿岸の潮位を変化させる要因の一つとなっています。このため船舶の運航や漁業の関係者などにとって、ルートの変動は大きな関心事となっています。


黒潮大蛇行について専門家は、日本の夏の気候にも影響を与えると指摘しています。海洋物理学が専門の東北大学、杉本周作准教授は気候シミュレーションの結果、黒潮大蛇行により東海地方の夏の降水量が増加し、台風や2020年豪雨などの降水量にも影響を与えていたことを明らかにしました。そして東海地方の降水量増加の要因は、黒潮大蛇行に伴う水蒸気の増加により大気が不安定化したことが考えられ、同時に黒潮大蛇行で増加した水蒸気が東海地方に猛暑をもたらしたと言える、と指摘しています。黒潮大蛇行が終息すれば、日本の猛暑が少しは和らぐ可能性がありそうです。

2025年5月24日

2025年5月24日

初夏の車内での熱中症の危険

春から初夏にかけての快適な気候でも、車の中の温度が上昇し熱中症になる恐れがあります。JAF(日本自動車連盟)が2019年5月8日に埼玉県戸田市の駐車場で実施した2つのテストについてです。


まず「車体が大きい方が、車内温度は上がりにくいか」。大型SUVと軽ワゴンを使用。車両を南向きに配置し、どちらも運転席と助手席の間、ダッシュボード、ハンドル上部の温度を計測しました。外気温は23.3度~24.4度、湿度は11~19%でした。テスト開始1時間後の車内温度は大型SUVが43.5度、軽ワゴンが37.5度。2時間後には大型SUVが46.5度、軽ワゴンが39.9度でした。またダッシュボードにはスマートフォンとタブレットを置いて時間経過とともに作動状況を検証しました。どちらの車両も約30分で高温になり一部の機能を除いて使用できない状況になりました。テスト開始1時間後のダッシュボードの温度は大型SUVが57.3度、軽ワゴンが41.0度でした。結果、最初の実験では、大型SUVの方が軽ワゴンと比べて車内温度とダッシュボードの温度が高くなることがわかりました。この要因として、大型SUVは軽ワゴンよりフロントガラスの面積が広く角度が浅いため、より直射日光がダッシュボードに当たっていたことが考えられます。


次に「湿度が高いほど、熱中症になりやすいか」。同じ車2台を使い、A車の車内湿度は屋外と同じ15%、B車は加湿器で車内湿度を45%まで上げ、一定時間を経過した時に熱中症の目安となる、気温、湿度、輻射熱などを考慮した暑さ指数を計測しました。テスト開始時の車内温度は約30度でした。測定開始後、湿度が高いB車の暑さ指数が早く上昇し「厳重注意」となる30.9度となりました。A車も「注意」となる22.9度となりました。 同じ気温でも湿度が高いほうが熱中症になりやすことが明らかになりました。春から初夏の気候でも、車内の温度は高温になり、また湿度が高いと熱中症の危険性が高まります。小さい子どもや、加齢により体力の低下した高齢者は体温調整機能が低下していることがあるため、注意が必要です。

2025年5月17日 放送

2025年5月17日

地底の森ミュージアム

2025年4月23日、仙台市太白区「地底の森ミュージアム」を訪れました。富沢遺跡から発掘された2万年前の旧石器時代の森と人類の生活跡を、発掘されたそのままの姿で公開し、当時の様子を再現しています。解説によりますと、富沢遺跡はおよそ90ヘクタールの広大な低地にあります。1982年から発掘調査が行われ、弥生時代から明治時代にかけての水田跡が広い範囲に何層もあることがわかりました。その後の調査で下層から縄文時代の層が確認され、更に1988年3月、氷河期の森と人の生活した痕跡が一緒に見つかりました。

地下に下りると900平方メートルを超えるほの暗い大空間が現れ、森の跡が広がっています。地を這う大量の黒い根は厚さ5メートルの土に埋もれていました。空気から遮断され2万年もの間腐らずに残っていたもので、その奇跡に驚きます。樹木に含まれている水分は特殊な薬品に置き換えて腐らない状態にして展示しています。種類はグイマツや絶滅したトミザワトウヒという針葉樹が殆どで、現在は北海道北部やサハリン南部など寒い地域に生えています。今の仙台よりも年平均気温が7~8度低かったことを示しています。

やや小高い所には100数点の石器に囲まれるように、黒く細かい炭化物が直径70~80センチの範囲でまとまって沢山見つかりました。炭化物は小さな炭で、その範囲や分析の結果から、一晩火を焚いた跡だと考えられています。その火は木を擦り合わせて熾したのかもしれません。焚き火跡の周りは西に向かって少し低くなっていました。石器はやや高い東側で多く見つかっており、焚き火跡を中心として、半径2.5メートルの半円状に分布していました。旧石器人たちが、焚き火の周りで何らかの作業をしていた痕跡で、煙を避けて風上に座っていた可能性があります。また南東側から見つかった石器には、動物の肉や皮を切った使用痕が残っていました。石器の分布範囲の狭さから、ウサギのような小型の動物を解体したことが想像できます。旧石器時代の自然環境と暮らしに触れることができる施設は、地下鉄南北線「長町南駅」から徒歩5分の所にあります。

2025年5月10日 放送

2025年5月10日

火山灰警報

今日は「火山灰」についてです。内閣府によりますと火山噴火により噴出する固形物には、風の影響を受けず弾道を描いて飛散する「大きな噴石」、遠くまで風に流されて降る「小さな噴石」や「火山灰」などがあります。この中で「火山灰」は直径2ミリ未満の小さな粒子ですが、1回の噴火で何万トンから何十万トン、更にはそれ以上という膨大な量が噴出し、風に乗って遠くまで届いて広い地域に降り積もり、様々な被害をもたらします。

例えば空中を浮遊する火山灰は、飛行中の航空機の窓ガラスを傷つけ前が見えなくなったり、エンジンに吸い込まれて損傷、最悪停止させたりする危険があります。地上に降り積もる火山灰は、視界を悪くして交通を妨げます。例えば道路に積もるとわずか0.5ミリの厚さでもセンターラインなどが見えにくくなったり、スリップしやすくなったりします。火山灰が雨を含んで電線に付着すると、その重さのために電線が切れたり、導電性が高まるので漏電などを起こして送配電機器を故障させたりして、停電を引き起こすことがあります。火山灰が人の目に入ったり多量に吸い込んだりすると、健康被害に繋がる恐れもあります。

富士山などの火山で大規模な噴火が発生した際の情報を議論する気象庁の有識者検討会は2025年4月25日、降灰量の累積が3センチ以上と予想される場合に「火山灰警報」、0.1ミリ以上で「火山灰注意報」を市町村ごとに発表することを盛り込んだ報告書を公表しました。噴煙高度が1万メートル以上、噴火が30分程度継続すれば、広い範囲で降灰の恐れがある大規模噴火が発生したと呼びかける想定です。警報や注意報は大規模な噴火に至らなくても降灰量によって発表する見通しで、全国の活火山を対象に行われます。気象庁は報告書を受けて警報の新設に向けたシステムの開発などを進める方針で「運用までには数年かかる見込み」だとしています。県内にも岩手山、秋田駒ヶ岳、栗駒山、八幡平の4つの活火山があります。火山の存在は日頃意識しませんが、降灰量によっては外出や車の運転を控える、といった住民の防災行動が求められます。

2025年5月3日 放送

2025年5月3日

火災警報

山林火災発生の抑止の効果が期待される「火災警報」についてです。「火災警報」とは、乾燥や強風など火災予防上の危険がある場合、地方気象台から伝達される「火災気象通報」を基に市町村長が発令できる警報です。発令中は山林・原野での火入れや野焼きなどが制限され、違反すると30万円以下の罰金または拘留の罰則が科されます。

県の担当者によりますと、県内どの市町村でも近年火災警報が発令された実績はありません。火災警報が運用されないのは、野焼きや火入れの他にも、危険とされた地域での喫煙も禁止されるなどの大きな制限に加え、違反者に対する罰金や拘留などの強制力の強さが、火災警報の発令を躊躇する要因とみられます。又、大規模山林火災が発生した大船渡市では2025年2月のべ24日間、火災気象通報が出続けていました。ほぼ1か月もの間、外での火の使用を制限すれば、農村部の生活への影響は少なくありません。

その中、全国には状況に応じて火災警報を出して、火の取り扱いを制限している市町村もあります。福島市は2021年に「乾燥注意報や強風注意報が出された際に火災警報を発令する」と条例改正を行っていて、これを根拠に年間50回から80回前後「火災警報」を発令しています。福島市が条例を改正したきっかけは2016年に新潟県で起きた糸魚川大火でした。消防庁によりますと、12月22日午前10時20分頃、糸魚川市のラーメン店で、大型こんろの消し忘れにより出火。焼損棟数は147棟、1976年の山形県酒田市における大火以来40年ぶりの市街地における大規模火災となりました。消防団員15人を含む17人がケガをしましたが、犠牲者はありませんでした。新潟地方気象台から強風注意報が出される中、風下側の昭和初期に建てられた防火構造に該当しない木造建築物への飛び火により、同時多発的に延焼が拡大しました。消防庁と林野庁は、山林火災対策に関する検討会で火災警報の適切な運用に関して2025年夏ごろまでに報告書をまとめる方針です。山林火災を防ぐための仕組みの改善に向けて模索が続いています。

2025年4月26日 放送

2025年4月26日

火星の石

2025年4月13日、大阪・関西万博が開幕。日本館では日本の観測隊が南極で発見した世界最大級の火星隕石「火星の石」が展示されています。日本館のHPによりますと、発見は2000年11月。南極観測隊は、昭和基地の南西約350キロにある「やまと山脈」付近で隕石採集を行っていました。この日は300を超える隕石が見つかり多くは数センチほどの小さなものでした。しかし真っ白な氷の上で緑に輝く「火星の石」は幅29センチ、高さ17.5センチ程、ラグビーボール大のサイズでした。


火星の石となる根拠は3つありました。1つ目は鉱物の組成です。地球の岩石と同じように形の揃った鉱物組織があり、マグマだまりの中で降り積もって固められた状態だとわかりました。そのことから、ある程度の重力場がある天体から来たと想像できました。2つ目は隕石の年齢です。分析により岩石として生まれたのが13億年前だと判明。太陽系誕生が46億年前と比べると「若い」ということになります。岩石は火山活動によって生み出されるため、この隕石の出身地では46億年前から少なくとも13億年前まで火山活動が続いていたということになります。長期的な火山活動から、ある程度大きな天体だと推測され、火星が候補に挙がりました。そして決定的なのが3つ目、岩石として生まれた際、内部に当時の空気が閉じ込められていました。NASAによって1975年に打ち上げられたバイキング探査機が火星に着陸して観測した大気の成分組成とほぼ一致していたのです。


その他「火星の石」には、水が無い限り生成しないとされている粘土鉱物が含まれていました。かつて火星に水が存在したことを示す証拠の1つとなります。また今回の展示以外にも南極やサハラ砂漠などで同一種の火星隕石が見つかっていて、ほとんどの隕石が火星を飛び出したタイミングは同じ約1000~1300万年前だとわかっています。つまりこの頃、火星に大きな隕石が衝突するなど何らかの出来事があったと推測されています。「火星の石」は、地球環境を超え、宇宙のスケールでの「循環」に思いを馳せることができる展示なのです。

2025年4月19日 放送

2025年4月19日

大船渡山林火災

大船渡市の大規模な山林火災は、202547日、県の防災ヘリによる上空からの偵察を経て、発生から41日目で鎮火を宣言しました。226日に発生した山林火災では1人が死亡し、延焼範囲は平成以降、国内で最大規模のおよそ3370ヘクタールに上りました。39日、これ以上の延焼拡大の危険がないとして火災の「鎮圧」が宣言されました。311日、私は建物41棟が被災した三陸町綾里の港地区を取材しました。辺りには焦げた臭いが漂い、焼け落ちた家と被害を免れた家が隣同士という光景がありました。背後の斜面には緑が残っていて、飛び火で延焼が広がったように見えました。実家が全焼した女性は「家族の身長を刻んだ柱が無くなってしまった」「地震や津波の避難ならわかっているが、山火事はどう避難すればよいのかわからなかった」と話していました。

延焼拡大の背景については「少雨、強風、風向き」が考えられます。まず記録的少雨です。大船渡の2月1か月の降水量はわずか2.5ミリ。1964年の統計開始以降、過去61年で最も少ない値でした。また乾燥注意報が218日から3月4日まで15日間出され、山はカラカラに乾いていました。次に強風と風向きです。226日、27日、31日には最大瞬間風速18mの北西の強い風が吹きました。228日の風向きは北東、南西、南東、北西と目まぐるしく変化しました。この日の最高気温は前日より5度も高い13.9度。晴れて気温が上がり、日中は海風、夜間は陸風といった局地風が吹いたと考えられます。極端な乾燥に加え、強風、また1日の内で変化する風向きにより、火の粉が飛び、離れた所が燃えた可能性があります。

山林火災ならではの事情もありました。斜面で延焼が拡大すると、地上からの消火が困難になり、ヘリによる空中消火しか行えません。その空中消火も夜間は視界が悪く危険なためヘリは飛ばせず、延焼の拡大を止められない大きな要因となりました。今回の山林火災では、住宅や漁業施設など221棟の建物が焼け、46日現在で194人が避難所や親戚の家などでの避難生活を続けています。「鎮火」には至ったものの生活の再建へ向けた継続した支援が求められます。

2025年4月12日 放送

2025年4月12日

温暖化と大雪

2025326日、気象庁と文部科学省は、地球温暖化などによる将来予測をまとめた最新版「日本の気候変動2025」を公表しました。報告書によりますと、国内の雪は減少傾向です。1962年以降、日本海側の各地域では1年のうち最も深い積雪の値は減っていて、1日に20センチ以上降るような大雪の日数も少なくなっています。そして将来の世界平均気温が、工業化以前と比べ約4度上昇することが想定されているシナリオでは、年間の降雪・積雪量は全国的に減少すると予測されています。

減少傾向の一方、昨シーズンの冬は記録的な大雪となった地域がありました。2月は上旬後半と、中旬終わりから下旬前半にかけ強い冬型の気圧配置がそれぞれ1週間程度持続し、北・東・西日本の日本海側を中心に大雪となった所がありました。帯広では4日、1日の降雪量が104センチを観測し1953年の統計開始以降で最も多くなり、輪島では22日、6時間降雪量の1日の最大値が27センチと1997年以降で2月として最も多くなりました。

実は温暖化が進んでも一部地域では大雪のリスクが残るのです。報告書では「平均的な降雪量が減少したとしても、本州の山間部等の一部地域では、極端な大雪時の降雪量が増加する可能性はある」と指摘しています。それは次の3点を考慮する必要があります。「気温が上昇しても0度以下であれば雨ではなく雪として降る」「気温が上がるほど空気中に含まれ得る水蒸気の量は増える」「温暖化が進行すると日本海の海面水温も上がるため、寒気の吹き出しの際により沢山の水蒸気が大気に供給される」からです。日本海側で大雪が降るのは、強い寒気の吹き出しがあった時や、冬の季節風が大陸側で朝鮮半島北部などの山を迂回したのち日本海で合流する「JPCZ=日本海寒帯気団収束帯」が発生した時などです。つまり温暖化が進行した状況では、沿岸域など気温が0度を超えている地域では大雨が降りますが、気温が低い内陸部や山地では大雪として降ることになるのです。

2024年4月5日 放送

2025年4月5日

善光寺地震

2025年3月23日、長野市にある「善光寺」を参拝しました。善光寺のHPによりますと642年に堂宇造営後、長きに亘り信仰され、今日は年間約600万人が訪れます。創建以来十数度もの大火に遭い、現在の本堂は1707年に再建されました。高さ約27m、間口約24m、奥行き約54mという東日本最大級の国宝木造建築です。本堂正面から左側回廊に曲がる角の柱の側面に、三角形に凹んだような疵(きず)がありました。古文書によりますと、地震の揺れで梵鐘が外れ、落下した際についたということです。その地震が「善光寺地震」です。

今から178年前の1847年5月8日に発生した内陸直下型の大地震で、マグニチュードは7.4。阪神大震災を引き起こした兵庫県南部地震の約1.4倍の規模です。震度は長野市中心街で7~6と推定されています。内閣府の資料によりますと、善光寺地震の特徴は、犠牲者が「土葬にされ、火葬にされ、水葬にされ三度弔われた」と云われたように、被害の種類も多様だったことです。

町のすぐ下に震源域があったため、強い揺れにより家屋が倒壊して火災が発生。山間部の村では大小4万か所以上発生した山崩れにより家々が埋まりました。岩倉山の大崩壊部分は、雪解け水で水量豊富な時期だった犀川の流れを塞き止めました。発災19日後、地震で出来た湖は、水を溜めこみ、その圧力で決壊し、千曲川など下流の長野盆地一帯に大洪水の被害をもたらしました。しかも当時善光寺では6年に1度行われる御開帳が始まっており、近隣住民は勿論、全国各地から参詣者が集まっていました。夜間に発生したこともあり、善光寺の門前町周辺だけで3000人程度、稲荷山で1000人、松代藩領内で3000人弱、飯山藩領内で500人以上、上田藩領内で200人弱、松本藩の池田組などでも67人と、8000人~1万人の方が犠牲になりました。この内、1700人程度は旅行者だったのです。善光寺本堂の東には、地震の犠牲者を悼む地震塚があります。慰霊碑は、地震による土砂災害、火災、洪水といった複合災害の恐ろしさを今に伝えています。

2025年3月29日 放送

2025年3月29日

木碑で伝える震災

大槌町安渡地区。東日本大震災では地域の人口の1割を超える217人が犠牲になりました。大槌湾から約500m離れた、津波の到達地点だった坂の途中に、栗の木でできた碑があります。台座はコンクリート、その上は御影石、碑の高さは2m程。正面には「大地震が来たら戻らず高台へ」と刻まれています。最初に建立されたのは2013311日。津波対策を考える中高生の集まりに参加した当時の大槌高校の生徒が発案しました。朽ちることを前提に4年毎に建て替えられます。震災前、三陸沿岸には過去の津波襲来を伝える石碑が数多くありました。しかしそれらは風景の一部になり、誰も目に留めなくなっていました。建て替え行事に参加することで「震災の記憶を1人でも多く共有し、後世に伝えられる」と考えたものです。2017年、2021年と建て替えられ、今回3度目になり、2025310日に建て替えられました。

311日は木碑前で慰霊式が営まれ、犠牲者に黙祷を捧げました。震災発生後に支援物資の分配や支援活動の受け入れを担った安渡3丁目の住民組織の元代表・小國忠義さん(84)は参列した地域住民30人を前に「ここに立つと当時を思い出す。雪が降り、ガレキ、遺体があった。この木碑がその時あれば、犠牲者の何人かは助かったのでは」と無念の気持ちを口にしていました。


側面に刻まれるメッセージは、建て替えの度、地域住民と高校生が話し合って決めています。29日に行われたワークショップで「『逃げろ』まずは自分だ遠慮はいらない」「日頃の素振り(=避難訓練)が大切な笑顔につながる」に決まりました。参加した大槌高校1年生の女子生徒は、当時2歳で震災の記憶が無く「震災体験を初めて聞いた時は、ただ怖いということしか頭になかった。色々な経験を聞いて、これから私達が震災を語り継ぐ世代になっていくので、町を元気づける活動をしていければと思った」と地域への思いを新たにしていました。小國さんは「記憶を繋いで、彼らが中心になっていく。震災を知らない人たちが伝えていくことになっていけば」と、木碑をきっかけにした伝承活動継続に期待していました。次の建て替えは20293月です。

2025年3月22日 放送

2025年3月22日

大地震と停電

盛岡の「ふるとまさき」さんから地震と停電についての質問です。東日本大震災を経験し「結構強い地震だったので『何だか地震って怖いなぁ~停電もあったから大変!!何にも見えない!!』とあの時を思い出します。地震はいつ起きるのかわからないので油断は本当にできないところです。そこでいつ頃から強い地震で停電が起きているのか知りたいです。理由は『阪神淡路大震災の時ってまだ停電という言葉は聞いたことなかったし、もしかして東日本大震災の時かなぁ~』と僕は気になっていたからです」。ありがとうございます。


地震の際に停電になるのは、火力発電所が自動的に停止する機能がついているからです。大きな揺れが生じた時に発電所を停止させなければ、タービンなどの設備が傷つき、復旧に長期間かかる恐れがあります。関西電力によりますと1995117日早朝に発生した「阪神淡路大震災」では発電所の主要設備には被害はありませんでしたが、送変電設備及び配電設備の被害により約260万戸の停電が発生しました。その後送電線の健全な箇所を洗い出し、順次切替送電を行うなどして、午後8時には約50万戸に減少しました。そして全国から派遣された電力会社のスタッフとともに復旧にあたり7日後の23日午後、応急送電が完了しました。また東北電力によりますと2011311日に発生した「東日本大震災」の津波により変電所が損壊したり、送電鉄塔が倒壊したりしたほか、電柱等が多数倒壊・流失し、最大約466万戸が停電しました。しかし発災後3日で約80%、8日で約94%の停電を解消。そして3か月後の618日には復旧作業に着手可能な地域の停電はすべて復旧しました。


内閣府が行った20229月の防災に関する世論調査によりますと、停電となった場合「足元灯や懐中電灯などを準備している」と回答した人は約54%でした。停電は地震のほか水害や豪雪など、自然災害や様々な原因によって一年中発生する可能性があります。夜間の場合、出口がわからない、床の段差やガラスの破片が見えないなど、とても危険です。身の安全を確保するために、停電に備えましょう。

2025年3月15日 放送

2025年3月15日

洋野町の津波防災

今日は「洋野町の津波防災」についてです。町の防災アドバイザー、庭野和義さん(73)にお聞きしました。旧種市町中野地区生まれの庭野さんは40年以上にわたり久慈消防署に勤務し、種市分署長も務め、町の防災に関心を持っていました。洋野町は過去にも津波により人命と財産が奪われてきました。明治三陸地震では251人、昭和三陸地震では116人が帰らぬ人となりました。


庭野さんは2008年ごろから町と連携し、発生確率が上がっている宮城県沖地震に備え防災体制の見直しに着手。町内で初めて中野地区に、情報伝達を主に担う自主防災組織を立ち上げました。また緊急時に消防団が閉じる、防潮堤の壁にある通用口=樋門のルールを見直しました。複数を閉じていると逃げ遅れることから、普段利用されていない樋門は閉鎖することにしました。閉じる作業を1か所に限定する「一部一門制」にしたことで団員が速やかに避難できるようになったのです。また避難後、町民が高台から下りないよう、海に通じる道路に団員を配置することにしました。訓練でも実施した際『財産である船の様子を見に行きたい漁師を、団員が制するのは大変だった』と庭野さんは振り返ります。


そして2011311日、東日本大震災発生。町では震度4を観測し、最大15mの大津波により住宅や漁港施設、船舶など甚大な被害となりましたが人的被害はゼロでした。訓練が功を奏し、震災当日の消防団員の避難は約12分で完了。震災翌日には、犠牲者がいなかったことを把握し役場に報告しました。避難所のほか、親戚や友人の家などに身を寄せている町民もいましたが、日頃から付き合いのある自主防災組織のメンバーが把握していたため、速やかな確認に繋がったのです。町の自主防災組織は震災当時6つありましたが、現在は15にまで増え、次の津波に備えています。その一番大切な活動について庭野さんは『日頃の挨拶です。一声掛けることが避難行動に結びつきます』と力を込めます。震災から14年。「地域での声掛け」と「逃げること」が津波から命を守ることに繋がると、洋野町の取り組みが教えてくれます。

2025年3月8日 放送

2025年3月8日

生き延びた かめ吉

今日は久慈市侍浜町にある久慈地下水族科学館「もぐらんぴあ」についてです。久慈国家石油備蓄基地の作業トンネルを利用した日本唯一の地下水族館として19944月に開館。20244月には30周年を迎えました。初年度は28万人の来館者を数え久慈地域の観光の目玉となりましたが、海沿いの施設は東日本大震災の津波で全壊しました。


館長を務める宇部修さん(68)は2011311日、スタッフとして館内にいました。震度5弱の長い揺れの後、停電。自家発電に切り替わった中、防災無線で大津波警報が出されたことを知ります。宇部さんは来館者を避難させた後、高台にある自宅に帰りました。翌朝、被害状況を確認するため、もぐらんぴあに向かうと管理棟は全壊していました。がれきで埋もれトンネル内の様子は分かりません。1週間後、ようやく中に足を踏み入れると、入ってすぐのトンネル水槽は奇跡的に壊れていませんでした。電灯の光に寄ってきたのは、死んだ魚をくわえたアオウミガメ「かめ吉」でした。宇部さんは『生きている、良かった』とその瞬間を振り返ります。魚が生きるための配管、濾過槽、ヒーターはすべて壊れましたが、爬虫類である「かめ吉」は水から顔を出して肺呼吸し生き延びることができた、とのことです。結局、2003000匹の生き物の内、821匹のみを助けることができました。


2016
4月、震災から5年を経て再建した「もぐらんぴあ」。トンネル水槽内では、マダイやメバルと共に「かめ吉」が元気に泳いでいます。水族館入口には、津波対策として新たに「防潮扉」が設けられました。震度5弱以上の地震、又は津波警報が出されると扉が自動で閉まるようになっています。またトンネル内から高台に避難できる避難路も整備されました。宇部さんは、震災前は火災訓練はやっていたものの、津波に対する避難意識は希薄だったと振り返ります。そして震災を経験し『津波警報が出たらとにかく逃げるということが身に染みています。お客様を高台の安全な場所まで10分で避難できるように訓練しています』と語ります。復活した「もぐらんぴあ」は人も生き物も津波に備えながら、来館者を出迎えています。

2025年3月1日 放送

2025年3月1日

はまなす亭

洋野町の庭静子さん(75)は、種市でお食事処「はまなす亭」と、宴会を楽しめる番屋、宿泊施設を営業しています。プレハブ店舗の鮮やかなオレンジ色から、ホヤやウニへの思いが感じられます。料理には地元の食材を使うことを心掛けていて、2007年には炊き込みご飯「天然ほや飯」で岩手県の食の匠に認定されました。店舗は1998年開業。当時、防潮堤の海側にある種市ふるさと物産館に本店を構え、201138日には、国道沿いの高台に2号店をオープンしたばかりでした。そして311日、東日本大震災が発生。震度4を観測した洋野町では人的被害はありませんでしたが、最大15mの大津波により住宅や漁港施設、船舶など甚大な被害となりました。この日、2号店にいた庭さんが揺れの後、駐車場から海の方を見ると、潮が引き普段は見えない大きな岩が見えました。10歳の時には出身地の青森県階上町でチリ地震津波を経験しています。潮が引いて漁港の海底が見え震えた、あの日と重なりました。津波が来ると思い、更に海から離れた自宅に避難。停電した中、夜を明かしました。


翌朝、向かった本店は津波で全壊していました。庭さんは防潮堤に立ち『海によって全てが壊された』と静かになった波を見ていましたが、足元に視線を移すと店の冷凍ストッカーが白く光っていました。下に降り近所の人と共に中を開けると、海水も砂も入り込んでいません。蒸して冷凍していたホヤやウニは無事でした。庭さんは『泣いている時間がなかった。これでやれる』と再起を決意。中身を持ち出して運び、3日後には被害を免れた2号店の営業を再開しました。そして多くの支援を受け、20123月、被災した店舗近く、防潮堤の内陸側に仮設店舗をオープンしたのです。

震災から14年。庭さんは『自分たちの生活の糧である海を恨むことはない』といいます。現在は長女、孫娘とともに3代で店を切り盛りしています。庭さんは洋野町の食材をもっとPRしたいと、匠の腕を振るい続けています。

2025年2月22日 放送

2025年2月22日

野田村の震災伝承活動

野田村の資料によりますと、東日本大震災で野田村では震度5弱を記録し、最大約18mの津波が襲来、内陸に到達した最大の高さは37.8mに及びました。村の約3分の1にあたる515棟の住まいが被災し、37人が命を落としました。

村内8か所には野田村「温故知新」という案内板があります。2枚の写真が並べられ、震災前後、そして現在目の前に広がる街並みを比べることで復興の歩みを知ることができます。役場前「村民広場」に設置されている2枚の写真は2011年に撮影されました。被災前2月16日の写真は広場の向こうに住宅が建ち並び、更にその奥は防潮林があり海は見えません。しかし被災直後の3月12日の写真は広場が壊れた建物で埋まり、遠くには水平線が見えます。地元の方は「震災後、波の音が大きくなった」と話していて、防潮林が無くなったことを肌で感じました。

役場から東に歩いて5分、海から直線で約600mの場所に「野田村保健センター」があります。3階建ての2階付近に「津波浸水位4.7M」の表示があり、その高さに圧倒されました。センター3階には「野田村復興展示室」が設けられています。目を引くのは復興支援活動のワークショップで完成した村中心部の立体模型です。3m×2mのスペースに家々が1000近くあり海岸には松並木が再現されています。あちこちにプラスチック製の旗が立てられ、例えば防潮堤には「朝日がキレイに見える場所」、川には「イクラの入ったサケがたくさん」、自宅には「家ごと流されたが助かった」と記され、以前の暮らしや村民の思い出が伝わってきます。展示室の窓からは14mにかさ上げされた防潮堤、土地区画整理事業を終えた村の景色を見渡せます。担当する野田村未来づくり推進課では「復興展示室は、津波の被害状況や復興の足跡を将来に語り継ぐため、平成29年に再建した保健センターの3階に整備しました。室内にはジオラマ模型や、津波で流失した写真を洗浄し保管しています。村では引き続き施設を活用し津波の脅威や教訓を後世に伝えていきます」と伝承への思いを語っていました。

2025年2月15日 放送

2025年2月15日

八戸キャニオン

今日は青森県八戸市にある国内有数の露天掘り石灰石鉱山についてです。露天掘りとは坑内掘りとは違い、地表から直接、鉱石を採掘する方法です。正式名称は「八戸石灰鉱山」で、「VISITはちのへ観光サイト」によりますと地元では「八戸キャニオン」、つまり峡谷と呼ばれています。採掘場の広さは東西1000m、南北1800m、現在の最深部は海抜マイナス170m。国内で最も空が遠い場所と言われています。採掘場に立ち入ることはできませんが、発破作業が行われる時間帯を除き、展望台から見学することができます。採掘場は灰色のクレーターのようで、階段状に深くなっていて、行き交うトラックが小さく見えました。


運営する八戸鉱山株式会社によりますと、住友金属工業の鹿島製鉄所で使用される石灰石の安定供給を目的に1973年に創業を開始しました。鉱山で採掘・生産された石灰石は、地下のベルトコンベヤーで鉱山から約8.5キロ離れた専用埠頭へ運ばれ、北海道・東北・関東方面へ海上輸送されるということです。


石灰石は、海の生物であるウミユリ・フズリナ・サンゴなどの遺骸が堆積・沈殿したものが地殻変動により岩石となり、数億年前から7千万年前にかけて生成されました。展望台脇には宮城教育大学の川村教授が発見した化石が展示されていて、大人が23人座れそうな大きな暗い灰色の石が2つ並んでいます。石の表面にはチョークを引いたような白い模様の化石、大型の二枚貝「メガロドン」が見えます。メガロドンは今から22000万年前から19000万年前に生息していたと考えられています。つまり八戸石灰鉱山の石灰岩は2億年前に形成されたことがわかります。また熱帯の海にある火山島周辺のサンゴ礁で囲まれた地域に生息していたと考えられることから、八戸石灰鉱山の石灰岩も暖かな南の火山島で造られ、移動してきたことになります。資源小国といわれる日本で100%自給できる鉱山資源「石灰石」は、製鉄用副原料やセメントの原料、コンクリート用骨材として、また肥料や飼料等多岐に使用され、私達の生活を支えているのです。

2025年2月8日 放送

2025年2月8日

年縞博物館3~弱まる磁場とネアンデルタール人~

福井県若狭町にある、湖の底に積み重なった泥が作る縞模様「年縞(ねんこう)博物館」についてです。木の葉や花粉、火山灰や黄砂などが含まれている年縞を分析することで、過去の気候などの変化を年単位で復元することが可能です。博物館では水月湖(すいげつこ)から掘り出した7万年分の年縞の実物45mをステンドグラスにして展示しています。


解説書によりますと、年縞には過去の地球磁場の歴史が刻まれています。方位磁石はN極が北を、S極は南を向きます。地球はその中心に棒磁石を置いたような磁場を持っているからです。しかし過去には方位磁石のN極が南を向いた時代が何度もありました。「地磁気逆転」といって過去360万年間で少なくとも11回起こったということです。似た現象に「地磁気エクスカーション」があります。エクスカーションは逸脱という意味です。地球中心の磁石の力が現在の半分以下に弱まった時、地表の磁場が極の向きから大きく逸れる現象です。地磁気逆転が数十万年に1回起こるのに対し、エクスカーションは数万年に1回ぐらいの頻度で起こります。エクスカーションの時、磁場の強さは最も弱い時で現在の10分の1程度になります。


特別展の展示によりますと、今から約4万2000年前、北磁気極が南半球まで行き、戻ってくる「ラシャンエクスカーション」が起こりました。移動はゆっくり往復したと思われていましたが、年縞で調べると高速で何度も行ったり来たりしていたことが判りました。しかも今まで知られていなかった約3万9000年前の2回の移動も発見され「スイゲツエクスカーション」と名付けられました。磁場が弱まると地球のバリアが弱まり、有害な放射線を持つ宇宙線が地上に沢山やってくるようになります。ラシャンエクスカーションの時代にネアンデルタール人が絶滅した原因について、研究者グループは2021年「エクスカーションにより地磁気が弱くなり多くの紫外線が地球に降り注いだから」という仮説を発表しました。磁場が弱まるとあちこちに磁気極が現れ、極地以外でも色とりどりのオーロラが見られた可能性があります。ネアンデルタール人は、有害な粒子や光線にさらされ、空のオーロラを見ながら死んでいったのかもしれないのです。

2025年2月1日 放送

2025年2月1日

年縞博物館2~氷期と間氷期~

福井県若狭町にある、湖の底に積み重なった泥が作る縞模様「年縞(ねんこう)博物館」についてです。木の葉や花粉、火山灰や黄砂などが含まれている年縞を分析することで、過去の気温や水温、気候などの変化を年単位で復元することが可能です。博物館では北に位置する水月湖(すいげつこ)から掘り出した7万年分の年縞の実物45mをステンドグラスにして展示しています。緑と茶の模様は、まるで昆布を横に連ねたようです。


水月湖の年縞に含まれる化石を分析していくと、過去7万年の間には現代と異なる様々な時代があったことがわかります。中でも際立った変動に、氷期と間氷期の巨大なサイクルがあります。氷期とは陸上に大量の氷が蓄えられていた時代のことです。氷をつくる基になる水は海水が蒸発することでもたらされます。つまり氷が増えた時代には、その分だけ海水が減っています。今からおよそ1万8000年から2万年前ごろ、北米とヨーロッパの大半を覆った巨大な氷床は最も大きく成長していました。この時代の海面は現在より120m以上も低く、日本は朝鮮半島と陸続きになっていました。


同じ頃、日本の気温も大幅に低下していたことが、水月湖の年縞の研究から判明しています。年縞の中には、当時の水月湖周辺に生えていた木から飛んできた花粉が、化石になって保存されています。取り出して分析したところ、寒冷な場所に生えるコメツガなどの針葉樹や、シラカバの花粉が含まれていました。これらの樹木は現在、水月湖の周辺には生えていません。日本の各地から地表の土壌を集めて、中に含まれる花粉と照らし合わせたところ、氷期の水月湖の年縞に含まれる花粉と最も類似しているのは、知床半島の西部と日本アルプスの亜高山帯という結果が出ました。2万年前の水月湖は、今の知床半島のように冷涼だったのです。気象観測データを推定すると、年平均気温がおよそ3℃、現在より10℃以上も低かったことが明らかになりました。繰り返される寒冷な時代と温暖な時代。年縞の研究により、気候変動のメカニズム解明などが期待されます。

2025年1月25日 放送

2025年1月25日

年縞博物館1~奇跡の湖~

福井県若狭町にある年代の「年」に、縞模様の「縞」と書く「年縞(ねんこう)博物館」についてです。「年縞」とは湖などの底に積み重なった泥が作る縞模様のことです。1年に1層、年平均0.7ミリの厚さで形成され、春から秋は土やプランクトンの死骸などの暗い層、晩秋から冬は湖水から分離した鉄分や大陸の黄砂などの明るい層が交互に堆積してできます。木の年輪のように1年で一対できる縞模様は、例えば上から「1万枚目の縞は1万年前にできた縞」のように数えることで、縞ができた年代を1年単位で特定できます。

7万年分の年縞が残っている湖が、博物館の北に位置する三方五湖(みかたごこ)の一つ「水月湖(すいげつこ)」です。博物館では水月湖から掘り出した年縞の実物を45m、ステンドグラスにして展示していて圧巻です。7万年分もの年縞が1か所で連続している場所は、世界でも水月湖以外には発見されておらず「奇跡の湖」と呼ばれています。

縞が乱れることなく積み重なり続けたことは大きく4つの理由が挙げられます。1つ目は「流れ込む大きな河川の無い地形」です。直接流れ込む大きな河川が無く、水深も34mと深い為、大雨などによる大量の水や土石の流入で湖底がかき乱されることがありません。2つ目は「山々に囲まれた地形」です。周囲が山々に囲まれている為、風が遮られ波が立ちにくく、湖水がかき混ぜられません。3つ目は「生物のいない湖底」です。湖水がかき混ぜられず、深いところは酸素の無い層になっています。つまり湖底には生物が生息できず、年縞がかき乱されることがありません。4つ目は「埋まらない湖」です。本来、湖は時が経てば上流からの土砂などの堆積物で埋まってしまいます。しかし水月湖は、周辺の断層の影響で、長い間、沈降し続けています。その為、堆積物で湖が埋まることがなく、湖底に堆積物が溜まり続けています。かつての気候や森林の様子など、過去7万年間の環境を知る手がかりがふんだんに含まれている水月湖の年縞は、7万年前から現在までのどの時代にも飛んで行くことができるタイムマシンなのです。

2025年1月18日 放送

2025年1月18日

恐竜の世界2

2024年11月26日、福井県勝山市にある「福井県立恐竜博物館」を訪れました。恐竜を中心とする地質・古生物学博物館です。興味深かった展示は「羽毛を持つ恐竜」です。体長1mほどの全身骨格のレプリカは、コンクリートのような岩盤の上にレリーフのように浮き彫りになっていました。小さく尖った頭に、短い前足、走るのが速そうな後ろ足、体の半分は長い尾になっています。そして背中からその尾にかけて、黒くぼんやりと見える部分があります。これは羽毛の跡ということです。羽毛に覆われた恐竜がいたことに驚きました。

恐竜博物館ニュースによりますと、恐竜と鳥の骨格が似ている為、鳥が恐竜から進化したのではないかという説は、今から150年以上前に提唱されていましたが、決定的な証拠が欠けていました。それは羽毛の存在でした。そして1996年、ついに中国遼寧省で羽毛の痕跡をまとった恐竜が発見されました。こちらで展示されている標本です。これ以降、主に中国で様々な羽毛恐竜や鳥の化石が発見され、恐竜から鳥への進化や飛翔能力の獲得過程などが解明されてきました。

鳥類の祖先である羽毛恐竜は約1億6000万年前までに出現しました。ジュラ紀の終わり頃、気候がやや寒冷化するのに伴って、体温の維持などの為に小型肉食恐竜が「羽毛」を獲得し、それが次第に飛翔能力を持つ鳥類=始祖鳥出現のきっかけとなったようです。肉食恐竜の顎から歯が失われ、前足はカギ爪や指のない「翼」となり、尾も短くなってゆき、飛翔能力を持った鳥類となっていったと考えられるようになりました。私達がイメージするいわゆる「恐竜」は白亜紀末に絶滅していて、生きている恐竜が発見されたことはありません。一方現在では、鳥は「恐竜」の子孫と考えられています。その為、近年の恐竜研究において、鳥類を恐竜類の中にあるグループの一つとしています。つまり鳥は、今を生きている恐竜類なのです。現代に生きる哺乳類が5000種弱なのに対して鳥類は約1万種。私たち哺乳類以上に多種多様で世界中に分布を広げている鳥類をみると、恐竜類の繁栄はいまだに続いていると言えます。

2025年1月11日 放送

2025年1月11日

恐竜の世界1

2024年11月26日、福井県勝山市にある「福井県立恐竜博物館」を訪れました。恐竜を中心とする地質・古生物学博物館です。銀色に光るドームの内部にある展示室は、「恐竜の世界」「地球の科学」「生命の歴史」の3つのゾーンから構成されています。4500平方メートルという広大な館内では、50体もの恐竜骨格をはじめとして千数百もの標本の数々、大型復元ジオラマや映像などを見ることができます。1階ホールで目を引くのが肉食性の恐竜ロボットです。博物館の発掘調査で発見、日本で初めて復元した二本足で移動する約4.2mの恐竜骨格を基に作成されました。鋭いカギ爪を前足に持ち、コンピュータ制御によりスピーディーかつダイナミックに動き、威嚇や咆哮などの動作をよりリアルなものにしています。

一般に「恐竜時代」と呼ばれる中生代は地球全体が今より温暖な気候だったと考えられています。特に三畳紀や白亜紀は北極からも南極からも氷河が全て消えてしまうほど暖かくなっていた時期がありました。当時は海洋プレートを生み出す海底火山が今よりも活発に活動していて、放出された多量の二酸化炭素による温室効果で地球全体が暖められました。温暖な気候の下で植物は繁茂し、それを食べる草食恐竜や、更にそれを食べる肉食恐竜たちが繁栄していたのです。

勝山市は恐竜化石の一大産地です。博物館はその理由として、恐竜が生きていた頃に川や湖など陸で溜まった地層の中でも、骨などが特にたくさんかき集められた「ボーンヘッド」と呼ばれる部分を発見することができたことと、福井県が早くから大規模で集中的な発掘を行い続けてきたことを挙げています。展示室の「日本の恐竜化石」のコーナーには、岩手県で見つかった恐竜の上腕骨のレプリカが展示されていました。長さ70-80センチ、一見、枯れ木が石になったように見えました。長い間、日本からは恐竜化石は発見されていませんでしたが、1978年夏に岩泉町茂師(もし)から日本最初の恐竜化石が見つかり、以来各地から発掘されるようになりました。日本にも豊かな恐竜の群れが生活していたことがわかったのは、岩手県での発見がきっかけだったのです。

2025年1月4日 放送

2025年1月4日

電子基準点

2024年12月19日。「わが町バンザイ」の取材で大船渡市赤崎町の「フレアイランド尾崎岬(おさきみさき)」を訪れ、初めて目にしたものがあります。太平洋を一望できるキャンプ場の芝の上に、ステンレス製の柱が立っていました。高さ5mほどで先端が白いドーム型になっています。案内板によるとこれは「電子基準点」という装置です。

人工衛星を利用して地上の現在位置を計測するためのシステムです。全国約1300か所、約20キロ間隔で設置されていて、設置場所は、学校や公園など公共用地かその隣接地である場合がほとんどです。柱の先端部にはGPS等の衛星からの電波信号を受信するアンテナが取り付けられており、柱の中には受信機本体と受信データを転送する為の装置が入っていて、常時連続観測を行っています。GPSはアメリカで開発された位置を求めるシステムで、上空およそ2万キロを飛行している人工衛星から出される電波信号を受信し、衛星と電子基準点との距離を測定することにより、電子基準点の正確な位置を求めることができます。管理する国土地理院では、各地で得られたデータを茨城県つくば市にある中央局に転送し、コンピュータで処理して電子基準点の位置を正確に求め、各種測量の基準としても利用しています。地面にしっかりと固定され、24時間365日、衛星の電波を受信し続ける「電子基準点」は、日本の位置や高さの基準にもなっているのです。

私達が利用している地面の様子を表す地図は、過去のある時点のものです。なぜなら地面は地殻変動により太古の昔から今に至るまで絶えず動き続けているからです。東日本大震災を引き起こした東北地方太平洋沖地震では、石巻市「牡鹿」の電子基準点が東南東方向へ約5.3m動き、約1.2m沈下するなど、北海道から近畿地方にかけて広い範囲で地殻変動が観測されました。また3月11日の本震の後も、本震時の変動に比べるとわずかですが、緩やかな地殻変動が続いています。これらの地殻変動データは、地震を引き起こした地下の断層の分析や、測量への影響を評価するために活用されています。

2024年12月28日 放送

2024年12月28日

三陸はるか沖地震から30年

20241228日で「三陸はるか沖地震」から30年になります。どんな地震だったのか振り返ります。盛岡地方気象台によりますと、19941228日午後919分、八戸市の東方約180キロの三陸沖でマグニチュード7.6の大規模な地震が発生しました。この地震により、青森県八戸市で観測した震度6を最大に、岩手県・青森県で震度5を観測した他、北海道から中部地方にかけて広い範囲で震度1以上を観測しました。


この地震により3人が亡くなり、重傷者を含め負傷者が788人にのぼりました。建物の倒壊や道路、港湾等も強い揺れによる被害を受け、停電や断水など生活に大きな影響をもたらしました。八戸市にある鉄筋コンクリート地下1階、地上3階のパチンコ店では1階の柱の多くが破損し2階が大きく沈下しました。そして破損した柱と遊技台の聞に挟まれた客2人が命を落としました。本震発生後の地震活動は活発で、10日後の1995年1月7日にはマグニチュード7.2の最大余震が発生し、青森と岩手で震度5を観測。1995年5月31日までに約2700回、マグニチュード5.0を超える地震が32回発生しました。

この地震では津波も発生しました。強い揺れの29分後、宮古で津波の第1波が到達し、北海道から関東地方の太平洋沿岸で津波を観測しました。津波の最大の高さは八戸と宮古の50センチで、いずれも第1波到達から約2~3時間後に観測されましたが、被害はありませんでした。大きな津波が発生しなかった理由は、断層が地下の深い場所で大きくずれ動いた一方、津波を生み出す要因となる浅い場所(海底付近)で、ずれ動いた量が少なかったことが考えられます。津波の被害は報告されませんでしたが、このような事例があるからと安心できません。「海域で地震が発生した場合は津波も発生している」という意識を持ち、海岸付近や海に近い河口付近で大きな揺れを感じたら、津波警報等の発表を待つことなく、揺れが収まったら直ちに安全な高台への避難が命を守ることに繋がります。

2024年12月21日 放送

2024年12月21日

朝虹は雨

花巻・パン屋のよっちゃんから質問を頂きました。「初めてお便りします。1128日の朝、花巻市星が丘の職場で虹を撮影しました。雨上がりによく出る虹なのか?それとも気象に関係なのか?気になります」。ありがとうございます。


メールに写真が添付されていました。結論からいうと「虹」です。ただ雨上がりというわけではありません。天気がこれから崩れる兆候の虹です。全体に白っぽい中空に美しい弧を描いてます。虹が出ている方向は雨が降っているようです。地上の建物は朝焼けに照らされ赤みを帯びています。地図で場所を確認すると、太陽が昇る東を背にして、西の空を撮影していたようです。この日の天気図を見ると、北海道の東海上を低気圧が発達しながら離れ、日本海では寒気を伴った渦「寒冷渦」がゆっくりと東に進んでいます。この時間帯、花巻ではにわか雨が降っていました。雲は多くの場合、西から東に流れていきます。朝に虹が見えるということは、太陽は東にあるので、雨雲は西。つまり雨雲はこれからやってきます。お天気が下り坂の理由です。逆に夕方の虹は、太陽が西、雨雲は東にあるので、だんだん晴れていきます。雨上がりの虹は、夕方、東の空に見えるでしょう。虹は太陽光が空気中の水滴で折れ曲がり、はね返って起きる現象です。鮮やかに見える場合と、ぼんやりとしか見えない場合があります。これは空気中の水滴の大きさに関係しています。水滴が大きいほど色がくっきりと見えるのです。写真の虹は鮮やかでしたので、大粒の雨が降っていたと思われます。


さて虹と似た現象に「暈(かさ)」があります。漢字で日曜日の「日」の下に軍隊の「軍」と書きます。ハローとも呼ばれます。太陽付近に上空の薄い雲がかかっている場合、光がその雲の中にある氷の粒に屈折して起こる光の輪です。虹と違い太陽と同じ方向がポイントです。また幻の日と書く「幻日(げんじつ)」という現象もあります。こちらは太陽の左右にできる光の点です。一見すると別の太陽のように見えます。虹のような大気現象が見られるのは短い時間だけです。見られた方はラッキーでしたね。

2024年12月14日 放送

2024年12月14日

火災の煙から身を守る2

埼玉県にある「さいたま市防災展示ホール」を訪れました。大宮消防署に併設する「さいたま市防災センター」1階にあります。天ぷら油火災やストーブ火災の映像をスクリーンに映し出し、模擬消火器を使用して正しい消火器の使い方を学ぶ「消火体験」、公衆電話を使ってモニターに映る状況を消防に通報する「119番通報体験」などを通して、いざという時の身の守り方を学びます。

私はVRでの火災疑似体験に参加しました。腰の高さの手すりにつかまり、自分自身は歩きません。視界を覆う白いゴーグルを装着してスタート。目の前には机やパソコンが並ぶオフィスが現れます。入口付近には真っ赤に燃える火の手が上がっています。姿勢を低くして廊下に出て避難します。あちこちに炎が現れ、天井付近の白い煙が徐々に黒い煙に変わり目の高さに下りてきます。緑の矢印の誘導灯が黒い煙により見えづらくなる恐怖を仮想現実で体感しました。

続いて煙体験に参加しました。扉で仕切られた室内に煙を充満させて、火災発生時の状況を再現。白い煙は吸っても無害なものを使用しています。こちらは実際に誘導灯の表示に従い、姿勢を低くしながら5~6枚の扉を次々に開けて避難口に向かいます。体験後、正しく避難できたか採点機能により確認しました。私は65点。センサーの感知により、姿勢が高くなっていた為に減点されました。煙を吸わない為には120センチ以下に腰を落とすことが大切だと学びました。又ハンカチを口元に当てながら避難している最中、煙の甘いニオイを感じました。担当者から『ニオイを感じた時点でアウト。体に有害な煙を吸っているいうことになるので、息苦しくなるくらい口元を覆うこと』と助言を頂きました。火災の煙は一酸化炭素などの有害ガスを含んでいます。担当者は火災では服などに火が燃え移って焼死するよりも、煙を吸い込んで意識がなくなって死亡することが大変多くなっていることから『服装や持ち物にこだわらず、できるだけ早く避難すること』を呼びかけていました。

2024年12月7日 放送

2024年12月7日

火事の煙から身を守る1

冬は空気が乾燥し、暖房機器など火を使用する機会が増えることから火災が発生しやすい季節です。防災に関わる資料や情報をHPにまとめている日本損害保険協会では、子ども向けに「火事の煙から身を守る」リーフレットを掲載しています。


火事で一番怖いのは煙です。どんどん天井へ溜まり、やがて床近くまで広がります。煙を吸わないようにする為、覚えておくべき3つの行動があります。1つ目は「鼻と口を押さえる」。タオルやハンカチで鼻と口を覆い、手でしっかり押さえて身を低くします。2つ目は「階段は後ろ向きに下りる」。できるだけ煙を吸わないよう姿勢を低くし、後ろ向きで這いながら下ります。3つ目は「部屋に留まる」。ドアを開けたら煙がいっぱいで避難できない時は部屋の中に留まり、窓から助けを呼びます。そして火事になったら・見つけたらということで3つのポイントを挙げています。1つ目は「大声で知らせる」。『火事だあ』と大声で叫び大人に助けを求めるのです。2つ目は「扉を閉めて早めに避難」。3つ目は「忘れ物があっても戻らない」です。


リーフレットでは部屋のイラストが描かれ、ストーブの前に燃えやすいものを置いていないかどうか、住宅用火災警報器がついているかどうかといった確認の他、火事を出さない為には整理整頓が一番大切ということがわかります。そして火事に繋がる意外な事例も取り上げられています。「水の入ったペットボトル」。レンズの役目をして太陽の光を集めて火事になることがあります。飼っている「ペット」。電気コードをかじった為にショートして発火することがあります。ゲーム機などに使う「ボタン電池」。電池が重なり合い火の手が上がることがあります。そして「埃」。何年も差し込んだままのプラグ部分に埃が溜まり、それが原因で火災が発生することがあります。リーフレットは学校や家庭で子どもたちと話し合い、確認するツールとして活用できます。資料は「そんぽ防災WEB」で検索するとご覧になれます。

2024年11月30日 放送

2024年11月30日

暖房器具の事故

2019 年から2023 年までの5 年間にNITE(製品評価技術基盤機構)に通知された製品事故情報では、主な暖房器具の事故が582 件ありました。その内、石油や電気のストーブ、ファンヒーターによるものが毎年8割以上を占めています。

東北地方の事故例です。宮城県では2021年12月19日、80代以上の男性宅で、建物を全焼する火災が発生し、1人が軽いケガをしました。石油温風暖房機の吹き出し口近くにこたつを設置していた為、こたつ布団が過熱され出火したものと推定されます。取扱説明書には「ファンヒーターの前にセーターや座布団などを置かない。火災が発生するおそれがある」と記載されていました。
青森県では2022年1月7日、20代の女性が石油ストーブを使用中、周辺を焼く火災が発生しました。カートリッジタンクから油が漏れていることを認識し使っていた為、給油時にこぼれ落ちた灯油が、周辺のほこり等に染み込む形で残り、燃焼時の熱で気化して引火したものと推定されます。 取扱説明書には「給油後、給油の口金は確実に締め、こぼれた灯油はよく拭き取る」と記載されていました。

NITEでは石油ストーブ等を使用する前に次の5つをチェックするよう呼び掛けています。1つ目は「埃が溜まっていれば取り除く」、2つ目は「対震自動消火装置が正しく作動することを確認する」、3つ目は「燃料は新しい灯油を使い、昨シーズンの灯油は使わない」、4つ目は「カートリッジタンクの給油口の蓋が確実に閉まっていること、漏れがないことを確認する」、5つ目は「機器と周囲の壁や可燃物との十分な距離が確保できていることを確認する」です。安全に冬を乗り切る為には、シーズンの初めや日々の点検が大切です。『去年使ったし今年もきっと使える』といった思い込みは事故の元。今一度確認しましょう。

2024年11月23日 放送

2024年11月23日

熱中症警戒アラート2024

熱中症のリスクが特に高まった際に注意を促す「熱中症警戒アラート」の発表が、2024年はこれまでで最も多かったことが明らかになりました。環境省の資料によりますと「熱中症警戒アラート」は4月24日から10月23日の運用期間中に過去最多の延べ1722回発表されました。夏の気温が2023年と並ぶ水準となり2年連続で最も暑い夏だったことが影響しました。警戒アラートは気温と湿度などから算出する指標の「暑さ指数」が33以上と予想された場合に気象庁と環境省が発表します。尚2021年は613回、2022年は889回、2023年は1232回でした。2024年は特に9月の発表回数が前年の3.6倍となり残暑が際立ったことも影響したとみられます。県内では2024年8月24日、9月2日、9月11日の3回発表されました。2023年の22回よりは少ない回数でした。

総務省消防庁がまとめた、2024年5月から9月の熱中症による救急搬送状況によりますと、全国の累計は9万7578人でした。これは2008年の調査開始以降、最も多い人数でした。また2023年同期間と比べると6111人増えています。その内、65歳以上の高齢者が最も多く57.4%を占めています。又この期間の県内の搬送人員は758人。その内、高齢者が65%を占めています。

高齢者が特に注意が必要な理由は大きく3つあります。1つ目は「不足しがちな体内の水分」です。若年者よりも水分量が少ない上に、体の老廃物を排出する際に沢山の尿を必要とします。2つ目は「暑さに対する感覚機能の低下」です。加齢により、暑さや喉の渇きに対する感覚が鈍くなります。3つ目は「暑さに対する体の調節機能の低下」です。体に熱が溜まりやすく、暑い時には若年者よりも循環器系への負担が大きくなるのです。熱中症は夜間や屋内でも多く発生しています。周囲の人は高齢者の事情を理解して、暑い時期は「水分補給」「暑さを避ける」よう、積極的に声掛けをしましょう。

2024年11月16日 放送

2024年11月16日

避難所の考え方

滝沢のオルガンさんから質問を頂きました。『学校や公共施設などに、ここが避難場所という看板が、道路脇の高い位置や建物前に設置してあります。施設ごとに、どの災害ならここに避難してよいか絵と言葉で示してあります。この夏の盛岡の大雨災害の時、すぐに開設された避難所が少なかったように思うのですが、大きな災害が発生しいざ避難するとなると、どの災害かによっていいとか悪いとか考えずに、とにかく避難場所の看板のある、近くの所に行ってしまいそうです。どこの避難場所に避難するか、普段からどういう考えを持っていればいいですか?』ありがとうございます。


お便りにあるように、避難所は被害想定に基づき、災害種別ごとに指定されている点に注意が必要です。例えば盛岡市のハザードマップでも、ある施設は地震の避難所に指定されています。しかし北上川沿いにあり、大雨で洪水が発生した場合、浸水が想定されるエリアに位置します。地震の際は避難者を受け入れますが、洪水の危険がある際は開設されず、中に入れません。つまり開設されている避難所は、その災害が差し迫っている、又は災害が発生した場合、避難者を受け入れる所だということになります。しかしながら何らかの理由で避難所開設が遅れるということもあるかもしれません。又市町村から発令される「避難指示」は「対象地域住民のうち危険な場所にいる人は全員避難」とあるように、対象地域でも危険な場所以外の人は避難を求められていません。


結論として、自宅にいた場合「そもそも避難する必要があるのか」と考えるところから始めた方が良いと思います。ハザードマップを確認し参考にして、自宅が安全で生活が継続できるのであれば留まる、避難するとしても親類や知人宅に身を寄せるという選択肢もあります。自然災害から身の安全を確保する為にどうすれば良いか、日頃から身近な人と話し合っておくと、いざという時の速やかな行動に繋がります。

 

2024年11月9日 放送

2024年11月9日

ロープレスキュー

20241019日と20日の2日間、大船渡市でロープレスキューの技術を競う全国大会が行われました。ロープレスキューとは、災害や火事、転落事故が発生した際に救助が必要な人をロープなどを使って助ける方法です。大会には全国6道府県から10チーム約90人が参加。大船渡町の中心部にある6階建てのホテルでは、約20メートルの高さでロープを使い救助を進めていきます。市の中心部で行われた大会は誰でも見学することができ、多くの市民の目に触れる機会になりました。東日本大震災の被災地でもある大船渡市での大会開催のきっかけを作ったのが、大船渡地区消防組合に勤務する吉田元気さん(29)です。普段は消防本部で消防用設備に関する事務の仕事をしています。

今回、会場となった大船渡市の中心部は東日本大震災で甚大な被害を受け、その後の復興でまちの姿は大きく変わりました。吉田さんは新たな災害への備えが課題となる中、震災から13年以上が経過し市民の防災への意識が薄れているのではと感じ、消防組合の仲間と実行委員会を組織。地元企業の協力もあり大会開催にこぎ着けました。『復興地の防災のまちである大船渡市を、防災発信のまちにしたいと思ったので、ここでやることは、すごく意味がある』とその意義を説きます。大会に参加した愛知県のチームの男性は『南海トラフ等で津波災害が予想されていますので、同じような物資輸送、人員輸送で活用できるように、今後とも勉強していきたい』と抱負を述べていました。

『いつまでも被災地ではなく、今は復興地です』と語る吉田さん。2025年以降も大会を継続し、『東日本大震災を経験し、海外の方々が被災地に応援に来てくれたので、その方々に、今は復興地としてこれだけ素晴らしいまちになっていると伝えられたら』と将来的には国際大会実施を目標にしています。復興地から防災の発信を目指す吉田さんの挑戦が続きます。

 

2024年11月2日 放送

2024年11月2日

台風発生は増えている?

気象庁では毎年1月1日以後、最も早く発生した台風を第1号とし、以降発生順に番号をつけています。今年は5月と7月に2個、8月に6個、9月に8個、10月に3個発生しました。2024年10月25日、マリアナ諸島で発生した台風21号は、今年21個目の台風ということになります。『今年は台風が多いでしょうか?』という質問を受けました。1991年から2020年の過去30年の平均では年間約25個の台風が発生しています。月別に見ますと、7月から10月が多いものの、毎月発生しています。11月の平均は2.2個、12月は1個です。今年は平年並みのペースで発生していて、特に多いというわけではありません。なお2001年から2023年の平均も年間約24個です。

台風の発生数は年々、増加しているわけではありません。しかし東京など太平洋側の地域に接近する台風の数は増えています。気象庁気象研究所が1980年から2019年の過去40年分の観測データや気象解析データを用い、日本に接近する台風の特徴の変化を調査した結果によりますと、東京では期間の前半20年に比べて後半20年の接近数は約1.5倍となっていることがわかりました。要因として、太平洋高気圧の西及び北への張り出しが強くなっていることが考えられます。また例えば中心気圧が980ヘクトパスカル未満の強い強度の台風接近が増えていること、台風の移動速度が遅くなっていることも明らかとなりました。これは接近時の海面水温の上昇や大気中の水蒸気量の増加が台風発達の条件になっていること、さらに偏西風が日本上空で弱まっており、台風を移動させる風が弱くなっていることが考えられます。

気象研究所の今世紀末における地球温暖化に伴う台風の将来予測でも、⽇本の位置する中緯度帯では移動速度が約10%遅くなることが示されました。地球温暖化により台⾵の降⽔強度が増加することも指摘されています。台風の勢力が衰えず、風雨をもたらす時間が長くなり、被害が拡大する傾向は、今後も続くと見込まれます。

2024年10月26日 放送

2024年10月26日

一日前プロジェクト~令和元年東日本台風~

今日は被災者の体験談から減災に繋げる教訓を得る取り組み、内閣府の「一日前プロジェクト」についてです。2019年10月の台風19号では、総降水量が神奈川県箱根で1000ミリに達し、東日本を中心に17地点で500ミリを超え、岩手県を含む1都12県に大雨特別警報が発表されました。

製造業社員の30代男性が勤める事務所1階は水没しましたが、経理や財務を管理する2階は無事でした。一方で1階に生産管理の機能を置いていたことで、サーバーも書類も図面も、全て被災しました。『もっと2階に重要なものを上げておく、生産設備を物理的に被害を受けない方法を取っておく。クラウド上に重要書類を置いておく、できるだけデータのバックアップを取っておくなどの対策が必要』と訴えます。浸水が想定されている地域では水害への備えが、早期復旧に不可欠です。製造業代表取締役の40代男性は、事業所が水没しました。翌日、中に入ろうとしましたが停電していた為、自動ドアが開きません。手動で開けようとすると、鍵穴に鍵が入りませんでした。細かい砂が大量に鍵穴に入り込んでいたのです。又2階は浸水被害を免れましたが、復旧作業が進みません。上水道は来ても、下水道が使えなかったのです。トイレが使えず、出社は少人数に絞りました。その後仮設トイレなど、必要最低限のインフラを整えながら、徐々に出社する社員を増やしていきました。復旧を進める為にもライフラインが重要だと、改めて感じます。

元住民自治協議会副会長の60代男性は、地域住民への避難の呼びかけについて証言しています。「『河川事務所からの情報で、ほぼ何時間後に越水するから逃げてください』と根拠を示して伝えないと、住民の皆さんは動いてくれません。私が近所の10軒くらいの戸をドンドンドンと叩いて、そのように伝えたら『ほんとかい!』ということで逃げた人がいました。『良く教えてくれた』という人もいました」と振り返っています。避難の伝え方も工夫が必要だということを教えてくれます。これらの貴重な教訓は、内閣府のHPでご覧になれます。

2024年10月19日 放送

2024年10月19日

この冬の天候の見通し(2024/25年冬)

昨シーズンの岩手の冬、2023年12月から2024年2月の特徴は「高温」「内陸は少雪」「沿岸北部の大雪」でした。盛岡では平年の冬は真冬日が11.8日、しかし昨シーズンは3日。降雪量はいつもの冬の約45%と、根雪にならない暖冬でした。一方2月26日夜から27日昼前にかけて、日本の東で発達した低気圧や三陸沖を南へ進んだ別の低気圧の影響で沿岸北部では大荒れとなり、27日の24時間降雪量の最大値は岩泉64センチ、宮古59センチ、久慈51センチと除雪が困難な記録的大雪となりました。


さて今シーズンはどんな冬になるのでしょう。その指標になるのが「エルニーニョ監視速報」です。気象庁では、エルニーニョ現象など熱帯域の海洋変動を監視し、実況と見通しに関する情報を毎月1回発表しています。10月10日の情報によりますと、現在は「エルニーニョ現象もラニーニャ現象も発生していない平常の状態と見られるが、ラニーニャ現象時の特徴に近づきつつある」「今後、冬にかけてラニーニャ現象時の特徴が明瞭になるが、その状態は長続きしない」とのことです。ラニーニャ現象とは南米ペルー沖の海面水温が基準値よりも低くなる現象で、日本の天候に大きな影響を与えます。ラニーニャ現象が発生すると、西高東低の気圧配置が強まり、気温が低くなる傾向があります。最近ラニーニャ現象が発生したのは2021年秋から2022/23年冬の6シーズンでした。この時の岩手の冬を振り返ります。2021年12月下旬から2022年1月上旬は低温。12月24日から28日は大雪、1月12日は暴風雪となりました。2022年12月の月平均気温は低く、2023年1月中旬は高温でしたが、下旬は一転低温と変動が大きくなりました。


仙台管区気象台が9月24日に発表した東北地方の12月から2月の冬の天候の見通しによりますと、冬型の気圧配置が強まる時期があり、低気圧の影響を受けやすい時期もあるため「平均気温はほぼ平年並」「降水量と降雪量は平年並か多い」でしょう。この冬の岩手は、北国らしい寒さと雪の量に備えた方が良さそうです。

2024年10月12日 放送

2024年10月12日

岩手山警戒レベル引き上げ

2024年10月2日、気象庁は山体膨張が確認されたとして、岩手山の噴火警戒レベルを1から火口周辺を規制するレベル2に引き上げました。岩手山の噴火警戒レベルの引き上げは2007年の運用開始以来初めてです。2日午後、八幡平市平笠の岩手山焼走り登山口に八幡平市の職員が入山を規制する立て看板を設置しました。岩手山では今年2月頃から山の膨張を示す地殻変動が観測されていて、5月頃からは岩手山の西側、黒倉山付近で微小な火山性地震も増加していました。今回のレベルの引き上げは、それらの現象に基づくもので、岩手山の入山規制は県の設置する岩手山の火山防災協議会で定められたものです。盛岡地方気象台は、西岩手山からおおむね2キロの範囲では噴火に伴う弾道を描いて飛散する大きな噴石の発生に警戒を呼びかけています。また、噴火時に火口の風下では火山灰や小さな噴石が遠方まで風に流されて降る恐れがあるとしています。

噴火警戒レベルは、噴火等の際、危険な範囲や必要な防災対応を踏まえ5段階に区分されています。レベル1は「活火山であることに留意」、レベル2は「火口周辺規制」、レベル3は「入山規制」、レベル4は「高齢者等避難」、レベル5は「避難」です。今回は噴火警戒レベル2で、登山口で入山規制を行うことになりました。県によりますと「山ごとにどこで規制するかを決めていて、岩手山の場合は7つある登山道の入口で規制をかける対応を取っている」とのことです。また噴火警戒レベルが引き下げになるまでは入山規制が続く見込みだということです。噴火の危険に伴って岩手山が入山禁止となるのは1998年以来のことです。尚、この時の地殻変動では噴火には至りませんでした。

規制されていない岩手山周辺では、観光施設を含めてこれまで通りの利用が可能となっています。県では規制する地域以外は安全で日常生活に影響はないとした上で、正確な情報を把握し、観光を楽しんでもらいたいと呼びかけています。

2024年10月5日 放送

2024年10月5日

輪島市大規模火災の教訓

2024年元日、能登半島地震で発生した石川県輪島市の「輪島朝市」周辺の大規模火災は、4万9000平方メートルに及ぶ広範囲な市街地で、住宅などおよそ240棟が焼失しました。出火原因について消防庁消防研究センターは「地震の影響により電気に起因した火災が発生した可能性が考えられるが、具体的な発火源、出火に至る経過及び着火物の特定には至らない」との結論になりました。これは7月の報告書によるもので、消防隊の活動状況等から震度6強で倒壊した輪島市河井町(かわいまち)の2階建て木造建物1階東側から出火したと考えられます。電気配線に溶けた痕跡が認められましたが、具体的にどのように出火に関与したかは判断できませんでした。


延焼が拡大した要因、又は可能性があるものとしては4つ考えられます。1つ目は「消防水利の不足」です。地震後の断水により消火栓が使用不可能になり、又建物倒壊により使えなくなった防火水槽が4基ありました。加えて市街地の西側を流れ輪島港に注ぐ河原田川の水位が低くなり、大津波警報の発表により、川や海からの取水が困難になりました。2つ目は「建物防火性が低い状況」です。道路に面した建物には外壁面が板張りの古い木造住宅が多く見られました。幅員4m未満の道路や路地が多く、建て替えが進まなかった可能性があります。3つ目は「地震による建物の倒壊」です。倒壊により隣の棟との間隔が狭くなり燃え移りやすくなったことが考えられます。4つ目は消火活動にあたった消防職員による目撃情報から火の粉による出火「飛び火」です。


輪島市の1月1日午後6時の風速は1.3m。強風下でない場合でも、地震・津波発生時には住民が避難し火災の発見が遅れ初期消火できず、大火になる可能性があることが改めて示されました。報告書では今後の消防防災対策として「津波浸水想定区域での建物耐震化の促進」「木造密集地域での耐震性貯水槽の優先的整備」「ドローンや高所監視カメラによる災害状況の把握」「空中消火計画の策定」等を提言しています。岩手でも火災を拡大させない為の取り組みを進めていかなければなりません。

2024年9月28日 放送

2024年9月28日

2024年台風5号と滝ダムの事前放流

台風5号は2024年8月10日から11日にかけて三陸沖をゆっくりと北上し、12日午前8時半頃に大船渡市付近に上陸。その後県内を北西へ進み、12日夜には日本海へ抜けました。県内は10日夕方から沿岸北部を中心に雨が降り始め、台風北側の湿った北東風が長時間吹き付けた沿岸部を中心に総降水量が400ミリを超えました。48時間降水量の最大値は久慈市の下戸鎖で平年の8月の2倍を上回る481.5ミリとなる等、4つの地点で観測史上最大を記録しました。


台風の上陸に備え事前放流を行い、住民を守ったのが久慈市小久慈町の「滝ダム」です。市内を流れる長内川の水害を防ぐことと水力発電を目的に1982年に建設されました。県管理のダムでは貯水量の調節を行う為、上流の降雨量を3日先まで予測しています。台風直撃の3日前、その累計雨量がダムの基準の水量を超える予報を受け、ダムを管理する県は県内で初めての「事前放流」に踏み切りました。大雨が予測される場合に発電等、利水の為に確保した水を放流し、ダムの貯水位を下げる操作です。


滝ダムは8月10日から11日にかけてゲートを開放して「事前放流」を行い、台風上陸前にダムの基準とする最低水位54.3メートルを更に9.4メートル低減させました。8月12日午前10時23分、降り続いた雨によりダムは満水直前となりその安全性を確保する為、流れ込む水量をそのまま下流へと流す「緊急放流」が始まりました。又氾濫の危険性が高まった為、直後の午前10時30分には流域地区に、県内で初めて「緊急安全確保」が発令されました。今回の台風により滝ダムのピーク時の水位は最大で34.3メートル上昇して79.2メートルとなり、一時的に貯めることができる最高水位82メートルまで残り3メートル程に到達しました。又下流の長内橋の観測所では4.33メートルの水位を記録し、氾濫が始まるとされる水位まで残りわずか5センチまで迫りました。河川の氾濫を防いだ事前放流。洪水への備えは、流域住民の避難とダムの治水コントロールがカギとなります。

2024年9月21日 放送

2024年9月21日

複雑な動きをした2024年台風10号

9月8日、IBCまつりの来場者から質問を頂きました。『台風10号はなぜ当初の予想と違ったコースを通ったのでしょうか。又なぜゆっくり進んだのでしょうか』。ありがとうございます。2024年台風10号の進路を振り返ります。8月22日の発生当初は関東から東海を直撃する予想が出されていました。その後、進路が西寄りに更新されて、最終的には29日に鹿児島県に上陸。四国を横断し、9月1日に東海道沖で熱帯低気圧に変わりました。予想が難しかった理由の一因が、上空に強い寒気を伴っている低気圧の一種「寒冷渦」でした。前線を伴わず、上空で吹いている偏西風と呼ばれる強い西風が通常の流れから切り離されることによって生じます。今回は北へ進んでいた台風が、列島の南側に張り出した太平洋高気圧に進路を阻まれた上、台風の西側にある寒冷渦の影響が強まったことから、引き寄せられるような形で西寄りに進みました。


台風は渦を巻いているだけで、自力ではほとんど動くことができません。地球の自転の影響でゆっくり北に進む程度です。特に夏は台風を流す上空の風が弱いことから不安定な経路をとったり、高気圧に進路を阻まれて停滞したりするのです。今回の台風10号は鹿児島県に上陸後、東海道沖で熱帯低気圧に変わるまで3日かかりました。これまでの台風は、どこかのタイミングで偏西風が南下してスピードが上がり、それと共に温帯低気圧化していました。今年は太平洋高気圧が日本の北東方向で強く、偏西風は北海道付近を流れたままでした。その為、比較的遅い周辺の風に流され、ゆっくりと本州を縦断することになりました。


さて台風の進路図について改めて確認です。予報円は予報した時刻に、円内に台風の中心が入る確率が70%という意味です。予報円の広さは後半になるほど広くなります。「台風が巨大化する」と思っている人がいますが、台風の大きさの変化を表すものではありません。位置の誤差が大きくなるのです。今回の台風10号では特に後半の予報円が広く、信頼度が低いことを表していました。予報円の信頼度が低い原因は、台風を移動させる上空の風が弱いことによります。

2024年9月14日 放送

2024年9月14日

盛岡の記録的大雨

県内は2024年8月25日及び27日、28日の夕方から夜にかけて局地的に記録的な大雨となりました。特に27日夜は内陸で、非常に激しい雨が同じ場所で降り続く線状降水帯が発生し、盛岡の1時間降水量は最大で68ミリを観測。薮川の1時間降水量は最大で99.5ミリ、1日の降水量は211.5ミリに達し、いずれも観測史上最大を記録しました。日本海から北日本には秋雨前線が停滞。高気圧の縁や、西日本に接近した台風10号の周囲をまわる暖かく湿った空気の影響で前線の活動が活発になり、断続的に雨が強まったものです。

27日夜は盛岡市で記録的短時間大雨情報が3回出されました。数年に一度程度しか発生しないような短時間の猛烈な大雨を、雨量計や気象レーダーにより観測したり解析したりした時に発表されます。雨量基準を満たし、且つ、大雨警報発表中に危険度分布であるキキクルの紫色「危険」が出ている場合に出されます。午後7時10分、北部付近で約100ミリ。午後7時20分、南部付近で約100ミリ。午後8時20分、北部付近で約100ミリ、藪川で100ミリです。これは土砂災害や浸水害、中小河川の洪水災害の発生に繋がるような雨量です。

実際、この大雨では山間部を流れる北上川上流の米内川が氾濫し、橋が流失するなどの被害がありました。又同じく北上川上流の中津川ではいつ水が溢れてもおかしくない危険な状況でした。国土交通省岩手河川国道事務所によりますと、27日の山岸観測所の水位は午後6時の時点で32㎝でした。しかし大雨により水位が一気に上昇。午後10時には2m73㎝と氾濫危険水位である2m70㎝を超え、午後10時40分には2m90㎝と建物2階の床に達するような水位を観測。氾濫危険情報が発表されました。尚これまでの最高水位は2002年7月11日の2m30㎝でした。川幅が狭い上流は大雨が降ると直ちに増水し、氾濫するまでの時間は下流に比べて早くなります。川の状態が急激に変わりやすいのです。記録的短時間大雨情報が発表されたら「キキクル」を確認しましょう。

2024年9月7日 放送

2024年9月7日

2024年台風5号と2016年台風10号

台風5号は2024年8月10日から11日にかけて三陸沖をゆっくりと北上し、12日午前8時半頃に大船渡市付近に上陸。その後県内を北西へ進み、12日夜には日本海へ抜けて、13日未明に熱帯低気圧に変わりました。県内は10日夕方から沿岸北部を中心に雨が降り始め、台風北側の湿った北東風が長時間吹き付けた沿岸部を中心に総降水量が400ミリを超える記録的な大雨となりました。48時間降水量の最大値は久慈市の下戸鎖で平年の8月の2倍を上回る481.5ミリとなる等、4つの地点で観測史上最大を記録しました。


過去に同様のコースを通ったのが2016年8月の台風10号です。30日朝に関東の東の海上から三陸沖へと進み、午後5時半頃に大船渡市付近に上陸。その後県内を北西へ進み、夜9時頃には日本海へ抜けて31日午前0時に温帯低気圧に変わりました。沿岸では300ミリと大雨となり、岩泉町では小本川が氾濫。高齢者施設の入所者が死亡する等、大きな被害が出ました。今回の台風5号は台風10号のような大雨になりましたが、大規模な河川の氾濫等には繋がりませんでした。


2つの要因が考えられ1つ目は「雨の降り方」です。「岩泉」の総降水量はどちらの台風でも251ミリでした。1時間降水量の最大値は、台風5号では16.5ミリとやや強い雨でした。時速15キロと動きが遅く比較的緩やかに降り続けました。一方時速50キロで進んだ台風10号の最大値は70.5ミリ。観測史上1位となりました。短時間に非常に激しい雨が降り、河川の処理能力を超えたと考えられます。2つ目はその「河川の改修」です。川の水が堤防のある所で溢れることを「越水(えっすい)」、堤防がない所で溢れることを「溢水(いっすい)」といいます。県によりますと台風10号で小本川では広く越水・溢水が発生し、床上723戸、床下121戸の家屋等が浸水しました。その後堤防の整備や川幅を広げる工事により、今回の台風5号では両河川で住宅の浸水被害が発生せず河川改修の効果を確認できた、としています。頻発する東北の太平洋側から上陸する台風。今後も「河川の氾濫」「低い土地の浸水」「土砂災害」といった大雨災害への警戒が欠かせません。

2024年8月31日 放送

2024年8月31日

山形・秋田豪雨

2024年7月25日から26日明け方にかけ、梅雨前線に向かって暖かく湿った空気が流れ込んだ影響で、山形県と秋田県を中心にこれまでに経験したことのないような大雨に見舞われました。消防庁によりますと8月9日現在、死者行方不明者4人、住宅被害は1153棟に上りました。

私は8月18日災害ボランティア活動に参加しました。場所は盛岡から車で約2時間半、山形県の北部「鮭川村(さけがわむら)」です。名前の由来である清流「鮭川」が流れ、山々に囲まれた人口約3700人の村です。山形地方気象台によりますと7月25日に山形県では線状降水帯が発生。鮭川村には大雨特別警報が出され、48時間積算解析雨量が約500ミリを記録しました。県によりますと鮭川村では全壊4棟を含む72棟の住宅被害がありました。

村に入ると集落の至る所で山肌がえぐられたように崩れ、又路肩が損傷し片側交互通行の道路が複数ありました。この日の活動には宮城や福島などから18人が参加しました。1件目は裏山が崩れた民家です。住宅被害は免れましたが畑に土砂が流入し、自宅脇のコンクリートブロックが壊れていました。作業は散乱しているブロックの処分で、所々欠け、穴に泥が入り込み更に重みが増しています。一個一個軽トラックの荷台に積み込み、災害ごみ置き場に搬入しました。依頼主は『雨が降る度に、また土砂が流れてきそうで怖いです』と不安を訴えていました。2件目は山崩れで全壊した住宅です。家人は無事で避難所で生活しているとのことでした。作業はまず流入した泥を一輪車で庭に運び出します。そして乾いた分を土嚢袋に詰めると重さ20キロ程になります。それをまた裏に積み上げ、斜面から染み出している水が敷地内に流れ込まないように並べていきます。土砂が直撃した2階建て家屋の1階の部屋は押し潰され、窓は無く、茶色く汚れた仏間が庭から見えました。作業後、帰りに村内の羽根沢温泉で疲れを癒しましたが、一部の旅館では流れ込んだ土砂の撤去を3~4人で行っていました。日常を取り戻すには、まだ時間がかかりそうです。

2024年8月24日 放送

2024年8月24日

南海トラフ地震臨時情報

2024年8月8日午後4時43分頃、日向灘を震源とする地震があり、宮崎県南部で震度6弱を観測しました。震源地は南海トラフ巨大地震の想定震源域内で、気象庁は発生の可能性が平常時に比べて相対的に高まっているとして、「南海トラフ地震臨時情報」を発表しました。最大規模の地震が発生した場合、関東から九州の広範囲で強い揺れが、関東から沖縄の太平洋沿岸で高い津波が想定されるとして1週間ほど「注意」を呼びかけました。臨時情報の発表は2017年11月の運用開始以来、初めてでした。気象庁によりますと震源の深さは30キロ、地震の規模はマグニチュード7.1と推定されます。気象庁は宮崎県や愛媛県などで一時、津波注意報を発表。宮崎県では50センチ程の津波を観測しました。消防庁によりますと16人がケガをし、80棟の家屋の被害がありました。臨時情報発表を受け、被害が想定される地域では万が一への備えが本格化しました。東海道新幹線は速度を落として運転し、和歌山県白浜町が海水浴場を閉鎖するなど、お盆の観光・帰省シーズンに影響が出ました。そして臨時情報発表から1週間後の8月15日。想定震源域内で大地震に繋がる可能性がある地震活動や地殻変動は観測されなかったことから、政府としての注意の呼びかけを終了しました。

気象庁が説明する「平常時より相対的に高まっている」は過去の地震の統計から、今回と同規模の地震では、1週間以内に更に大きな地震が発生した例は数百回に1回あり、平常時より発生する可能性が数倍高い状態だ、ということでした。臨時情報が出されたからといって必ず巨大地震が発生することをお知らせするものではありません。巨大地震発生を予知することはできませんが、統計的に発生のしやすさを予測することは可能なのです。又南海トラフ地震発生前に、必ずしも異常な現象が観測されるとは限らない為、臨時情報を発表していなくても、南海トラフ地震が発生することもあります。

日本国内では、いつどこで強い揺れを伴う地震が発生してもおかしくありません。岩手に住む私達も、家具の固定、持ち出し品の準備、避難場所・経路の確認、連絡方法の確認など、日頃から地震への備えを心掛けることが大切です。

2024年8月17日 放送

2024年8月17日

隠された《東南海地震》と《三河地震》

終戦から79年を迎えました。戦時下、報道管制が敷かれ、国民が知ることができなかった2つの大地震があります。日本歴史大事典によると《東南海地震》は1944年(昭和19)12月7日午後1時35分、静岡県沖から紀伊半島東南部を震源として発生した地震でマグニチュードは7.9。静岡・愛知・岐阜・三重各県の被害が大きく、太平洋戦争末期の敗色濃い中で中京工業地帯への打撃は深刻でした。被害の情報は厳重な秘密とされ、その全容は現在も十分に解明されていません。死者1200人以上、全壊住宅2万棟以上と考えられています。三重県・和歌山県を中心に津波による被害も大きく、200人近い死者が出ました。その約1か月後の1945年(昭和20)1月13日午前3時38分、愛知県南部の渥美(あつみ)湾を震源とする《三河地震》が発生しました。マグニチュード6.8という規模の割には被害が大きく、湾岸部を中心に死者2306人、全壊7221棟という報告もあります。

内閣府の資料によりますと、時の政府は地震災害に関しての詳細な記事を書くことを許しませんでした。日本の中枢にあたる地域が大震災に見舞われたことを公表すれば、国民の戦意喪失につながるのではないかと、軍部は懸念を深めていたのです。東南海地震の翌日12月8日は、日本では日米開戦3周年にあたり、新聞の一面トップは昭和天皇の軍服姿で、戦意高揚の為の標語が並ぶという戦争一色の紙面でした。当時の中部日本新聞、後の中日新聞は、物資不足の為、一日に2ページ印刷されるだけでしたが、8日は特別に4ページ印刷されました。その3ページ目に小さく「天災に怯まず復旧」「愛知、三重、岐阜とも大きな被害は無い」との20行程度の内容でした。

一方その後、復旧を支援する為に「被災者への災害対応・生活支援情報」や「余震に関する情報」などについては詳細に伝えていました。報道管制下においても、できる範囲で行っていた地元紙の記事。災害からの立ち直り、地域社会の再生を支援する「被災者の視点に立った災害報道」の重要性を歴史が示しています。

2024年8月10日 放送

2024年8月10日

川の事故を防ぐ

警察庁のまとめによりますと、2019年から2023年の7月8月の2か月間に、水辺で亡くなったり行方不明になったりした中学生以下の事故の過半数は川で発生しています。しかも水泳と水遊びが4分の3を占めています。


川での事故を防ぐ為にはどんな点に気を付ければよいのでしょう。B&G財団が挙げている、身を守る5つのポイントからお伝えします。1つ目は「水の深さ」です。流れの強さにもよりますが、川の中で腰まで浸かれば成人男性でも大抵は流されてしまいます。また流れが遅く浅い場所では岩に藻が生え滑りやすくなっています。脱げやすく踏ん張れないビーチサンダルは危険です。脱げないような踵のある履物にしましょう。2つ目は「大きな岩」です。岩の周りは流れが複雑になっています。周囲は深く掘れているケースが多く、岩の横に逃げる水流はスピードが速くなります。そして知っておきたいのが、水面下に隠れている岩です。乗り上げて激突し膝やスネを強打する危険があり、近づかないのが賢明です。万が一、流された場合は仰向けの姿勢で、岩から頭を守る為、下流に足を向けて泳ぎます。3つ目は「急激な増水」で、ポイントは草です。草も生えない砂地は、普段は水面下の可能性が高く、なぎ倒された草は、最近増水があった証拠です。遊んでいる場所が晴れていても、上流が大雨で、時間が経って水量が増加することがあります。天気予報に留意しましょう。4つ目は河川を横断する、人工的な「堰堤」です。直下の下流側に「滝壺」のような流れが発生していて、水深が浅くても強烈な逆流があります。この逆流にはまると、下流に流されることなくその場で水に巻かれ、死亡事故に繋がる可能性が高いのです。浅くても堰堤の上を歩かないことです。5つ目は「岸壁」です。川岸の岩盤には、増水や風雨に長時間さらされ非常に脆くなっている場所があり、いつ崩落するかは誰にもわかりません。岩盤の真下に近づいたり、不安定な大きな岩に触れたりしないことです。


お盆で川遊びをする機会があるかもしれません。楽しい思い出を作る為に、危険ポイントを親子で確認し、安全に遊びましょう。

2024年8月3日 放送

2024年8月3日

被災地発 米粉スナック

東日本大震災の津波で被災後、復興を遂げ、農業の6次産業化に取り組む男性がいます。「ひころいちファーム」の代表、村上一憲(かずのり)さんです。大船渡市内では米を、陸前高田市内では野菜の栽培を手がけ、生産から加工、販売迄を行っています。社名の由来となった大船渡市日頃市町で生まれ育った村上さんは2010年2月に起業。しかし開業からおよそ1年後、東日本大震災の津波で、陸前高田市内の自宅に加え田畑を失いました。村上さんは『ショックでしたが、リスタートするチャンスだと切り替えました』と、当時の心情を打ち明けます。

農地の復旧に取り組みながら開発したのが、米粉を使ったスナック「ポリフリー」です。「ポリ」は食感の「ポリ」、又小麦をはじめとした穀物のタンパク質の主成分であるグルテンを使用しない所謂グルテン「フリー」から名付けました。きっかけは、震災時の避難所で、アレルギーのある方が食事を制限されている、という声を耳にしたことでした。2022年に誕生した「ポリフリー」は、今では自社工場で1か月平均1万パックを製造。工場に併設された販売所や陸前高田市内の道の駅で販売されている他、首都圏を中心とした高級スーパーやデパート等、取扱先は着実に増えています。県を代表する特産品の開発を目的に毎年実施されている「IWATE FOOD&CRAFT AWARD2023」のフード部門では、最高賞にあたるグランプリを受賞しました。

「ポリフリー」は三陸産の食材にこだわり5種類の味で展開。人気の「えびせん風」はアレルギーに配慮し、エビではなく「桜こあみ」を原料にしています。東京の販売会で、アレルギーのある女性がこの商品を食べられ感動したことがあり、村上さんは『自分も感動した』と振り返ります。農業の楽しさ、面白さを伝えたいと「ひころいちファーム」を始めた村上さんは『加工品にすることで日本全国に私の思いを届けられます。食の大切さ、アレルギーで困っている人に皆と同じものを食べて楽しんでもらえれば』と商品に込めた思いを語っています。村上さんは、これからも、誰もが安心して食べられる食を、被災地から発信していきます。

2024年7月27日 放送

2024年7月27日

深部体温と熱中症

日本(にほん)救急医学会は熱中症の予防や治療に関する緊急提言を発表し、体の奥の深い部分の体温「深部体温」が40度以上で意思疎通が取れない患者は最重症群に当たるとする新しい分類を公表しました。2024年7月8日に開いたオンライン記者会見で発表したもので、患者の体に水分を吹きつけて、扇風機等で熱を奪ったり、冷たい水のプールに入れたりして体を即座に冷却する重要性を強調しました。日本(にほん)医科大学の横堀将司(よこぼりしょうじ)教授は、連日の猛暑を「既に災害を超えた状況」と説明し、乳幼児や高齢者、それに持病を持つ人は脱水を招く可能性もある為、特に注意が必要だと強調しました。

熱中症にかかる方を減らし、亡くなってしまう方をゼロにすることを目指し「熱中症ゼロへ」というプロジェクトを推進している日本気象協会でも、暑い環境で運動や作業をする際は、深部体温を下げること、上げないことを訴えています。ポイントの一つが「冷たい飲み物を飲む」。5℃から15℃の冷たい飲料は深部体温を低下させ、胃にとどまる時間が短いことで速やかに吸収される為、深部体温が上昇している場合や、大量の汗をかき水分を失っている場合に効果的です。但し胃腸への刺激や負担がかかる場合もある為、一度に大量に飲みすぎないよう注意してください。軽い脱水状態の時にはのどの渇きを感じない為、のどが渇く前、あるいは暑い場所に行く前・運動前から水分を補給しておくことが大切です。また、大量に汗をかいた場合には塩分を失っていることもある為、水分と一緒に塩分も補給するようにしましょう。

その他、挙げているポイントが「手のひらを冷やす」です。手のひらや足の裏、頬には、深部体温をコントロールする、動脈と静脈を結ぶ血管の部位があります。運動時や運動後、暑さを感じる帰宅後などに、手のひら、可能であれば肘までを水に浸けるなどして冷やし、深部体温を下げることが、熱中症の予防・対策につながります。

2024年7月20日 放送

2024年7月20日

震災イチョウ

今日は関東大震災で生き残った、千代田区大手町にある「震災イチョウ」についてです。内閣府によりますと、1923年(大正12)9月1日、マグニチュード7.9の巨大な揺れが発生。昼食の為に火を使用する時間帯と重なったこともあり倒壊した家屋から次々に出火、首都圏は壊滅的な被害を受けました。これを受け、震災復興事業は世界的にも前例のない大規模なものに。約3300ヘクタールの土地区画整理事業が実施され、鉄筋コンクリート造の小学校や鉄製の橋梁に代表される公共施設やインフラ、隅田公園や山下公園など大小の公園、今日の東京の骨格をなす174路線、260キロにわたる幹線道路など、近代的な街並が整備されてきました。

復興希望のシンボルが大手濠緑地にある「震災イチョウ」です。東京駅から徒歩約16分、2024年6月26日に訪れると、蒸し暑い空気の中、樹齢約170年の巨木が青々と葉を茂らせていました。幹の周囲は約3.6m、そのほぼ3分の1に焼けた跡が残っています。火傷のように白と緑の内側の層が露わになり一部が黒く焦げているのです。案内板によりますと、かつては文部省の構内、現在のパレスサイドビル付近の一ツ橋一丁目一番一帯にありました。関東大震災によって一面焼け野原となった都心にあって奇跡的に生き残りました。その後、復興事業に伴う区画整理によって切り倒されることになった際、当時の岡田武松(おかだたけまつ)中央気象台長がこれを惜しみ、何とか後世に残したいと思い清野長太郎(せいのちょうたろう)帝都復興局長官に申し入れたところ、その意義を理解しこの地に移植されました。

気象庁が千代田区大手町1丁目にあった際「震災イチョウ」は生物季節観測の標本木でした。しかし本庁が2020年11月、港区虎ノ門3丁目に移転。それに伴い気温などの観測地点も約900m西の「北の丸公園」に移動しました。現在はイチョウの観測も北の丸公園で行われています。イチョウは長寿で、推定樹齢1000年を超える樹もあります。標本木の役割は果たしましたが「震災イチョウ」は、これからも史実を未来へ伝えます。

2024年7月13日 放送

2024年7月13日

盛岡の月曜日の雨

先月の盛岡は過去100年で一番暑い6月でした。県内は高気圧に覆われて、晴れて気温の高い日が多くなりました。盛岡地方気象台によりますと月平均気温が21.1℃で、1924年(大正13)の観測開始以降、最高を更新しました。又、30℃以上の真夏日は12日から16日に6月として初めて5日連続で観測する等、過去最多の9日間となりました。他の地域も暑く、月平均気温は江刺21.6℃、北上21.5℃、一関21.2℃など、盛岡を含め12か所で過去最高になりました。沿岸は大船渡が19.9℃と去年に次ぐ過去2番目、宮古は19℃で過去3番目の高温でした。


又岩手の梅雨入りは平年より遅れました。仙台管区気象台は6月23日ごろ、東北地方が梅雨入りしたとみられると発表しました。東北北部では平年より8日、去年より14日遅い梅雨入りでした。梅雨入りが遅れたのは、太平洋高気圧の北への張り出しが例年に比べて弱かったことが背景にあります。梅雨前線は太平洋高気圧に押し上げられる形で北日本に近づきますが、今年はなかなか北上しなかったのです。


一方盛岡では毎週月曜日に雨が降っています。7月8日まで10週連続です。気象庁のHPでは過去の気象データが見られます。尚日ごとの降水量の欄には雨量の数字の他に「--(横線2本)」と「0.0」という表示があります。「横線2本」は「該当現象がない」つまり降水がない場合で、「0.0」は「降水量が0.5ミリに足りない場合」です。5月6日は「0.5ミリ未満」、13日は「17ミリ」、20日は「9ミリ」、27日は「1ミリ」、6月3日は「4ミリ」、10日は「0.5ミリ未満」、17日は「3ミリ」、24日は「5.5ミリ」、7月1日は「14ミリ」、そして8日は「0.5ミリ」。日中降っていなくても、早朝や深夜ではパラパラと僅かでも降っています。この雨の周期も梅雨入りが遅れた要因と関連すると思われます。梅雨入り前は太平洋高気圧の北への張り出しが弱く、北日本は移動性高気圧と低気圧が交互に通る形が続きました。その為、雨の周期に月曜日の盛岡が図らずも当たった形です。そして梅雨入り後は、曜日に関係なく雨の降りやすい日が続いています。

2024年7月6日 放送

2024年7月6日

鎮守の森

公益財団法人「鎮守の森のプロジェクト」は、何百年もその土地を支えてきた常緑広葉樹の鎮守の森をモデルにした自然災害に負けない森づくりを提唱しています。ポイントは人が管理しなくても自然に循環する、気候や風土に適した木を選ぶことです。植樹地では低木のヤツデ、低木と高木の中間のヤブツバキ、シロダモ、高木のタブノキ、スダジイ、ヤマザクラのように、自生している種類とその割合を調査します。割り出した10数種類の苗木を、成長を考慮した盛り土の上に植樹します。苗木は1年で1m程成長、およそ20年で自然の力で永続的に循環する森になります。除草や枝打ち等のメンテナンスコストもかからないということです。

水分を多く含んだ常緑広葉樹は、火災時には延焼を防ぎます。関東大震災では板塀に囲まれた陸軍被服廠跡地、現在の横網町(よこあみちょう)公園におよそ4万人が逃げ込みましたが、火災旋風が起こり3万8000人もの命が奪われました。そこから僅か2キロに位置する旧岩崎別邸、現在の清澄(きよすみ)庭園にはおよそ2万人が逃げ込みましたが、敷地を囲うタブノキやシイ、カシ類の常緑広葉樹が火災から人々を守り、死亡者はありませんでした。

又根が絡み合いながら深く伸びた、その土地に適した種類の木は、津波の際に緑の壁となります。押し波のエネルギーを和らげ、水位も低下、避難時間を稼ぎ浸水面積や家屋の破壊を減少させます。引き波では家や車が沖に流されるのを食い止めます。東日本大震災で「高田松原」は7万本のマツの殆どが流されました。海岸沿いに植えられたマツは仙台平野等でも根こそぎ倒され、二次・三次の津波で数百メートルも内陸側に流され家々を破壊しました。しかし震災直後の植生調査で、土地本来の樹種である常緑広葉樹は大津波に耐えていたことがわかりました。大槌町や宮城県南三陸町等の鎮守の森はしっかりと残り、急斜面に生えているタブノキ、ヤブツバキ、マサキ等も津波に洗われて根が露出したものの倒れずに残っていたのです。「鎮守の森のプロジェクト」では、2018年8月に山田町田の浜で植樹祭を開催する等、災害から命を守る森をつくる活動を続けています。

2024年6月29日 放送

2024年6月29日

地震10秒診断

今日は防災科学技術研究所が提供するサイト「地震10秒診断」についてです。国の地震調査研究推進本部が作成した、将来日本で発生する恐れのある地震による強い揺れを予測し、その結果を地図上で表した「全国地震動予測地図」に基づいています。診断する地点が該当する250メートルメッシュを特定し、その場所で予想される一定の揺れに見舞われる、震度と確率を表示します。

IBC岩手放送のある「盛岡市志家町6-1」を入力し検索してみました。立っていることが困難になり、固定していない家具の大半が移動し倒れるものがある「震度6弱」が30年以内に起こる確率は4%でした。参考までに事故等の発生と比較すると、火災で罹災する確率1.9%、空き巣狙い3.4%ですので、この4%はそれよりも高い確率です。

震度6弱が発生した場合、ライフラインにはどのような影響が出て、復旧までにどれぐらいの日数を要するのでしょうか。過去の地震を参考にしたデータでは「停電日数2日」「ガス停止日数5日」「断水日数9日」でした。停電が続くと「テレビから情報を得られない」「通信障害でインターネットに接続することが困難になり、スマホが使えなくなる」「冷蔵庫が使えなくなり、食材が傷む」「冷暖房器具が使えなくなり体調を崩しやすくなる」「ATM、電子マネーが使えなくなる」などの恐れがあります。停電時の生活に必要なものとして「明かり」「ラジオ」「食品の保冷剤」「冬場は石油ストーブ」などがあると安心です。又ガスの停止が続くと「お風呂に入れなくなり不衛生になる」恐れがあり、感染症が懸念されます。備えとして「体拭きシート」「ドライシャンプー」があると良いでしょう。そして断水が続くと「水道水が使えなくなり飲料水の確保が困難になる」「自宅のトイレが使えなくなる」ことになります。仮設トイレも不足気味になり、行列に並ぶ必要があります。水は給水所などに行き確保しなければなりません。断水になった時の為に「飲料水の備蓄」「簡易トイレ」「水を確保する容器」を用意しておきましょう。地震への備えは、ライフラインへの影響をイメージすることで具体的になります。

2024年6月22日 放送

2024年6月22日

八甲田山雪中行軍遭難事件2

2024年5月14日、滝沢市にある陸上自衛隊岩手駐屯地史料館を訪れました。先の大戦の史料の他、「八甲田山雪中行軍遭難事件」の史料も展示されています。今から122年前の1902(明治35)年1月23日「青森歩兵第五連隊」が八甲田山での雪中行軍訓練中、猛吹雪に阻まれ総勢210人の隊員が遭難。199人が犠牲となりその内、岩手県出身者は139人と約7割に上ります。又生存者は岩手県出身者5人、宮城県3人、青森、秋田、山形各1人の計11人でした。岩手駐屯地の史料によりますと行軍に参加した岩手県出身者144人の内訳は「盛岡市6人」「岩手郡17人」「紫波郡13人」「稗貫郡10人」「和賀郡14人」「江刺郡12人」「胆沢郡14人」「東磐井郡20人」「西磐井郡11人」「下閉伊郡10人」「気仙郡11人」「上閉伊郡6人」です。

「新版 岩手百科事典」は行程について1月23日は『午後風雪激しく早くも進行困難となった。夜食のもちは凍結して石のようになり食うことができず、山の神の暴れる日と村民の恐れる翌24日、狂風起こり天地暗く猛吹雪、行軍隊は山中で進退窮まり結局死を賭して田代に向かう途中道を誤り全員谷間に転落し、神成(かんなり)大尉以下多数の凍死者を出した。この事件は日本陸軍空前の大事故として衝撃を与え、遭難者に対する同情は圧倒的だった。行軍隊が沿道村民の忠告を無視したとして、民間軽視の居丈高な軍の姿勢を批判する声も新聞に掲載された』とあります。

史料館の壁には生存者11人が前後2列に並んで写るモノクロの写真が掲げられています。そして生き残った1人・紫波郡彦部村出身の阿部卯吉さんが使用した両足の義足が展示されています。飴色の革製の長靴のような形状で、太股を覆う革を紐で結んで固定するものです。解説には『1月26日から30日まで炭小屋にて雪をかじりすごし1月31日救助隊に発見。両足…中央部より切断、右手…中指指掌(ししょう)関節から切断、左手…親指を除く四指第一節から切断 昭和38年7月29日死去(83才)』とあり、凍傷の凄まじさに震撼します。冬山の危険と備えの大切さを伝える岩手駐屯地史料館は、一般の方も見学することができます。

2024年6月15日 放送

2024年6月15日

予測精度が高まった土砂災害と線状降水帯に関する情報

今日は、より予測精度が高まった2つの大雨に関する情報についてです。予測精度が高まった情報の1つ目は「土砂災害警戒情報」です。基準となる範囲が、これまでの5キロ四方単位から1キロ四方単位に細分化され、土砂災害の危険度をより的確に判定できるようになりました。土砂災害警戒情報は土砂災害の危険性が高まった市町村に対して、盛岡地方気象台と県が発表するものです。近年の雨の降り方と災害の関係性を検証して見直し、2024年5月23日から空振り・見逃しの少ない基準となりました。新しい基準は、インターネット上で地図に危険度分布を示して提供する「岩手県土砂災害警戒情報システム」にも反映されています。県内では土砂災害警戒区域が全33市町村に併せて1万3305か所あります。今回の変更により市町村がエリアを絞り込んで避難指示を出すことができ、適切な避難につながることが期待されます。

2つ目は「線状降水帯」についてです。発生する可能性を12時間から6時間前に伝える気象庁の半日前予測はこれまで全国を11に分けた地方ごとに出されていましたが、スーパーコンピュータの予測精度向上により、5月27日からは「府県単位」を基本に呼びかけられています。線状降水帯は、湿った空気の流入が持続することで次々と積乱雲が発生し、線状の降水域が数時間に亘ってほぼ同じ場所に停滞するものです。2013年8月9日、線状降水帯が発生した岩手の県央部では、これまでに経験したことのない記録的大雨に見舞われました。雫石町では1日で264ミリと、8月1か月に降る雨量を上回りました。県内では2023年8月12日にも発生が確認されていて、今後も警戒が必要です。気象庁は予測範囲を市町村単位に狭めたり、発生の発表を最大30分前から2~3時間前に前倒ししたりする等、段階的に情報の改善を図る方針です。

大雨はある程度事前に予測し備えることができます。きめ細かい情報が提供されるようになりましたが、私達の防災対応はこれまでと変わりません。気象情報に留意し、ハザードマップ、避難所、避難経路の確認が大切です。

2024年6月8日 放送

2024年6月8日

豊沢ダムの水不足

花巻市の豊沢ダムでは冬の雪不足などの影響で貯水量不足が深刻化しています。花巻市の豊沢ダムは農業用水を供給する為の灌漑(かんがい)ダムで下流域約4250ヘクタールの生命線となっています。2024年6月4日午前9時現在の貯水率は25%で、過去30年の平均の半分以下に落ち込み、記録的な少雨で水不足となった1973年を下回る水準で推移しています。

盛岡地方気象台によりますと、1月は一時的に強い冬型の気圧配置となり気温が低く雪の日もありましたが、月を通して気温の高い日が多く、遠野で最も深い積雪が平年比9%の2センチとなり小さい方からの極値を更新する等、県内は少雪傾向が続きました。又2月も冬型の気圧配置は長続きしなかった為、月を通して内陸の降雪量はかなり少ない状態でした。山に積もった雪は天然の白いダムといえます。春から夏にかけて雨が少ない日が続いても、積もっていた雪が次第に解けて川に流れ出し、下流の水田を潤すのです。しかし今年は冬の少雪で雪解け水の流入が少なく、又4月以降も少雨の状況が続いたことが影響しています。

豊沢ダムから取水した農業用水の管理を行う豊沢川土地改良区では経験したことのない渇水に危機感を強め、6月2日から16日間、緊急の節水対策を講じています。豊沢ダムからの農業用水を南北の幹線用水路に分ける際、2日から5日毎に交互にゲートの片方を閉じます。順番の「番」に「水」と書く「番水(ばんすい)」と呼ばれるこの通水は、土地改良区ができた1950年以降で初めての実施となります。今後、まとまった降雨が見込まれない場合、6月10日頃には貯水率が約10%まで低下する予測となっており、ダム貯水量確保の為の苦渋の決断です。制限解除後は、田を乾かす「中干し」期間に合わせて7月1日から7日に計画していた全域の断水を、開始を前倒しし期間も長くし、6月21日から7月10日の20日間、実施します。豊沢川土地改良区の高橋憲幸(のりゆき)業務課長は『全域断水の期間、ダムから川への放水は最小になります。梅雨のこの時期に例年通りに雨が降り、貯水量が回復してくれれば』と今後の雨に期待していました。

2024年6月1日 放送

2024年6月1日

猛暑予想と熱中症対策

2024年5月21日、仙台管区気象台から、東北地方のこの夏の3か月予報が出されました。日本の南で太平洋高気圧が強く、日本付近には太平洋高気圧の縁を回って暖かく湿った空気が流れ込みやすい為、6月から8月の平均気温は「高い」予想です。又気象庁が5月10日に発表したエルニーニョ監視速報によりますと、エルニーニョ現象は近いうちに終息し、平常な状態となる可能性が高いと予測しています。近年の岩手で春にエルニーニョ現象が終息した直後の夏のデータを見ると、2019年は、盛岡の朝の最低気温が8月16日に28.3℃を記録する等、25℃以上の熱帯夜が4日ありました。又釜石では8月2日の37.3℃を最高に、35℃以上の猛暑日を6日観測する等、記録的な暑さでした。

猛暑が当たり前になった日本列島。環境省は災害級の熱波に備える為、4月24日から「熱中症特別警戒アラート」の運用を全国で始めました。気温と湿度などから算出する指標「暑さ指数」が都道府県内の全ての地点で35以上になると予想された場合、前の日の午後2時ごろに記者会見などで発表します。過去に例のない広域的な危険な暑さを想定し、健康に重大な被害が生じる恐れがあるとして最大限の予防行動を促します。「暑さ指数」が33以上とされる地域に発表される「熱中症警戒アラート」の一段上に位置付けられます。アラートが発表された際、市区町村は、冷房を備えた公民館など事前に決めた避難施設を開放します。環境省によりますと、2020年8月に埼玉県の全ての地点で暑さ指数34以上となった日がありますが、全域で35以上となったケースは近年無いとみられます。

熱中症対策には少量の塩分補給が必要ですが、取り過ぎは厳禁です。全国健康保険協会のサイトでは、汗で失った塩分を必要な分だけ取れる、スポーツドリンクレシピを紹介しています。材料は「水1リットル」「砂糖又ははちみつ大さじ4」「レモン汁大さじ1」「塩小さじ2分の1」です。特に汗をかくこれからの時期は、常に水分・塩分を補給できるよう、屋外・屋内を問わずドリンクを手元に置いておきましょう。

2024年5月25日 放送

2024年5月25日

岩手でオーロラ!

2024年5月11日夜、県内各地で、北の空に赤くぼんやり見える「低緯度オーロラ」とみられる現象が観測されました。IBCに寄せられた、一関市の室根山で動画を撮影した方によると、ピークは午後8時半頃で『赤く染まって見えるのは、あくまでカメラの画面越しで、実際に見ると空が赤いかな?程度でした』とのことです。又、写真を撮影した大船渡の方は『種山ヶ原に行くと目視では分かりませんでしたが、カメラで長時間露光することで赤い光と思われる部分を撮影することができました』とのことです。北海道や石川県輪島市などでもオーロラのような現象が観測されました。いずれも肉眼での確認は難しいものの、長時間露光で撮影できました。青森県中泊町(なかどまりまち)の展望台では午後8時40分頃から、北の方向に肉眼ではっきりと見えないものの、時折光の帯のようなものを観測、シャッターを15秒間露光したところ撮影できました。普段は観測されないイギリス南部やアメリカ、中国などでも出現しました。BBC放送によりますと、イギリスでは10日、各地で緑や紫の光のカーテンが観測され大勢の市民が写真を撮影していました。アメリカ・CNNテレビなどによりますと、アメリカでも東部メーン州や南部フロリダ州、中西部ミシガン州で確認されました。

ブリタニカ国際大百科事典によると、オーロラは極地方の夜空を彩る美しい光です。低緯度でも太陽活動が活発なときには見られます。太陽から飛来する電気を帯びた粒子が極地の大気圏に突入することによって発生するもので、磁気嵐や黒点などの太陽活動と密接な関係にあることが知られています。

5月11日、気象庁は地球の磁場である地磁気の大きな乱れ「磁気嵐」を観測したと発表しました。太陽の表面で起こる大規模な爆発現象「太陽フレア」が原因とみられます。情報通信研究機構などによりますと、5月8日から11日にかけて5つの分類のうち最大クラスの太陽フレアが少なくとも7回発生しました。それに伴って、太陽の大気にある高温の「コロナガス」が地球に向けて放出されているのも観測されています。世界の人々を魅了した夜空の光のショーは、太陽活動が関係しているのです。

2024年5月18日 放送

2024年5月18日

愛媛・高知 震度6弱

2024年4月17日午後11時14分頃、愛媛県と大分県の間にある海峡・豊後水道(ぶんごすいどう)を震源とする地震があり、愛媛県愛南町(あいなんちょう)と高知県宿毛市(すくもし)で震度6弱を観測しました。速報値では震源の深さは約50キロ、地震の規模を表すマグニチュードは6.4でしたが、その後、深さは39キロ、マグニチュードは6.6に更新されました。消防庁によりますと、この地震で愛媛県9人、高知県3人等、16人がけがをしました。

今回の地震は南海トラフ地震の想定震源域で起きました。南海トラフ地震が発生すると、静岡県から宮崎県にかけての一部では震度7となる可能性がある他、隣接する周辺の広い地域では震度6強から6弱の強い揺れになると想定されています。又、関東地方から九州地方にかけての太平洋沿岸の広い地域に10mを超える大津波の襲来が想定されています。南海トラフとは、駿河湾(するがわん)から遠州灘(えんしゅうなだ)、熊野灘(くまのなだ)、紀伊半島の南側の海域及び土佐湾を経て日向灘(ひゅうがなだ)沖までのフィリピン海プレート及びユーラシアプレートが接する海底の溝状の地形のことです。プレート境界では、海側のフィリピン海プレートが陸側のユーラシアプレートの下に1年あたり数㎝の速度で沈み込んでいます。その際、プレートの境界が強く固着して、陸側のプレートが地下に引きずり込まれ、ひずみが蓄積されます。陸側のプレートが引きずり込まれることに耐えられなくなり、跳ね上がることで発生する地震が「南海トラフ地震」です。概ね100~150年間隔で繰り返し発生しています。前回の発生から約80年が経過しており、次の大規模地震発生の切迫性が高まっていると言えます。

今回のマグニチュードは6.6。しかし南海トラフ地震との関係を調査する基準はマグニチュード6.8以上の為、気象庁は『規模が基準未満の地震』としています。又、今回はプレートの内部で発生している為、プレート境界で発生する南海トラフ地震とメカニズムが違うことから『現時点で巨大地震発生の可能性が急激に高まっているとは考えていない』とのことです。いつ起こるかわからない巨大地震。岩手に住む私達も改めて備えを確認しましょう。

2024年5月11日 放送

2024年5月11日

洞爺丸台風

2024年4月17日、JR青森駅から徒歩5分、白い4層のデッキに黄色い船底の「青函連絡船メモリアルシップ八甲田丸」を訪れました。1908年から1988年までの80年間、青森港と函館港を結ぶ連絡船として多くの乗客と貨物を運んだ八甲田丸を、青函連絡船廃止後に係留・保存した海上博物館です。3階には連絡船の模型の他、日本最大の海難事故「洞爺丸台風」の資料が展示されていました。

青森地方気象台によりますと、台風15号は1954年(昭和29年)9月26日午前2時頃、鹿児島湾から大隅半島北部に上陸。九州東部を縦断後、中国地方を時速100キロで横断、午前8時頃山陰沖から日本海に進み、更に発達しながら北海道に接近し、午後9時には最盛期を迎え北海道寿都町(すっつちょう)沖を通過、27日午前0時過ぎには稚内市付近に達しました。寿都では最大瞬間風速53.2mを記録しました。宮澤清治(みやざわせいじ)著「近・現代 日本気象災害史」(イカロス出版)や国立公文書館によりますと、青函連絡船・洞爺丸の函館出港予定時刻は午後2時40分でしたが、風速20mを超える強風の為、桟橋で待機していました。午後5時過ぎ、台風の目の中に入ったのか、風雨が収まり青空が夕焼けに染まり凪ぎました。午後6時40分に出港。その時、台風は奥尻島の西の海上を北上中で、出港する頃から減速したので、港の外では40mを超える強風と7~9mの激浪が長時間続くことになりました。洞爺丸は函館湾内七重浜(ななえはま)沖で転覆し、乗客・乗員1314名の内、乗客1041名を含む1155名が死亡しました。「あの天候の中でなぜベテランの船長が出航したのか」「台風の目が過ぎれば、吹き返しの暴風が襲うことを操船者は知っているはずだ」など多くの謎が残されました。

日本大百科全書によりますと、洞爺丸台風により、1946年から地質調査が始まっていた青函トンネル建設を急ごうという機運が急速に盛り上がりました。中央気象台は従来の業務の抜本的な見直しを行い、1956年7月1日に運輸省の外局となり気象庁が誕生。また台風の進路予報の精度を上げる為、アメリカで開発されたばかりの数値予報を導入し、日本初の大型計算機を1959年3月に稼働させました。数値予報は現在も台風予報に欠かせないものとなっています。

2024年5月4日 放送

2024年5月4日

八甲田山雪中行軍遭難事件1

2024年4月17日、青森市郊外にある「八甲田山雪中行軍遭難資料館」を訪れました。入口には雪の中、立ったまま仮死状態で救援隊に発見された後藤伍長の銅像があります。今から122年前の1902(明治35)年1月23日、「青森歩兵第五連隊」は緊迫する日露関係を背景に敵の上陸を想定し、八甲田山での雪中行軍訓練を行いました。しかし日本の観測史上最強の寒波が一行を襲います。行軍3日目の1月25日、北海道旭川では日本の最低気温の記録、氷点下41度を観測しています。猛吹雪に阻まれ総勢210名の隊員が遭難し199名が犠牲となりました。その内、岩手県出身者は139名と約7割に上ります。他宮城46名、青森5名、東京、神奈川等の出身者各1名が命を落としました。

悲劇を招いた原因について、資料館では3つの点を指摘しています。1つ目は「心構え」。行軍は青森市から田代までの約20キロを1泊2日の計画でした。一般の兵卒は綿の夏服で、足を唐辛子と一緒に油紙で包み込んで藁沓を履く程度で、危機意識が低かったのです。2つ目は「食糧」。この時、青森の最高気温が氷点下8度。携帯していたおにぎりは石のように凍結して歯が立たず捨てる者が続出。2日目の露営では既に食糧が尽き、体力の消耗へと繋がっていきました。そして3つ目は「疲労」。激しい風雪と寒気により進退窮まった一行は、露営を決し雪濠を掘りますが、一刻でも早い帰営をと、早朝5時の出発が2時に早まります。殆ど休憩を取らぬまま更に疲弊していったと考えられます。

一方同じ時、弘前第三十一連隊37名は、弘前から十和田湖・三本木を経由して田代から青森、弘前に帰る12日間の行程を1人の犠牲者も出さず無事、踏破していました。青森の山野と雪質を知り尽くした地元青森の出身者が大半を占め、経験のある地元の村民を案内人として雇い、加えて雪中行軍の研究と準備を十分に行ったことが背景にあります。冬山の危険と備えの大切さを伝える資料館は、青森駅からバスで約30分の幸畑(こうばた)にあります。

2024年4月27日 放送

2024年4月27日

ストップ、ドロップ&ロール

2024年4月20日に起きた宮古市刈屋の山火事について、宮古消防本部は、延焼拡大の恐れがなくなったとして、23日昼前、鎮圧を発表しました。シイタケの乾燥小屋から出た火が山林に燃え広がったもので、およそ180ヘクタールを焼きました。

春は空気が乾燥し、燃えやすい落ち葉や枯れ枝が堆積している為、林野火災が多発します。気を付けて頂きたいのが「着衣着火」です。ガスコンロや仏壇のろうそくの火が、着用している衣類につき燃え上がることを言い、屋内の他、屋外でも発生します。花巻市消防本部によりますと、4月5日、花巻市の70代の女性が自身の所有する畑で杉の葉を焼いている最中、火が衣服に燃え移り、首周辺や両手にやけどを負いました。このような時、きちんとした対処法を知らないと、火を消せないどころか、却って火が大きくなってしまい、最悪の場合、命を落とすこともあります。

自分が着ている衣服に火が燃え移ってしまった時には、脱いだり、水をかけたりする等して消火しましょう。水が無い場合の対処法として、盛岡地区広域消防組合消防本部が推奨しているのは「ストップ、ドロップ&ロール」です。これはアメリカの消防士達が考え、日本にも徐々に広まりつつある対処法です。「1.ストップ(止まって)」。火の勢いを大きくさせない為に走り回らず、その場に止まります。「2.ドロップ(倒れて)」。地面に倒れこみ、燃えているところを地面に押し付けるように体と地面をくっつけます。体と地面との間にできるだけ隙間ができないようにします。「3.ロール(転がって)」。地面に倒れたまま左右に転がります。転がることで燃焼に必要な酸素を絶ち消火させます。転がる時は、顔を両手で覆い、顔へのやけどを防ぎます。消費者庁によると平成 27 年から令和2年までの6年間に、着衣着火により572 人の方が亡くなり、そのうち8割以上が65 歳以上の高齢者でした。住宅内での事故の他、平成 27 年から令和元年までに92人の方が、屋外での着衣着火で亡くなりました。お互い、火の取り扱いには十分注意しましょう。

2024年4月20日 放送

2024年4月20日

大災害とラジオ

2011年3月11日の東日本大震災。IBCラジオは発災直後から5日間、24時間生放送を続けました。11日の夜11時、盛岡のスタジオでは釜石港湾事務所の衛星携帯電話と繋がり、職員が3階に避難している市民48人の名前を読み上げました。翌12日は個人の無事を伝えるメールも紹介、避難所で書き写した名簿を本社まで届ける方もいました。陸前高田にいた私はテレビの中継車の衛星電話を介しラジオにリポートを入れていました。それを聴いた方達がカレンダーの裏等に自分の名前や身を寄せている避難所名を記し『家族や仲間に伝えてほしい』と持参されました。数が少ない内はオンエアで伝えていましたが、それが何十枚となった為、スタッフが本社に持ち帰り放送しました。スタジオから読み上げた名前は1週間で2万3000人余りに上りました。極限状態の中「命の伝言板」といえます。

このラジオの安否放送の嚆矢となったのが、今から60年前の新潟地震でした。新潟地方気象台によりますと、1964年(昭和39年)6月16日、新潟県下越沖を震源とするマグニチュード7.5の地震が発生。被害は新潟・山形を中心として9県に及び、26人が亡くなり、1960棟の家屋が全壊しました。毎日放送報道業務部次長の大牟田智佐子さんの著書「大災害とラジオ」によると、新潟唯一の民間放送であったBSNラジオ(現在の新潟放送)は停電し、本社スタジオからの放送が不可能となった為、送信所を特設スタジオにして放送を続けました。当時、県警本部からの中継を担当していたアナウンサーによると、福島県会津若松から新潟に修学旅行に来ていた小学校の教頭先生が『全員無事でいるということを放送してくれ」』と言ってきたのがきっかけで安否放送を開始。この放送を聴いた「行方不明の肉親を捜す」被災者が、県庁の対策本部前に続々と列を作り、BSNラジオは災害情報と併せ「安否情報」を放送し続けました。特別放送は翌々日の未明まで37時間、尋ね人(安否情報)の数は5000人に及んだといいます。

相手の立場に立って考える「共感放送」をラジオの災害放送のパターンの一つとして挙げている大牟田さんは『混乱している最中でも、人の声に乗せて安心を届けるラジオに目を向けてほしい』と話しています。

2024年4月13日 放送

2024年4月13日

動物による地震予知

2024年4月2日午前4時24分頃、沿岸北部を震源とする強い地震がありました。県内では宮古市、久慈市、普代村、野田村、軽米町で震度5弱、盛岡市、大船渡市、花巻市等で震度4を観測しました。この地震で建物の外壁がはがれる被害や交通機関に影響が出ました。さて地震に関連して「動物たちに予知能力があるのでは?」というお便りがIBCラジオに複数、寄せられました。『飼い犬がキューン、キューンと煩いので起きていたら、下から突き上げるような強い地震があった』『キジが鳴いて騒がしかった』『金魚が水槽の底に固まっていた』又、東日本大震災を振り返り『山道で猿が真ん中に飛び出してきた10分後、大きな地震が来た』等です。

動植物は、音、電気、電磁波、匂いなどに対する感知力が人間などに比べ格段に優れているものがあることは知られています。気象庁は「地震は地中の広い範囲で、固い岩盤同士が破壊し合い、ずれ合う大きなエネルギーの集中や解放を伴います。その為、徐々に岩盤が変形し始めたり、地下水位が変動したりして、地震の発生前から非常に微弱で特異な音、電気、電磁波、匂いなどが周辺の地面や大気などに現れます。それを動植物が感じ取る可能性もあるのかもしれません」としています。しかし「動植物は地震以外の理由によって通常と異なる行動・反応をすることがあり、また、動植物自体についてまだわかっていないことも多く、ましてや地震の前兆現象も解明できていない部分が多いことから、地震の前にそうした異常行動・反応をする理由について科学的に説明できていない状況です」としています。

岩手で1年間に観測する有感地震は、2023年迄の過去10年の平均で約243回です。週に4~5日は震度1以上の揺れを観測していることになります。いつも県内のどこかで発生している地震を、日常体験している動植物の行動・反応と結びつけ、意味のある現象と考えてしまっている可能性もあるのです。もし仮に地震予知ができたとしても、地震を止めることはできません。大事なことは徒に恐れるのではなく、正しく恐れ、備えることです。

2024年4月6日 放送

2024年4月6日

災害時の偽情報・誤情報

2024年1月1日に発生した能登半島地震では、ネット上で大量の虚偽の情報、間違った情報が広がりました。日本ファクトチェックセンターは、災害時に広がる偽情報を5つに分類しています。1つ目は「実際と異なる被害投稿」です。「石川県のライブカメラのものとされる映像」は、東日本大震災の際、釜石市役所付近に押し寄せる津波の映像でした。2つ目は「不確かな救助要請」です。偽の救助情報を投稿しているアカウントは、直前まで被災地とは全く関係の無い投稿をしていたり、日本在住では無い例もあったりします。3つ目は「虚偽の寄付募集」です。投稿内にあった住所はマップで確認できず、詐欺の危険がある例がありました。4つ目は「根拠の無い犯罪情報」です。「全国から能登半島に盗賊団が大集結中」等、根拠不明の情報が拡散する例がありました。5つ目は「闇の勢力が大規模な爆発で人工的に地震を引き起こした」と主張する人工地震説等です。

ネット上で発信されている情報は、全てが真実とは限りません。人を混乱させる為にわざと発信された嘘の情報や、表示回数を増やし収入を得る為とみられる投稿、勘違いによって流通・拡散された誤った情報もあります。

総務省では、情報の真偽を確かめるチェックポイントを4つ挙げています。1つ目は「情報源」です。いつ、どこから発信されたものか。信用できるのか。根拠となる情報は今も存在しているか。海外のニュースや論文の場合、その情報源を確認、理解しているか、チェックしましょう。2つ目は「発信者はその分野の専門家かどうか」です。責任を持って発信しているものか。その人は過去に偽・誤情報を発信して批判されていないか。関連する情報や商品を売っていないか、確認しましょう。3つ目は「他ではどう言われているか」です。他の人や他のメディアはどのように言っているのか。反論している人はいないか。別の内容で報じているメディアや、誤りであることを指摘しているメディアはないのか、検証が必要です。4つ目は「その画像は本物かどうか」です。過去に撮影された、全く無関係のものではないのか、気を付けましょう。情報の正確性が判断できない場合には、安易に投稿・拡散しない等、日頃から注意して情報に接することが大切です。

2024年3月30日 放送

2024年3月30日

液状化(能登半島地震)

能登半島地震による液状化の被害が、石川、富山、新潟、福井の4県32市町村で少なくとも1724か所確認されたことが、防災科学技術研究所の調査で分かりました。2024年1月~2月に、自治体やSNSの被害情報や航空写真等を元に現地を調査し特定したものです。250m四方に液状化して砂や水が噴き出た場所が1か所でもあればカウントしています。特徴は大きく2つありました。1つは日本海側に多い「砂丘」に関連した低地です。河川から海に流れ込んだ砂は海岸に押し流され、季節風により内陸部に運ばれ堆積します。今回、砂丘の陸側で液状化が発生しました。もう1つは「震度5弱程度でも液状化の発生が顕著」だったことです。理由として、過去にも発生した液状化が起きやすい地盤だったことと、地震の継続時間が長かったことが考えられます。液状化を発生させる揺れを比較すると、熊本地震では10秒程度だったのに対し、能登半島地震では40秒程度と長く、液状化の拡大に影響した可能性があるということです。

液状化は岩手県も例外ではありません。県が2023年2月7日に公開した最大クラスの地震・津波被害想定の調査報告書によると、建物の液状化被害は沿岸地域と内陸の北上川沿いの地域で発生すると見込まれています。市町村別で、日本海溝モデルでは一関市150棟、久慈市100棟等、県内で680棟が全壊、東北地方太平洋沖地震では、一関市で200棟、久慈市で80棟等、620棟が全壊すると予測されています。

防災科学技術研究所では、液状化を防止する為の対策として、4つの工法を挙げています。「地下水を下げる、水を外に逃がす」「地盤を変形しないようにする」「地盤を固くする」「杭基礎等、構造的な対策」です。これらを実施する為には、地域や地盤、地下水の状況を確認し、最適な方法を検討する必要がありますが、個人での対策は非常に困難です。液状化発生の可能性がある広域の地域が一体となり、国・自治体の支援制度も活用して対策を行うのが最善策と提言しています。

2024年3月23日 放送

2024年3月23日

能登半島地震取材

能登半島地震から6週間が経過した2024年2月10日~14日、被災地に江幡平三郎アナウンサーが行ってきました。取材に入ったのは特に被害が大きかった奥能登と呼ばれる珠洲市、輪島市、穴水町(あなみずまち)、能登町(のとちょう)の2市2町です。


まず揺れの被害についてです。能登半島の先端にあたる珠洲市の海に近い地域では、瓦屋根の木造の建物が波打ちながらカーブし、1階部分を押し潰したような被害が目立ちました。九死に一生を得た男性は『家族で居間にいた所、揺れで玄関に放り出された。1階が潰れ、2階部分の下敷きになったものの、近くの住民らの助けを借りて辛くも脱出することができた』と語っていました。一方で少し離れた地域では、家屋倒壊がひどくない所もあり、地盤の違いか断層との位置関係か、被害の程度に差がありました。続いては津波です。砂浜が広がる海岸では庭木の高い所に漁網や海藻が絡みつき、津波の痕跡があちらこちらに見られた他、火災で焼失した家もありました。自宅が揺れと津波双方の被害を受けた男性は『建物が倒れ避難路が塞がれ、車で逃げようとすると渋滞。道路は段差ができて、皆さん、徒歩で逃げました』と揺れによる被害が、津波からの避難を困難にさせていた状況を証言しました。能登半島北部に位置する輪島市では広範囲に亘って海岸が隆起しました。輪島市門前町(もんぜんまち)では地震前より最大で4.1m、高くなり、海岸線が数百m海側に後退しました。漁港の外ではかつての海の底が砂丘のように広がり隆起したことが見てとれました。江幡アナは、海岸隆起自体は直接、人命や家屋被害に繋がることはないものの『地震の規模という点では最も今回の地震の特徴を表していると感じました』と話しています。


広範囲に亘る海岸隆起の漁業への影響は計り知れません。江幡アナは取材を通して『東日本大震災では津波被害が顕著だったのに対して、今回の能登半島地震では揺れの被害が大きかった一方で、津波被害、火災被害も加えた複合的な災害だったこと、そして半島という地理的条件がその後の復旧・復興の妨げになっている』と振り返っていました。

2024年3月16日 放送

2024年3月16日

防災を日常に

2024年2月4日、宮古市田老を訪れ、危機管理監の山崎正幸さんに、津波の避難場所である赤沼山を案内して頂きました。5分程斜面を上った標高30m地点は墓地の脇の狭い平場でした。眼下に民家や災害公営住宅、その向こうに高さ10m、14.7mの2つの防潮堤が見えました。避難路は雨に濡れても滑らないように足元をコンクリートにしている他、手すりを付け、夜間はソーラー電源の照明が点灯します。避難場所への上り口は7~8か所あり、山崎さんは『同じ場所に集まることで高台に避難した人が孤立しません。実際、東日本大震災の際は中学生はじめ300人以上がいたのでは』と解説します。辺りは杉林で建物はありません。命を守り津波の危険が去った後に高い所を通り、避難所として開設される田老第一小学校に移動するということです。山崎さんは元日に発生した能登半島地震は「地盤災害」だったと振り返り『普段の道路が通れなくなると移動手段が徒歩に限られます。歩いて逃げることをより伝えていかなければ』と気を引き締めていました。

宮古市は「1町内会に1防災士」を目標に、地域の防災リーダー育成に力を入れています。自治会長や民生委員等が民間資格の防災士を取得する際の経費を市が負担し、その数は県内トップの535人です。山崎さんは防災士養成により『地域の防災の意識が高まり、子ども達やお母さん達にも避難場所を知ってもらう為のまち歩きの取り組みをしている人もいます』『ハザードマップ配布で終わりではいけません。自分の行動に結びつけなければ』と訴えます。

そして山崎さんが強調するのは「防災を日常にする大切さ」です。その一例が避難場所である高台を散歩道にしているお年寄りがいるということです。『一人暮らしのお年寄りは自宅にいると話し相手がいません。避難場所になっているような所は人が集まりやすく、丁度良い散歩道です。そこに毎日通って挨拶をして話しをすることが、知らず知らずに避難訓練になっています』。この散歩のように防災が日常になれば、いざという時に慌てず安全に避難できそうです。

2024年3月9日 放送

2024年3月9日

沿岸北部の記録的大雪

2024年2月27日、沿岸北部では除雪が困難な大雪となりました。盛岡地方気象台によりますと、27日の24時間降雪量の最大値は、岩泉で64センチ、宮古で59センチ、久慈で51センチと記録的な大雪となりました。大雪では「停電」や「交通障害」に警戒が必要です。東北電力ネットワークによりますと、沿岸を中心に8つの市町村で延べ1万4244戸が停電しました。背景にあるのが大雪による樹木の接触や倒木です。まとまった雪が降ると、大雪で倒れた木が電線にかかったり、水分を含んで重くなった雪が電線に落ちたりして断線するのです。停電が全て解消したのは3月1日午後1時過ぎのことでした。

三陸国道事務所によりますと、田野畑村の田野畑中央インターチェンジ付近ではタイヤが雪に埋まって動けなくなった大型トラック2台他、一時、車20台ほどが立ち往生しました。大雪の際は道路の除雪が追いつかなくなり、車の「大渋滞」や「立ち往生」が発生する恐れがあります。特に交通量の多い国道や高速道路では大規模な立ち往生となり復旧まで時間がかかることがあります。盛岡地方気象台では、25日夕方から大雪に関する岩手県気象情報を出して、交通障害等に警戒するよう呼びかけていました。大雪の際は、不要不急の外出は避けた方が賢明です。

岩手県の沿岸では「西高東低」の気圧配置が緩み始める2月から3月にかけて、春の大雪に見舞われることがあります。宮古で2000年以降、24時間降雪量が30センチ以上を観測した日は、2003年3月8日62センチ、2004年3月6日41センチ、2010年3月10日35センチで、いずれも三陸沖を発達しながら北上する低気圧の影響でした。今回は発達しながら日本の東に進んだ南岸低気圧の後面・西側で、別な小さな低気圧が発生し三陸沖をゆっくり南下しました。前線を伴わない「ポーラー・ロー」と呼ばれるこの寒気内低気圧は、冬の嵐のような天気をもたらすのです。今シーズンは、冬型の気圧配置が長続きしない暖冬でしたが、季節は確実に春へと向かっています。

2024年3月2日 放送

2024年3月2日

電気火災(能登半島地震)

2024年2月15日、能登半島地震で発生した石川県輪島市の「輪島朝市」周辺の大規模火災について、総務省消防庁は、屋内の電気配線が地震で破損するなど「電気に起因した可能性が考えられる」という見方を示しました。消防庁消防研究センターが原因調査結果の速報を公表したもので、火元とみられる輪島市河井町(かわいまち)の建物内で、電気配線に溶けた痕跡が認められました。石油ストーブ等、火気を扱う器具は使用していなかったということです。詳しい火事の原因は引き続き調査中で、特定には至っていないとしています。この火事では、住宅等およそ240棟を焼損し、焼失面積は東京ドームよりやや広いおよそ4万9000平方メートルとしています。

近年、大規模地震が発生すると、電気に起因する火災が多く発生しています。出火原因が明らかなものの内、阪神大震災では約6割、東日本大震災では7割近くが電気によるものでした。電気火災を防ぐ為には、揺れを感知して電気を自動遮断する「感電ブレーカー」の設置が効果的ですが、周知不足や費用負担等の面から普及が進んでいないのが現状です。地震後、電気火災を防止する為に、避難する前にアンペアブレーカーを切ることが大切です。

電気火災は、大規模地震発生時以外にも増えています。東京消防庁によりますと、管内の火災件数は減少傾向ですが、電気火災の割合は令和3年が35.6%で、10年前と比べて13.8ポイント増加しています。出火原因を見ると、モバイルバッテリー等に使用されるリチウムイオン電池からの火災が多くなっています。又コンセントと電源プラグの間にたまった埃が湿気等で過熱、発火するトラッキング現象や、コンセント内部の接続部の緩みによる発熱、プラグをコンセントに差込む際、アース線やヘアピンを挟み込んでしまいショートして出火する火災が増えています。電気製品の使用の有無にかかわらず、コンセントにプラグを接続している時には通電しており、感電や火災の危険があります。普段から、使用している電気製品やコード、コンセント、プラグの点検が大切です。使用していない器具は、差し込みプラグをコンセントから抜くようにしましょう。

2024年2月24日 放送

2024年2月24日

大東大原水かけ祭りと江戸の大火

2024年2月11日、「大東大原水かけ祭り」が行われました。江戸で起きた大火をきっかけにおよそ360年前から防火を祈る祭りとして始まり、その後厄除けなどを願って受け継がれてきました。上半身裸の参加者208人が一関市大東町大原地区の目抜き通りを駆け抜けると、沿道に集まった人が勢いよく水をかけました。新型コロナの感染防止の為、2021年から3年間は主要行事の水かけが中止となっていて4年ぶりにいつもの光景が戻りました。

さてこの江戸の大火はどんなものだったのでしょうか。東京消防庁によりますと、明暦3年(1657年)1月18日、本郷5丁目、現在の文京区本郷の本妙寺から出火。火は2日間燃え続け、江戸の殆どを焼き尽くしました。10万人以上の死者が出たということです。同じ振袖を着た娘が3人も続けて病死したので、その振袖を焼こうとしたら、火のついた振袖が舞い上がって寺に燃え移ったので「振袖火事」ともいわれています。内閣府防災情報によりますと、延焼被害については諸説あるものの、地域的には、現在の千代田区と中央区のほぼ全域、文京区の約60%、台東区、新宿区、港区、江東区のうち千代田区に隣接する地域一体が焼失したと考えられる、とのことです。延焼拡大の要因には、80日以上雨が降っていなかった乾燥状態と、出火当時の前線通過と思われる強風が挙げられます。とりわけ最大の特徴は飛び火による延焼拡大の速さで、風下側に極めて速いスピードで直線的に延焼が進んだことが挙げられます。この火事の後、幕府は「定火消し(じょうびけし)」という消防組織を作り、様々な防火対策を講じました。火が燃え広がるのを防ぐ為、町の所々に空き地や土手を作り、道の幅も広くしました。商店等は燃えにくい土蔵造りにすることを勧め、町には火の見櫓を作り、各所に防火用水を置くようにしました。

江戸の火消しが火事場に赴く時は頭から水をかぶり、刺子半纏に水を含ませ、火を防ぎました。昔も今も変わらぬ火事の怖さ。大東大原水かけ祭りの起源は、防火への祈りを現代に伝えているのです。

2024年2月17日 放送

2024年2月17日

日本海側の津波の特徴(能登半島地震)

気象庁は2024年1月26日、能登半島地震で津波が押し寄せた新潟、富山、石川各県の沿岸部19地点で推定した津波の高さを発表しました。陸地を遡った「遡上高(そじょうこう)」や建物などに残された「痕跡高(こんせきだか)」の現地調査から最大は新潟県上越市の船見公園で5.8m、他石川県能登町白丸4.7m、上越市の直江津海水浴場4.5m、石川県珠洲市の飯田港4.3mでした。

今回の津波の特徴について、1月31日に行われた防災学術連携体の報告会で、東北大学災害科学国際研究所の今村文彦教授が講演しました。今村教授は、国内で大津波警報が発表された地震は昭和28年の房総沖地震、昭和58年日本海中部地震、平成5年北海道南西沖地震、2010年のチリ地震、平成23年東北地方太平洋沖地震、そして令和6年能登半島地震の6事例で『太平洋側は活動が非常に活発だが、近年は半分の3事例が日本海側』と警鐘を鳴らします。そして日本海側の津波の特性として「第一波が早い、最大波が遅れる、継続時間が長い」ことを挙げています。揺れの後に数分で津波がやってきて、最大波は10分から30分後、また継続時間が長い事例として、日本海側は大陸に囲まれた閉鎖海域で、今回『ほぼ2時間でロシア側、韓国側の大陸に到達。その後2時間かけて日本列島、又は他の地域に到達。24時間続いたので6往復していた。数十センチレベルの津波の変動が日本海沿岸各地で継続していた』と解説します。又、水深の深い富山湾では海底地滑りによる津波も発生していた可能性を指摘しています。断層から推定されていた津波は地震発生約5分後でしたが、気象庁では地震とほぼ同時に引き波を観測していたからです。実際1月15日~17日にかけ海上保安庁が富山湾の海底地形調査を実施し、過去の海底地形と比較した結果、沖合の海底谷(かいていこく)の一部の崩壊を確認しました。今村教授は『富山湾の海底堆積物が、地震で滑った際の動きで水位が下がり、津波が発生したのでは』と分析しています。

今回は避難意識が高く津波から多くの人命が守られました。今村教授は教訓として、地震後すぐ来襲する津波の場合の『避難に必要な施設、また冬場や夏場でも長い時間、避難する対応が重要』と訴えています。

2024年2月10日 放送

2024年2月10日

建物被害と耐震基準(能登半島地震)

2024年1月1日に発生した「能登半島地震」についてです。震度7を石川県志賀町(しかまち)と輪島市で、震度6強を七尾市、珠洲市(すずし)、穴水町(あなみずまち)、能登町(のとちょう)、震度6弱を中能登町(なかのとまち)、新潟県の長岡市で観測しました。

1月9日、東北大学災害科学国際研究所は、能登半島地震を解析、調査した報告会を行いました。遠田晋次(とおだしんじ)教授は、能登半島地震は「海で発生したイメージがありますが、内陸の活断層型の地震」で、気象庁が発表するマグニチュードとは違う「モーメントマグニチュード」で比べた場合、1995年の阪神大震災を引き起こした兵庫県南部地震の9倍の大きさの地震だったと解説します。地震動は短い周期の波によるガタガタとした揺れと、長い周期の波が伝わって生じるゆっくり繰り返す揺れとが同時に混ざっています。一般に周期が2秒以下の振動が主成分を占める地震動を短周期地震動と呼び、兵庫県南部地震ではこの1~2秒の地震波による建物への被害が大きくなりました。今回の地震について大野晋(おおのすすむ)准教授は、キラーパルスと呼ばれる「低層建物に影響が大きいとされる周期1~2秒の振幅は、穴水町、珠洲市の順に大きかった」と分析しています。又、柴山明寛(しばやまあきひろ)准教授は1月4日に穴水町、5日に七尾市で行った現地調査を踏まえ、1981年5月以前の旧耐震基準に則った建物で「1階が店舗や車庫など開口部が広い建物に倒壊被害が集中していること」を指摘。「大きな開口部を設けない」「大開口を設ける場合は適切な補強を入れる」ことを訴えています。


石川県は2月5日、52337棟で住宅の被害が確認されたと発表しました。共同通信によりますと、現行の耐震基準が導入されていない1980年以前に建てられた住宅の割合は、珠洲市は65%で全国1086市区町村の中で最も高い割合でした。能登町は61%、輪島市も56%。人口減少や高齢化を背景に、現行基準前に建てられた家が6割前後あった為、甚大な被害に繋がった可能性があります。耐震改修を進める為、費用負担に対する公的支援と、その実行が望まれます。

2024年2月3日 放送

2024年2月3日

鍬ケ崎町民の命を救った幻灯機

「東日本大震災宮古市の記録 第1巻《津波史編》」によりますと、明治三陸地震津波で鍬ヶ崎町では100人が命を落とし家屋701戸の内350戸が流失、半壊しました。又当時の様子について「鍬ヶ崎尋常小学校では、旧暦端午の節句にあたって幻灯会を催していた時に津波が襲来した。町長が児童を学校から外出させないように指示して助かったが、在宅の子どもたちの多くが死亡した」とあります。

宮古市立鍬ヶ崎小学校には、その幻灯会で使われた幻灯機が展示されています。3階の空き教室に開設された「震災伝承室」のガラスケースの中に2つの黒い箱型の機械。それが「鍬ヶ崎町民の命を救った幻灯機」です。熊谷出版「幻燈会の夜(著者:花坂徹(てつ)、絵:中川智恵子)」によりますと、1896年(明治29)6月15日、鍬ヶ崎小学校の新校舎落成記念として、講堂で幻燈会が開かれました。その日は午前中から何回か小さい地震がありました。夜7時過ぎ、幻燈会が始まってしばらくして、地震がありました。横揺れはゆるゆると5分間も続きましたが、揺れが小さいので誰も気に留めませんでした。スライドが15枚目まで進んで休憩の際、薄暗いまちの方から、沿岸で津波を表す『ヨダだあ!ヨダがくっつおう!潮が引いたぁぞう!』という声が聞こえてきました。そして沖の方から「ドーン…ドーン」とまるで大砲を撃つような不気味な音が町中に響き渡りました。学校の外へ出ようとした人はいましたが、町長は玄関の扉を閉めて『津波が来るがも知れねえぞ!』と必死に人々を止めました。その内、港の方から凄まじい波の音と共に「バリバリバリ!」と建物が壊れる鈍い音が聞こえてきました。午後8時7分、大津波が鍬ヶ崎の街を襲いました。荒れ狂う波は船を陸(おか)へと押し上げ、家々を壊しながら街の裏手の山際まで押し寄せたのです。

奇跡的なタイミングで開かれた鍬ヶ崎小学校の幻灯会。危険な夜の大津波から200名あまりのほとんどの児童と多くの町民の命を救ったのです。その後、幻灯会は「縁起の良いもの」とされ長い間学校行事として行われました。鍬ヶ崎小学校に残る幻灯機は、128年前の出来事を在り在りと今に伝えています。

2024年1月27日 放送

2024年1月27日

鍬ケ崎小学校 震災伝承室

2023年12月、宮古市立鍬ヶ崎小学校3階の空き教室を使って開設された震災伝承室を訪れました。宮古市によりますと、13年前の東日本大震災で鍬ヶ崎地区では57人が犠牲になり、8人が行方不明です。宮古港から直線で約500mの小学校は校庭と校舎昇降口まで浸水し、体育館も床上まで水に浸かりましたが、当時校舎にいた235人の児童は高台に避難し全員無事でした。

2017年に設けられた震災伝承室には、熊野神社に逃げた児童が、海が見えないように整列した様子や、フェンスが壊れ校庭に津波が40センチ入った写真が並んでいます。又、震災当日から校舎2階3階が避難所となり「3月16日夜メニュー おにぎり1個 うめぼし・つけもの おつゆ」と配布された食事や、「朝方の仕事 6:30 作業班:水の確保 そうじ班:汚物処理 ゴミ処理 トイレ用水」といった避難所運営の手書きの記録が紹介され、震災直後の実相が静かに伝わってきます。

この地区は過去に何度も津波に襲われている為、鍬ヶ崎小学校は震災前から防災教育に力を入れてきました。2007年には児童が考えた「津波防災カルタ」を製作。「か 家族で相談、避難経路。」「ら ラジオ、テレビで知る津波情報。」等の札を通して、いざという時の心構えを身に着けていました。又2010年度には6年生48人が総合学習の取り組みで地域住民と共にまちを歩き、8つの地区の津波からの避難経路を示したマップを作成。避難場所、目安となる施設などが表記されていた他、「津波はくるぞ マップを見て避難」「津波とは 町をのみこむ 災害だ」と、津波に対する警鐘を鳴らすコメントも記されていました。そして奇しくも印刷会社に持ち込む2011年3月11日に震災が発生し地域住民への配布は中止になり、マップは幻となりました。防潮堤の無い鍬ヶ崎地区は震災の津波で平坦部がほぼ全滅の被害となりましたが、児童は防災学習で学んだことを実践し、命を守ることができたのです。宇部智康校長は「震災を風化させず、受け継いでいかなければならない」と、震災を経験していない子どもたちに、教訓を伝承する大切さを語っていました。

2024年1月20日 放送

2024年1月20日

明治三陸地震津波を伝える石碑(宮古市)

今日は津波の石碑についてです。宮古市の石碑の中には海嘯(かいしょう)=津波の文字を刻み込んだものがあり、明治三陸地震津波を契機に建立されました。その一つが磯鶏地区の国道45号沿いにある「海嘯記念碑」です。1896(明治29)年の惨状が記されていて、磯鶏村民と有志が七回忌を機に建てたものです。


津波が襲った6月15日は旧暦の5月5日。広報「ぼうさい」2005年7月号によりますと、三陸地方の村々は前の年の日清戦争の勝利を祝うべく凱旋兵と共に端午の節句を過ごしていました。「碑(いしぶみ)の記憶」(岩手日報社✕IBC岩手放送)には記された漢文の意訳として「薄暗く雨が降っていたが、数回の地震の後に遠雷のような異音が響き、2回の大洪水と激しい風が襲来」「突如発生した津波により巷は阿鼻叫喚、修羅の場と化した」とあります。国立国会図書館によりますと、地震による直接的な被害はありませんでしたが、津波は北海道から牡鹿半島にいたる海岸に来襲しました。内陸へ津波が駆け上がった遡上高は大船渡市で約38.2m。明治三陸地震津波の死者・行方不明者数は約2万2000人、宮古市では3588人に上ります。


この津波は地震の揺れに特徴がありました。現在の震度で2か3、緩やかで長く続く振動だったのです。内閣府の「災害教訓の継承に関する専門調査会報告書」には、当時の宮古測候所長の談話の要約として「地震は微弱であったが合計13回程あった。その後7時50分頃に潮が異常な速さで引き始め、同時に遠くで雷が鳴るような音を聞いた。8時7分に約4.5mの津波が来襲し、人畜家屋が流出してしまった。津波はその後6回にわたり繰り返し、海面の振動は翌日の正午頃まで続いた」と掲載しています。明治三陸地震津波は、断層のずれの速度がゆっくりとしている為、大きな揺れは感じなかったものの、断層のずれの規模が大きく大津波が発生し、被害が拡大したと考えられます。明治の津波関連の石碑は供養碑が多い中で、高さ2.3m・幅0.9mの「海嘯記念碑」は津波の状況や被害などを書き残す記念碑として、教訓を静かに伝えています。

2024年1月13日放送

2024年1月13日

DVDで伝える宮古市の避難経路

宮古市の「防災・減災を考える会」は、市街地・河南地区の9つの津波避難場所等について紹介する30分のDVDを作成しました。映像では地図と避難ルートを照らし合わせながら「中央通り付近からおよそ5分、海抜約20mの横町高台に到着」のように字幕で示しています。会員自らが高台迄、実際に歩いている映像なので、避難経路上の様子も確認できます。そして特徴的なのは宮古弁で避難の心得を伝える場面です。津波が来たら、てんでんばらばらに高い所に逃げて命を守り、戻ったらダメですよという教訓は「てんでんこに逃げでねえ、もどったら、わがんねんだがえ」という語りで、親しみやすく何度も視聴したくなる内容になっています。

この市民団体の代表は、社会福祉協議会の生活支援員をしている「八木恵理子さん」です。八木さんは東日本大震災の津波で自宅が全壊。自身が被災したことをきっかけに『防災で何かの役に立ちたい』と防災士を取得し、町内で自主防災会を立ち上げました。2020年『災害が起きた時、お互いに助け合えれば』と、地域や職種を問わず防災に関心が高い人に声をかけ「防災・減災を考える会」をスタート。2021年には『災害が起きた時、どこにいるかわからない。命が助かる為には、多くの避難場所を知ること』と市内の避難場所の調査を開始。更に避難経路を映像にすることで『避難場所に行きやすいのでは』と、寄付や市の補助金を活用し、今回のDVDを50枚製作しました。

八木さんは『ハザードマップを見ただけでは、避難場所にどの道から入ったら良いのか分からないことがあります。歩くことで初めてわかります』と足を運ぶことの意義を強調します。又避難場所を確認すると、草が生えていて歩きにくかったり、夕方に訪れると街灯が切れていたりと課題があり、避難経路を地域住民で管理することの大切さを感じたといいます。
八木さんは『自治会・町内会・施設の集まりで上映し、避難について話し合うきっかけにしてほしい』とDVDの活用を呼びかけています。

2024年1月6日 放送

2024年1月6日

春一番

ラジオネーム「春一番」さんからメールを頂きました。「気の早い質問です。近畿や関東などの地域の春一番情報を耳にするのですが、北東北には吹かないのでしょうか」。ありがとうございます。春一番は、冬から春への移行期に、初めて吹く暖かい南よりの強い風のことです。基準は地域、気象台によって若干異なります。関東地方では、2月4日頃の立春から3月21日頃の春分までの間で、日本海に低気圧があり、最大風速がおおむね8m以上の南よりの風が吹いて、前日より気温が上がった場合、総合的に判断して発表しています。

長崎県壱岐市によりますと、この言葉の発祥は玄界灘にある島「壱岐」とのことです。漁民たちは早春に吹く「春一番」「春一」「カラシ花落とし」と呼ばれる南からの暴風を恐れていました。1859年(安政6)に、この強い風を受けた影響で、大勢の地元漁師が遭難しました。海と共生する壱岐の人々に自然の怖さを忘れないようにとの思いを込めて1987年(昭和62)、郷ノ浦(ごうのうら)港入口の公園には船の形をした「春一番の塔」が建てられました。近くには遭難者の慰霊碑も建立されています。「春一番」は、この現象が発生する、関東甲信・北陸地方から九州地方で発表されています。北海道・東北地方はこの時期、冬の気候が続き春の実感がありません。沖縄地方の2月3月は最高気温が20度程で既に春のような暖かい状況です。その為、北海道・東北・沖縄地方で春一番の発表は無いようです。

ところで岩手では春一番のような風は吹かないのでしょうか。例えば2018年3月1日、急速に発達する低気圧により全国的に大荒れの天気となり、近畿と関東で春一番を観測。この日、盛岡も最大風速10mの南西の風が吹きました。岩手も春一番と言いたいところですが、この日は吹雪でした。しかも雪は35センチも積もっていて、翌日も雪が降る寒の戻りとなりました。つまり春一番に相当する南よりの強風は、冬の嵐のような荒れた天気の際に観測されることが多く、加えて強い寒の戻りとセットになっています。岩手では立春から春分までの間で、春一番の発表は適さないのでは、と感じました。

2023年12月30日 放送

2023年12月30日

岩手の最低気温の記録

盛岡のふるとさんから、日本の最低気温の記録に関してお便りを頂きました。「本で調べたら明治35年1月25日、北海道旭川市の最低気温が何と『マイナス41.0℃』という観測がありました。もし県内でもこんな最低気温だったらびっくりするかもしれないです」。ありがとうございます。

旭川で冷え込む日の挨拶は『なまらしばれるね~』というそうです。ここまでではないですが、県内でもこれに近い記録があります。岩手百科事典によると、最低気温の記録は、1945年(昭和20)1月26日、当時の玉山村「藪川」で「氷点下35.0度」まで下がりました。本州一寒い、といわれる所以です。これは戦前ですが、気象庁が自動的に観測データを集めるアメダスを設置した1976年11月以降では、1988年(昭和63)2月17日に「氷点下27.6度」まで下がった記録があります。翌日の岩手日報によると、薮川では部屋の中の金魚鉢にも厚い氷が張り、ボールペンはインクが凍って書けなかったとか。又、電話の受話器も冷たくて持つのが大変で、皆さん、寒さにうんざりしていたそうです。

このように気温が下がると生活にどんな影響が出るかという目安があります。「NHK気象・災害ハンドブック」によると、「氷点下4度以下」で水道管の凍結が始まります。「氷点下6度以下」で、窓に霜が付き始めサイダーが凍ります。「氷点下10度以下」で窓に真っ白に霜が付き、ビールが凍ります。「氷点下15度以下」では夜中に凍結で家が音を立てる「家鳴り(やなり)」が起こります。又空気中の水蒸気が凍り、日の光を受けてキラキラ輝く「ダイヤモンドダスト」が始まります。「氷点下20度以下」では、顔を出して歩けません。眉毛、髭、前髪に霜が付きます。「氷点下24度以下」で醤油が凍り、「氷点下25度以下」では、大木が立ったまま弾けるような音を立てて裂ける「凍裂」という現象が始まります。「氷点下50度以下」では、人の吐く息が小さな氷の結晶になって微かな音を立て聞こえるそうです。これは「星のささやき」と呼ばれています。寒いのは苦手ですが、この星のささやき、というのは体験してみたいものです。

2023年12月23日 放送

2023年12月23日

遠地津波

2023年12月2日午後11時37分頃、フィリピン付近を震源とするマグニチュード7.7の地震が発生。3日に日本の太平洋側各地で最大40センチの津波が観測されました。海外の地震で津波注意報が出たのは、久慈で78センチの津波を観測した2015年9月17日のチリ中部沿岸の地震以来です。

このように国外で発生した地震に伴う津波を「遠地津波」といいます。一般に津波は、その発生源から遠ざかると影響は小さくなりますが、非常に大きな津波の場合は、はるか遠くまで伝わって大きな被害をもたらすことがあります。また遠くからやってくる津波は、途中の海底地形や陸地の影響を受け反射・散乱を繰り返しながら複雑に変化し、津波が長時間継続する他、複数の波が重なって著しく高い波となることもあります。更に近海で発生した津波と同様、岬の先端やV字型の湾の奥などの特殊な地形では、波が集中して高くなるので特に注意が必要です。

過去の代表的な遠地津波の事例は1960年(昭和35)のチリ地震津波です。「岩手百科事典」によると、日本時間で5月23日の午前4時11分、チリ中部沿岸でマグニチュード9.5の大地震が発生しました。この地震の後、22時間以上経って日本の太平洋沿岸に大津波が襲来したのです。津波が岩手の沿岸に来たのは24日午前2時50分前後、最大の波は午前5時~8時に発生し、湾の外や湾口で2~4m、湾の奥では6m以上になった所もありました。この津波による日本の死者・行方不明者142人の内、大船渡が53人で最も被害をうけました。防災科学技術研究所によると、津波は7時間前にハワイ島に到達し死者61人などの被害を引き起こしており、その情報は米軍を通じて伝えられていました。しかし警報が出されたのは津波が日本に到達し各地から潮位の異常変化が報告されてきてからのことでした。これを契機にして太平洋津波システムに日本も組み入れられ、遠地津波に備える体制がつくられました。
今回の津波では国内で人的被害はありませんでしたが、遠地津波が日本に被害を与える恐れがあることは、十分に理解しておく必要があります。

2023年12月16日 放送

2023年12月16日

岩手でもオーロラが見える?

盛岡・文明の利器さんのお便りです。「北海道でオーロラが見えたそうですが、岩手でも見られる可能性はあるのでしょうか?」ありがとうございます。

HBC北海道放送によりますと、2023年12月1日夜、北海道の網走地方を中心に、夜空を赤く染めるオーロラが観測されました。肉眼でオーロラが見えたのは1989年10月21日以来となります。名古屋大学によりますと、オーロラは通常、アラスカ、カナダ、シベリア、スカンジナビア、グリーンランド、南極大陸など、高緯度地方で見られます。日本で見られるオーロラはほとんどが赤い色をしていて「低緯度オーロラ」と呼ばれています。又、北海道陸別町「銀河の森天文台」によりますと、オーロラ現象は、太陽活動と密接な関係があります。特に低緯度オーロラは、太陽表面で大きなフレア=爆発が起きた時に出現することが多く、北の空に淡くぼんやりと見えることもあります。

岩手でオーロラが見られた史料があります。江戸時代後期の歴史書、盛岡藩士の「見聞随筆」には「1770年(明和7)秋、日にちは忘れたが、夜8時頃から空に突然『あかけ』が現れ、夜通し見えて、京の都では『北方の火事だ』と言い、江戸では『千葉や茨城のあたり』という人も多く、原因は分からず、日本国中、見えない所は無かった」と記述されています。

2001年に、オーロラに関する葉書をいただいたことがあります。「47歳になる主婦ですが、玉山村出身の私が小学低学年の頃、オーロラを見た記憶があるのです。人に話してもなかなか信じてもらえないのですが、是非調べてもらえないでしょうか」。探したところ、お葉書を下さった方が見た時期とほぼ一致する記事が、1958年(昭和33)2月12日の岩手日報夕刊に掲載されていました。その前日11日午後6時半から8時半頃までの間、新潟から北の、北海道、東北、北陸、信越、関東の東日本各地にわたってオーロラを観測。赤い弓のような形で、一部は線になり脈打つように見えたそうです。又、日本気象学会によりますと、この日、日本海上の低気圧の東側が晴天に恵まれ、顕著な磁気嵐に伴ったオーロラが目視観測された、とのことです。つまり岩手でも見られる可能性があるのです。

2023年12月9日 放送

2023年12月9日

夕立・集中豪雨

盛岡の「おはよういわて」さんから質問を頂きました。「私が小学生の頃の天気予報で『夕立』『集中豪雨』という言葉がよく聞かれました。最近、聞かれなくなりました。死語になってしまったのでしょうか。そこで次の気象用語の定義を教えて下さい。『夕立』『集中豪雨』『ゲリラ豪雨』『線状降水帯』『スコール』『土砂降り』『大雨』です」。ありがとうございます。

まず「夕立」は「夏にのみ用い、夕方近くに急に激しく降る雨」のことです。気象庁では予報文ではなく解説の際に使っています。「集中豪雨」は「同じような場所で数時間にわたり強く降り、100ミリから数百ミリの雨量をもたらす雨」です。これも予報文ではなく解説で使っています。「ゲリラ豪雨」は「局地的大雨や集中豪雨」のことです。局地的で突発的に襲うためゲリラという名がつけられ2008年夏頃からよく使われるようになりました。定義はなく気象用語としては使用していませんが、マスメディアや一部の気象会社が使用しています。「線状降水帯」は「次々と発生する積乱雲が帯状に連なり、長い時間同じ場所を通過又は停滞する」ものです。「スコール」は熱帯地方特有の激しいにわか雨のことで、気象用語にはありません。しかし気象庁の航空気象観測において「瞬間風速が1分間に8m/秒以上増し、平均風速11m/秒以上の状態が1分間継続した場合」と定義されています。「土砂降り」は気象用語にはありません。しかし「雨の強さと降り方」という解説資料の中に、1時間雨量20~30ミリ未満で人の受けるイメージに「どしゃ降り」があります。最後に「大雨」は「災害が発生する恐れのある雨」です。気象庁の過去の気象データの天気概況の記録の中では「1時間30ミリ以上の雨の場合」に「大雨」と記述されます。

さてお便りの聞かれなくなった言葉の話しに戻りますが、「集中豪雨」は、私は今でも耳にします。しかし「夕立」は確かに聞かれなくなったような気がします。最近は災害に結び付く雨の降り方が多く、響きに趣のある「夕立」は使いにくくなったのかもしれません。

2023年12月2日 放送

2023年12月2日

秋吉台・秋芳洞

山口県のほぼ中央部に位置する、日本最大級の石灰岩の台地「秋吉台」と、日本屈指の大鍾乳洞「秋芳洞」についてです。2023年11月に訪れる機会がありました。秋吉台は、一面に草原が広がり、多くの灰色の石灰岩が転がる不思議な光景でした。美祢(みね)市立秋吉台科学博物館によりますと、秋吉台の石灰岩は約3億年前の海で作られ、約1億年という長い年月をかけて1万キロ程のはるか遠くから運ばれてきました。石灰岩は世界各地で見られ、陸地表面の約1割を占めているといわれています。その多くは元々、その場所が暖かくて浅い海だったことが一般的です。一方、秋吉台を含む日本国内の多くの石灰岩は、大陸から遠く離れた暖かい海の真ん中で海底火山が噴火し、その頂上付近に生息したサンゴなどが元となっています。それらは地球の表面を覆うプレートの動きによって大陸まで移動し、その底にうまくくっつきました。更に国内でも秋吉台の石灰岩だけは、サンゴなどが約1億年間分も連続的に積み重なってできているとのことです。

その地下に広がる「秋芳洞」は、長さ約9キロ、空間の広さでは日本最大の洞窟です。見どころの一つが何枚もお皿を並べたように見える「百枚皿」と呼ばれる地点です。ライトアップされた白い階段状の石灰岩は、客席のようにも見え、まるでコンサートホールです。解説によりますと、実際の皿の枚数は約500枚。大きなものは直径3~4m、小さいものは10センチほどです。前方正面の小高い所から流れ落ちる地下水の中には、秋吉台の石灰岩の成分が溶け込んでいます。その石灰分が少しずつ岩肌に沈着し、縁の部分を盛り上げ、水を張った皿のようになった、ということです。

プレートは地球内部で対流しているマントルの上にあるので、マントルの対流で少しずつ動いています。プレートの境界付近には強い力がかかっている為、その力によって地震が発生します。プレートの動きは地震と深く関わっていますが、「秋吉台・秋芳洞」は、その地球の活動がもたらした景観を体感できる場所なのです。

2023年11月25日 放送

2023年11月25日

盛岡市の震度観測点

2023年11月20日午前6時1分頃、東北地方で最大震度4を観測するやや強い地震がありました。この地震による津波はありませんでした。震源地は青森県東方沖、震源の深さは約50キロ、地震の規模を表すマグニチュードは5.8と推定されます。震度4を観測したのは八戸市、野辺地町等、青森県の5つの市と町でした。県内の市町村の最大震度は3で、盛岡市、久慈市、二戸市、八幡平市、軽米町でした。私は自宅におりましたが、ガタガタと30秒ほど横揺れが続き、随分、長く感じられました。ただ1か2ぐらいで、震度3の揺れとは思いませんでした。


実は盛岡市には4つの震度観測点があります。「山王町」にある盛岡地方気象台の他、「渋民」は県、「馬場町」「藪川」は防災科学技術研究所が設置したものです。この日の地震は、盛岡市藪川が「震度3」、山王町と渋民が「震度2」、馬場町が「震度1」でした。市町村としては震度3と発表されたものの、同じ市内でも地形や地盤によって揺れは異なるのです。


気象庁では、1884(明治 17)年以来、140年、震度観測を実施しています。観測開始以来、体感で行ってきましたが、1996(平成8)年4月から、全面的に震度計で行うこととし、体感による観測は廃止しました。地方公共団体では、総務省消防庁が阪神・淡路大震災を契機とし「震度計の配備による市区町村での初動対応の迅速化」を目的に、原則「平成の大合併前の旧市区町村1観測点」で震度計を整備しています。この他、防災科学技術研究所でも、学術研究用として整備した観測網を用いて震度観測を行っています。2018年3月22日現在、県内の震度観測点は80か所になります。気象庁が発表する地震情報は、ラジオ・テレビ等で報道されると共に国や地方公共団体等の多くの防災機関で利用され、地震災害が発生した際の被害の推定や、迅速かつ適切な初動体制・広域応援体制の確立など、地震防災上不可欠なものとなっているのです。

2023年11月18日 放送

2023年11月18日

スギ花粉米

日本気象協会が2023年9月28日に発表した2024年春の花粉飛散予測によりますと、今年の夏の猛暑が影響し、岩手県のスギ花粉の飛散は例年よりも「多く」、前のシーズンよりも「非常に多い」と予想されています。環境省の資料によると、2019年の全国調査では、スギ花粉症を患う人の割合は38.8%で、21年前の2倍に増えています。国民のおよそ3人に1人がスギ花粉症と推定され「国民病」となっているのです。


さて皆さんは「スギ花粉米」をご存じでしょうか。2023年10月27日、政府は近く取りまとめる新たな経済対策に、摂取すると花粉によるアレルギー症状の緩和が期待できるコメ「スギ花粉米」の研究開発促進を盛り込む方針を固めました。政府関係者が明らかにしたもので、花粉米を粉末化して錠剤やカプセルに加工し、医薬品として活用することを想定しています。2024年度中に医療機関で臨床試験を始める考えで、10年以内の実用化を目指します。「スギ花粉米」は、農林水産省が2000年度から開発を進めています。簡単にいうと、スギ花粉症の原因物質となるタンパク質の一部の遺伝子を組み込んだイネを栽培して作られます。マウスにこのお米を食べさせる実験を行った結果、普通のお米を食べさせているマウスよりも、花粉症を引き起こす抗体を70%減らす効果があることが確かめられています。花粉が飛び始める前に、花粉米の有効成分を含んだ錠剤を一定期間服用して徐々に体を慣らすことで、アレルギー症状の緩和が期待できます。今後は製薬会社と連携した開発も視野に入れている、ということです。


花粉症シーズンは、症状を緩和する為に、内服薬を飲む方も多いと思います。しかし毎年飲み続ける必要があり、又、薬を飲むと眠くなったり、集中力が低下したりすることがあります。スギ花粉米の研究開発促進は、患者にとって朗報ですが、安全性を確認した上での、実用化が待たれます。

2023年11月11日 放送

2023年11月11日

冬道の運転

県内では雪が降ったり、夜間に気温が低下したりして、路面が凍結しやすい時期が近づいてきました。岩手県道路防災情報連絡協議会が、早めの冬タイヤ装着を呼びかけるリーフレットによりますと、過去5年で最も早く観測された主な峠の初雪日は早い順に「国道281号平庭峠」が11月2日、「東北道竜ケ森付近」「秋田道湯田付近」が11月3日、「国道455号早坂峠」が11月4日、「八戸道二戸付近」11月8日、「国道4号中山峠」「国道46号仙岩峠」が11月9日、「東北道北上付近」「国道107号秋田県境」11月10日、「国道106号区界峠」「釜石道花巻付近」11月19日、「国道283号仙人峠」11月24日、「国道45号三陸峠」12月2日となっています。


積雪・凍結路を運転する際、注意するポイントが大きく6つあります。日本自動車タイヤ協会によりますと、1つ目は「交差点」。タイヤでアイスバーンが磨かれて、ツルツルになっていることが多い危険な場所です。2つ目は「カーブ」。遠心力で車は外へ外へと流れやすくなります。対向車にも気を付けましょう。3つ目は「トンネルの出入り口」。特に高齢者は暗いところに目が慣れるのに時間がかかります。路面状況の変化を予測した運転が必要になります。4つ目は「坂道」。下り坂は止まりにくいので、充分に減速すると共に、上り坂は、発進時のアクセル操作を慎重にしましょう。5つ目は「橋の上」。吹きさらしの路面は、凍結している可能性があります。橋はアイスバーンと心得て通過しましょう。そして6つ目は「日陰」です。氷がいつまでも溶けずに残っている可能性があります。


気象庁によりますと、東北地方の1月までの3か月予報では、冬型の気圧配置が弱く、寒気の影響を受けにくい為、気温は平年並みか高く、日本海側の降雪量は平年並みか少ない見込みです。しかし一時的に寒気の影響を受けることもあり、油断できません。雪が積もっておらず、黒く濡れたように見えても、実は凍っている「ブラックアイスバーン」と呼ばれる路面状態もあります。暖冬予想でも気を緩めず、引き続き安全運転を心がけましょう。

2023年11月4日 放送

2023年11月4日

災害時のペットとの避難

災害時のペットとの避難には、「同行避難」と「同伴避難」があります。内閣府の避難所運営ガイドラインによりますと、「同行避難」はペットと共に安全な場所まで避難する行為。それに対して「同伴避難」は避難者が避難所でペットを管理する状態のことです。盛岡市のホームページでは同伴避難について「避難所又はその近隣に飼育場所を確保した上で受け入れることとしております。ただし、避難所においては動物が苦手な方やアレルギーのある方などへの配慮が必要ですので、状況に応じてペットの取り扱い方法を判断することになります。また、現在ペットのための備蓄品を備えておりませんので、避難の際にはペットフードやリード等をお持ちいただくようお願いします」とのことでした。


災害時、自宅以外で暮らすことになった場合の知識をまとめた手拭いがあります。滝沢市大釜にある有限会社「クワン」が制作、販売している「防災拭い」です。「地震編」「豪雨編」等のシリーズがあり、その内「愛犬・愛猫をまもる編」には災害時、ペットを守るための具体的方法について、イラスト付きで印刷されています。例えば、日頃から「ペットの受け入れが可能なひなん場所かどうか」「万が一のとき預かってくれるところ」等、確認事項として挙げています。又、様々な状況に慣れておく方法として「キャリーバッグやケージでお留守番」「いろいろな種類のペットフード」の備え、といったことを勧めています。そして、もしもの時にペットを守る手段として「ケージをガムテープで補強する」「大型犬はくつ下をはかせる」「怯えているときはタオルなどでくるむ」といった工夫を示しています。手触りが良く、軽い防災拭いは、縦34センチ横幅100センチ。一般的な手拭いより10センチ長い大きさで、応急処置の「三角巾」代わりにもなり、便利に使えます。


「クワン」では『ペットと安全に避難するために、常日頃から出来る備えをまとめたい気持ちで、震災をきっかけにペットの防災活動に取り組む、犬の訓練士・梶山永江(かじやまひさえ)さんの協力を得て、製作に至りました』『大切な家族であるペットと暮らす皆さんのお役に立てればと思います』と話しています。

2023年10月28日 放送

2023年10月28日

うみどり公園

県によりますと、宮古市で、東日本大震災により亡くなった方は475人。未だ94人が行方不明のままです。その宮古市には、震災を伝えつつ、多くの世代の、様々な人が楽しめる公園があります。津波で浸水した宮古市新川町(しんかわちょう)の旧市役所跡地に2021年8月にオープンした「うみどり公園」です。大型複合遊具の他、障がいの有無に関係なく、全ての子どもが遊べる「インクルーシブ遊具」が設置されています。着座タイプの「回転遊具」は座りやすいようにくぼんだ形で、幼児や体を支えることが困難な人でも安全に利用することができる等、工夫されています。又若者から高齢者まで、ストレッチや筋力トレーニングに使用できる「健康遊具」もあります。


公園の閉伊川に近い南側には4つの塔があります。東日本大震災に関する情報を記したモニュメントです。塔にはそれぞれ「記憶」「鎮魂」「伝承」「希望」の意味があります。「記憶の塔」の高さは2011ミリ。東日本大震災が発生した2011年を表しています。時計の針が示すのは、地震発生時刻の午後2時46分です。「鎮魂の塔」は高さが3.4m。震災時のこの場所の津波の浸水の高さを表しています。犠牲者への追悼の意味を込めて「鎮魂の鐘」を設置しています。「伝承の塔」は高さが4.4m。中央部分に震災の概要を記し、宮古市に関わる震災の情報や被害状況を知ることができます。「希望の塔」は高さが5.5m。震災から復興までの10年間の歩みを10個の点で表現し、交わる線は多くの支援や人々とのつながりを意味しています。上部のステンドガラスは宮古市の花「はまぎく」を表しています。花ことばは「友好」「逆境に立ち向かう」と、まさに宮古市を象徴する花です。


私が訪れた日は生憎の雨でしたが、天気が良い日は、多くの家族連れが訪れることと思います。公園の一角に置かれた、震災を伝えるモニュメント。塔に目を向けることで、震災を経験した世代から、震災を知らない世代へ、伝承する機会になると感じました。

2023年10月21日 放送

2023年10月21日

北日本で冷夏が発生しなくなった背景

地球温暖化が進んでいても、北日本は暑い夏・冷夏、いずれも発生する可能性があります。2000年代以降は冷夏が発生していましたが、2010年以降は発生しておらず猛暑が頻発しています。なぜ近年、冷夏が発生していないのか。三重大学大学院・生物資源学研究科、気象・気候ダイナミクス研究室では、その理由の解明と、将来の冷夏発生の可能性について論考し、研究内容はアメリカ気象学会発行の学術雑誌に掲載されました。


研究によりますと、主な要因は上層がカムチャツカ半島付近、下層が北日本付近に中心を持つ、南北に傾斜した構造を持つ高気圧の発生であることがわかりました。この高気圧発生の背景です。いつもの年は北海道付近を西から東に流れる上空の偏西風が、近年大きく北に蛇行しています。蛇行の盛り上がった場所に、上空の高気圧が発生し停滞。上空の高気圧は下層に向かい南へ傾斜し、地上では日本付近に中心を持つ高気圧となり、2010年以降、毎年、猛暑をもたらしています。この高気圧は西の大陸の暑さと、東の冷たい海洋の東西の温度の差が大きい為に発達します。地面は熱せられるとすぐ温度が上がりますが、海洋はゆっくり上がります。地球温暖化による昇温速度は大陸の方が海洋よりも大きい為、東西の温度差は近年、拡大傾向にあります。このようなことから2010年頃に北半球規模の気候が急激に変化し、猛暑が連続して発生しているとのことです。


研究では、この気候変化が続く限り、北日本に再び冷夏が発生する可能性は低くなると共に、毎年のように猛暑が訪れると予想しています。担当した三重大学大学院 修士2年の天野未空(あまのみく)さんは宮城県の出身で「東北の美味しいお米が大好きで、生育・品質に影響する現象を調べたいと思い研究をはじめました」とのことです。研究結果について「高温対策に、より重きを置いた品種改良、或いは作付け品種の再考など、農業をはじめ様々な分野において温暖化適応策を考えるきっかけになれば」と、その利用を呼びかけています。

2023年10月14日 放送

2023年10月14日

おもかげ地蔵尊

盛岡市内丸、櫻山神社の神門の右脇に小さな石仏があります。浮き彫りの「おもかげ地蔵尊」です。案内板によると、江戸時代は南部家の江戸屋敷に祀られていました。7000人以上の犠牲者を出した安政の江戸大地震の時、江戸屋敷が全壊にしたにもかかわらず、地蔵様のお蔭で死者、けが人も少なかった、とのことです。内閣府の資料によると、この安政江戸地震は安政2年10月2日(1855年11月11日)、午後10時頃に発生しました。震央は東京湾北部、地震の規模はマグニチュード7.0~7.2、震源の深さは40~50キロと考えられます。被害は都内を中心に埼玉、千葉、神奈川県に及びました。古文書に基づき推定すると、現在の千代田区丸の内、墨田区本所、江東区深川などが震度6以上の揺れとなりました。これら日比谷の入江を埋め立てた所や、墨田川洪水時に浸水する低地を17世紀中期以降に開発した所は軟弱な地盤で、地震の揺れが増幅されました。建物の倒壊や、江戸の30数か所から起こった火災により、丸の内、本所、深川などで7000人を超える死者数が確認され、実際はそれ以上に上ると考えられています。


安政江戸地震は今、心配されている首都直下地震の一つです。発災時は応急対策活動として広域応援部隊や医療チームの派遣、物資の輸送などが計画されています。住民には建物の耐震化や家具の固定、水・食糧などの備蓄の他、火災からの適切な避難、交通マヒに対する自動車利用の自粛、交通インフラの損傷による通勤困難を想定した備えなどが求められます。


岩手百科事典によると、盛岡藩の江戸屋敷は当時、桜田門と幸橋門の中間に上屋敷、鉄砲洲築地に中屋敷、麻布一本松に下屋敷の3邸を有していました。櫻山神社によると、おもかげ地蔵尊は上屋敷にあったそうですが、いつの頃からか盛岡に移転されました。現在は櫻山神社で参拝に来た人々を見守りながら、江戸の大地震の歴史を静かに伝えています。

2023年10月7日 放送

2023年10月7日

寒暖差

2023年9月下旬のある日、くしゃみと鼻水が止まらず、辛い思いをしました。目のかゆみも、熱もありません。翌朝、症状はピタリとやみました。異常な暑さが落ち着き、朝晩のひんやりとした空気は、秋の訪れを感じさせるようになり、その寒暖差が関係しているのかもしれません。


三重県健康管理事業センターによりますと、季節の変わり目に、くしゃみ、鼻水、鼻詰まりなどアレルギー性鼻炎によく似た症状が出ることを「寒暖差アレルギー」といいます。「血管運動性鼻炎」と呼ばれる鼻炎の一種ですが、アレルギーの病気ではないとのこと。寒暖差アレルギーの原因は解明されていませんが、およそ7℃以上の気温差によって鼻の粘膜の自律神経のバランスが崩れ、症状が起こると考えられています。寒暖差アレルギーを防ぐには、温度差を少なくし、血流を良くすることが大切です。「なるべく温度差を小さくする」為に、衣服などで体温調節をする他、「血流をよくする」為に、マフラーやひざ掛けを利用して体を冷やさないようにすることが大切になります。又寒暖差が大きいと、自律神経の働きが乱れ、体が疲れます。こちらは「寒暖差疲労」といいます。奈良県医師会によりますと、体は気温の変化に伴い、体温を一定に保つため自律神経を働かせて皮膚の血管を流れる血液量を調整したり、筋肉で熱を生み出したり、発汗して体温を下げたりします。気温差が大きいと自律神経が過剰に働き、大きなエネルギーを消耗して疲労が蓄積します。すると肩こりや頭痛、めまい、倦怠感、便秘、下痢、不眠などの様々な心身の不調をもたらします。


自律神経を整えるには、「散歩などの運動をする」「首・肩の筋肉をストレッチする」「身体を温める食べ物を多くとる」「38~41度の湯に首までつかり体の芯まで温め、自律神経の集まっている首を温めることが大切」になります。自律神経は耳の周りにも集中しているので、耳をつまんで前後に回すことも自律神経の働きを整えるのに有効です。寒暖差が大きい時の「体調管理」は、つまり自律神経を整えることを意識する、ということになります。

2023年9月30日 放送

2023年9月30日

異常気象と地球温暖化

文部科学省と気象庁気象研究所は、近年頻発している異常気象に地球温暖化が与えた影響を研究しています。温暖化した気候状態と、温暖化しなかった気候状態のそれぞれにおいて、大量の計算結果を作り出して比較し、数値化するというものです。


2023年6月初めは梅雨前線が本州付近に停滞し、東日本・西日本の太平洋側で線状降水帯が相次いで発生し、167地点で24時間降水量が6月としての1位を更新する大雨となりました。6月末以降は、前線の活発な活動の影響で西日本を中心に各地で線状降水帯が発生し、西日本から北日本にかけての広い範囲で大雨となりました。今回の研究によると、地球温暖化により6月から7月上旬の日本全国の線状降水帯の総数が約1.5倍に増加していたと見積もられました。又、7月9日から10日に発生した九州北部の大雨については、地球温暖化がなかったと仮定した場合と比べて総雨量が約16%増加していたことが確認されました。一方7月下旬から8月上旬の記録的な高温についても計算しました。2023年に入って発生したエルニーニョ現象は日本に冷夏をもたらしやすいのですが、今回の高温は地球温暖化の影響があったことで気温が底上げされた、と示されました。


私達ができる温暖化対策は何でしょうか。温暖化の主な原因は二酸化炭素=CO2の増加です。CO2は家庭からも出ています。全国地球温暖化防止活動推進センターによりますと、その割合は「電気」からが一番多く47%、次いで「ガソリン」からが23%(21JCCA)です。電気とガソリンが7割を占めていて、要するに家庭からのCO2を減らすには「電気、ガソリンの使用を減らすのが効果的」ということになります。ちなみに天井の明かりを点けていても、多くの家庭でCO2が出ています。日本の発電電力量の72%は石油や石炭、天然ガスを燃やして蒸気を作りタービンを回す「火力発電」によるものだからです。言い換えると、煙突の無い家からも煙が出ていることになります。省エネや節電を心掛ける私達の行動は微力ですが、無力ではありません。

2023年9月23日 放送

2023年9月23日

流言を防ぐキーワード『だいふく』

今年は関東大震災から100年となります。震災の混乱の中、「朝鮮人が暴動を起こす」などの流言、つまり根拠のないうわさが流れ、朝鮮半島出身者らが虐殺されました。2023年9月17日、内閣府が主催する防災イベント「ぼうさいこくたい」の講演で、立命館大学の北原糸子客員研究員は「一番気を付けるべき問題は流言だ。100年前とは全く違うメディアの展開で一人一人が気を付けないとネットを通じ広く拡散してしまう」と注意を呼びかけました。


災害時には、安否や被害状況を確認、共有する為に「情報」が大きな役割を担います。しかし2016年4月の熊本地震では「動物園からライオンが逃げ出した」また新型コロナ関連では「ウィルスは熱に弱い」「トイレットペーパーが不足する」という誤った情報が拡散されました。背景にあるのが「思い込み」です。SNSでは「同じ意見を持つ人」が集まりやすく、異なる見識が見えにくい為、同じ意見だけを繰り返し目にすることで「みんながそう言っている」という先入観が生まれやすいのです。情報の信頼性を確かめる為には、何に気を付ければ良いのでしょうか。


「LINEみらい財団」と「静岡大学教育学部」は、「情報防災訓練」のゲーム形式の教材をネット上で公開しています。台風が近づく中、スマホで情報を集めるという設定で、カードをめくり情報を読み、拡散しても良いかを判断するというものです。キーワードは「だいふく」。「だ:誰が言ったのか」「い:いつ言ったのか」「ふく:複数の情報を確かめたのか」を基準に考えます。例えば『市役所の公式の避難情報』は信頼性が高いといえます。『スーパーの食品が売り切れていた』という情報は、不確かで拡散するとお店に迷惑をかけてしまうかもしれません。『大学の先生が、有害物質が川に流れたと言っていた』という友人から届いた情報は伝聞であり、複数の情報を確認することが必要です。『午前11時50分、川が氾濫』という情報。既に午後7時を過ぎていて、誤った情報になる可能性があります。SNSで情報を集め発信することは、地域防災に貢献できる可能性があります。拡散するかどうか「だいふく」の視点で判断することが大切になります。

2023年9月16日 放送

2023年9月16日

海洋ゴミ

2023年8月27日、盛岡市内でゴミ拾いのイベントに参加しました。肴町から中の橋を渡り、中津川下流の歩道沿いを30分程、歩きました。草むらを覗き込むと、マスク・吸い殻・空き缶・飴の個包装袋等が捨てられていました。又ビルの陰には、錆びた傘・単三電池が転がっていました。目立たない所にこっそり捨てられているゴミの多さに驚きました。このイベントは、海の環境保全に取り組む「海と日本プロジェクト」の一環で実施されたものです。


なぜ海の環境保全なのに、まち中でゴミを拾うのか。実は私たちが暮らす町で発生したゴミが、海洋ゴミの8割を占めているといわれているからです。町に捨てられたペットボトルや空き缶などが、川や水路を伝って日本の海に流れ着きます。海はつながっているので、世界中に広がっていきます。海洋ゴミの問題は、日本だけではなく世界中の問題なのです。海洋ゴミにはペットボトルやレジ袋といった日常的に使う物が多く含まれています。中でも、世界的に問題視されているのが、一度海に流れてしまうと半永久的に分解されることのないプラスチックごみです。環境省の資料によりますと、海を漂流・漂着するプラスチックごみは、時間が経つにつれ壊れて細かくなり、次第に5ミリ以下のマイクロプラスチックになります。細かくなってもプラスチックであることに変わりはありません。マイクロプラスチックは、漂流の過程で化学汚染物質が表面に吸着し海洋生態系へ取り込まれる原因になる可能性があります。又実験室レベルでは誤って食べて海洋生物の体内に取り込まれることにより、海洋生物が害を受け、炎症反応、摂食障害などにつながる場合があることがわかっています。


2016年にスイスのダボスで開催された世界経済フォーラム年次総会で、毎年少なくとも年間800万トン分のプラスチックごみが海に流出し、このまま何の対策もとらなければ、海洋に漂うプラスチックごみの重量は、2050年には魚の重量を上回ると警鐘を鳴らしました。世界全体で取り組まなければならない地球規模の課題。一人一人のごみを減らす意識や行動が、海の未来を守ることに繋がります。

2023年9月9日 放送

2023年9月9日

異常な暑さの夏

気象庁は2023年6月から8月の平均気温が1898年以降で最も高かったと発表しました。特に北日本で高く、夏の平均気温の平年差はプラス3度でした。北日本を中心に暖かい空気に覆われやすく、また南から暖かい空気が流れ込みやすい夏でした。3度というと大したことがないと思われるかもしれませんが、平熱36度5分の方が、39度5分になるような状況で、異常な暑さということが実感できると思います。盛岡の30度以上の真夏日日数は、7月22日の梅雨明け以降、9月1日まで42日連続で、1994年の38日の最長記録を更新しました。35度以上の猛暑日は平年ですと0.9日ですが、この夏は5日。1日の最低気温が25度以上の熱帯夜は平年ですと0.2日ですが11日もありました。日中はうだるような暑さ、夜間も気温が下がらず寝苦しい日々が続きました。


暖かい空気に覆われやすかった要因は太平洋高気圧の日本付近への張り出しです。下層で強まったことに加え、上空を西から東へ流れる偏西風も北に偏って蛇行し、上層の暖かい高気圧も強化されました。北日本の記録的な高温は、周辺海域での海水温の顕著な高温状態が影響した可能性もあります。三陸沖では 2022 年秋以降、海面水温が平年よりかなり高い状態が続いています。気象庁の海洋気象観測船が7月に行った海洋内部の観測では、平年より約 10度も高い水温を確認するなど、記録的な高温となっていました。三陸沖の高い水温は、2023 年4月以降に顕著になった黒潮北上の影響と考えられます。日本の南岸に沿って流れる黒潮は、房総半島沖に達した後、例年は本州から離れるように東向きに流れます。しかし2023 年7月下旬には黒潮が三陸沖まで北上していました。


2023年のような夏が毎年現れる、ということではありませんが、気象庁の検討会が猛暑の要因に「温暖化の影響」も挙げているように、今後、同様の状況が増加すると予測されます。猛暑で懸念されることの一つが熱中症による健康被害です。冷房の効いた公共施設等を無料開放する「クーリングシェルター」の利用が全国的に進んでいますが、岩手でも取り組みの広がりが求められます。

2023年9月2日 放送

2023年9月2日

お天気ことわざ

天気に関する「ことわざ」が当たるかどうか、よく聞かれます。天気は昔から農業や漁業など人々にとって欠かせないものです。現代のような予報が無い時代から、先人達は空や自然の様子などを見て天気を予想してきました。今回は、いくつかピックアップし解説します。


「夕焼けは晴れ」。世界中にあり、最も古いお天気ことわざといわれています。しかし、夕焼けでも翌日晴れになるとは限りません。実は夕焼けには2種類あります。空が焼ける場合と、雲が焼ける場合です。空が焼けるように見える夕焼けは、西側の広い範囲に雲がありません。日本の上空には西から東に吹く風が流れ、西から天気が変わることが多いので、西に雨を降らせる雲が無い、という事から翌日は青空が期待できるでしょう。ところが雲が焼けるように見える場合は、西側に天気を崩す雲が控えているということで下り坂になります。「猫が顔を洗うと雨が降る」。雨が近いと猫は体の特定部分から脂肪分を出し毛に塗り雨粒をはじくようにする、という説があるようですが、残念ながら当てになりません。我が家で飼っている猫は天気に関係なくやっています。野良猫なら当てはまるのでしょうか。天気を予想する山が各地にあります。雫石町と矢巾町の境には標高848mの南昌山があります。盛岡でよく耳にするのは「南昌山に雲がかかれば雨」。天気を崩す雨雲は高度が大体2000m以下で、そのような雲が山頂付近にかかり始めると天気は下り坂になります。盛岡では「岩手山に3回雪が降れば里にも降る」も聞きます。必ず3回ではなく、経験的な目安でしょう。尚平年値は岩手山の初冠雪が10月6日、盛岡の初雪は11月16日です。


現代のことわざには「飛行機雲が長いと天気が悪くなる」があります。飛行機雲は、飛行機から出た水蒸気を含んだガスが一気に冷やされてできます。空気が湿っていると、いつまでも飛行機雲が残ります。つまり上の方に湿った空気が入ってきている、という事で、天気が悪くなる予兆ということになります。
今後の天気がどうなるか、空を見上げ、自然を観察すると、色々な発見がありそうです。

2023年8月26日 放送

2023年8月26日

県内に線状降水帯

2023年8月12日。大槌町付近では午前7時10分までの1時間におよそ100mmの猛烈な雨が降ったとみられ、気象庁は記録的短時間大雨情報を発表しました。その後7時50分、盛岡地方気象台は内陸で、積乱雲が停滞し集中豪雨をもたらす「線状降水帯」が発生したとして岩手県に初めて「顕著な大雨に関する気象情報」を発表しました。12日の雨量は大槌町161ミリ、久慈市下戸鎖151ミリ、遠野市附馬牛126ミリ、花巻市大迫119.5ミリを観測しました。この日、小笠原近海を北西に進む非常に強い勢力の台風7号が送り込む暖かく湿った空気の影響で、発達した雨雲が太平洋から県内に流れ込みました。又上空に寒気を伴った小さな低気圧が三陸沖に発生。高気圧の縁(へり)を周って陸地を通り日本海北部に抜ける珍しい動きをしました。これら複合的な要因で、短時間にまとまった雨が降ったとみられます。


豪雨はこの後も降り続きました。15日にかけて、沿岸北部では局地的に猛烈な雨が降り、12日の降り始めからの雨量は岩泉町小本673.5ミリ、久慈市下戸鎖531ミリ、普代327.5ミリに達しました。岩泉町小本では13日午後8時までの1時間に123.5ミリの雨を記録。小本では4日間で年間降水量の4割以上の雨が降ったことになります。日本の東海上から東北北部太平洋側にかけて伸びる前線があり、その前線に向かって台風7号から非常に暖かく湿った空気が流れ込みました。13日夜は上空の気圧の谷が通過し、東寄りの風が吹きつける形になった沿岸北部では、ごく狭い範囲で猛烈な雨が降り続きました。


線状降水帯は予測が難しい現象です。気象庁では線状降水帯による大雨が予想された場合、半日程度前から呼びかけを行っております。2023年の実績は、8月4日迄の時点で発生の「的中率」が5割、「見逃し率」が約6割でした。今回、気象台は大雨への警戒は呼びかけていましたが、これ程の雨量は想定しておらず、線状降水帯の半日前の呼びかけもありませんでした。予想を上回る気象現象。大雨の情報が出されてから備えるのではなく、自分の住むエリアに出されたらどう行動するか、改めて想定することが大切です。

2023年8月19日 放送

2023年8月19日

逃げなきゃコール

皆さんのお宅は、浸水想定区域ではありませんか。自宅は大丈夫だとしても、離れた所で暮らしている高齢家族の住まいが浸水想定区域、ということはありませんか。平成30年7月の西日本豪雨など水害による犠牲者は、在宅の高齢者の逃げ遅れによる割合が多いと指摘されています。総務省東北管区行政評価局と、東北大学災害科学国際研究所 佐藤翔輔(しょうすけ)准教授は、東北地方の、岩木川、雄物川及び最上川の3河川の、洪水浸水想定区域の住民を対象に、水害に関する意識調査を実施しました。


回答者1052人のうち、約1割の人は「浸水する区域ではない」と危険性を認識しておらず、6割の人は「危険性は理解しているが詳しくは分からない」と回答。つまり住民の7割が水害のリスクを十分に認識していないことが分かりました。「浸水の危険性を十分理解している」と回答した人は3割にとどまりました。青森県弘前市、山形県村山市では「浸水の危険性を十分理解している」と回答した人は2割前後にとどまり、「浸水する区域ではない」と回答した人が1割と全体の平均を上回りました。水害経験の違いが背景にあることが推測されます。「どちらかというと避難すると思う」人が避難を開始しようと思うきっかけは、「『避難指示』の発令」が5割、「警察や消防・消防団からの呼び掛け」が4割と高いものの、回答者の多くが高齢者であり、避難の準備や移動に時間を要することが予想されます。又少数ですが、浸水など「自宅に何らかの被害が生じたら」とする回答もあり、逃げ遅れの発生が懸念されます。


国土交通省では、離れた場所に暮らす高齢者等に危険が差し迫った場合、家族が直接電話をかけて避難行動を呼びかける「逃げなきゃコール」というキャンペーンを行っています。防災情報を受け取る各種アプリをダウンロード。大切な人が住む地域で水害等の危険が差し迫った場合、電話して避難するよう連絡するものです。詳細は「逃げなきゃコール」で検索すると確認することができます。あなたの「逃げて」が命を救います。

2023年8月12日 放送

2023年8月12日

気象科学館

2023年6月23日、港区虎ノ門にある気象庁2階「気象科学館」を見学しました。2020年、気象庁が千代田区大手町から移転したのをきっかけにリニューアルオープンしたものです。こちらには気象や地震の観測機器や、日本の自然を体感できるシアター、防災知識について学べる装置などを揃えています。


新たに設置されたのが新人予報官になりきりクイズに挑戦する「ウェザーミッション」で、台風等の備えについて学べます。青い大型スクリーンには例えば「高潮警報の『高潮』とはどのような災害でしょうか?」という設問の後「1.海水の塩分が高くなり魚に被害を与える災害 2.雨で川の水があふれ、家などが水につかる災害 3.雨で道路に水があふれ、家などが水につかる災害 4.海面が盛り上がり、高い波と共に海岸へ押し寄せる災害」の4択が示されます。答えは4番で「低気圧である台風には海面を吸い上げる力があり、高潮によって海水が盛り上がったところに高い波があると、普段は波が来ないようなところまで波が押し寄せ被害を与える恐れがあります。また高い波の危険を呼びかける警報を波浪警報と呼びます」と表示されます。クイズ形式で高潮の仕組みを理解し、住民避難の為、早めに警報を発表する必要性を学習します。


「津波シミュレーター」は、「風により起こる普通の波=波浪」と、「津波」を模擬的に発生させることができ、映像も交えながら津波の仕組みについて知ることができます。幅が8m程の横長の水槽には水が3分の1程入っていて、水槽の中心には表面、真ん中、底と3つの浮きを設置しています。水槽の右端には砂浜、ビルや住宅といった陸地の模型があり水から顔を出しています。左から右に動く水の塊の内、「波浪」では周期の短い波が防潮堤にぶつかり勢いよく砕け、その先の建物まで達することはなく海に戻っていきます。浮きを見ると、表面だけ水が動いていることが分かります。ところが「津波」の周期は長く、防潮堤にぶつかった後も、陸を駆け上がり建物に達します。浮きを見ると、海底から水面まで全ての水が動いていて、同じ波でも波浪と津波では性質が全く違うことが分かります。気象科学館の開館時間は午前9時から午後8時迄、入場無料で、予約不要で自由に入れます。

2023年8月5日 放送

2023年8月5日

日本一低い『日和山』

2023年6月15日、仙台市宮城野区にある「日和山」を登りました。仙台港の南側、蒲生干潟に面した蒲生地区にあります。流木でできた緩やかな階段をわずか6段進むと山頂です。標高はたった3m、日本一低い山なのです。仙台市高砂市民センターによりますと、元々、海の日和を見る為に築山された人工の山で、震災前は標高6m。1991年、国土地理院の地形図に掲載され、日本で最も低い山になりました。ところが1996年7月、大阪港区の天保山が標高4.5mで地形図に掲載されると、日和山は日本で2番目に低い山になりました。そして2011年3月11日。東日本大震災の津波で、山が削られてしまいました。2014年4月、国土地理院の調査で標高3mの山として確認され、再び地形図に掲載されることになり、日和山は18年ぶりに日本一低い山になったということです。


今回、日和山を案内して下さったのは、語り部活動を行っている「中野ふるさとYAMA学校」の佐藤政信さん(77)です。日和山が日本一に返り咲いたことについて聞くと「それは別として、津波に削られながらも残ってくれて良かった」と笑みを浮かべます。震災前、港町内会は86世帯が暮らしていました。正月は日和山に登って初日の出を拝み、それから高砂神社で初詣をするのが毎年の恒例でした。海までわずか600mの所にあり、海に魅せられ定住する人、サーフィンを好み移住する若い世帯も増えていたといいます。


しかし震災の津波が襲い、仙台市の死者・行方不明者は932名。3万34棟の建物が全壊し、佐藤さんの自宅も流されました。町内会役員の佐藤さんは、町内会では「災害時のマニュアルは作っていた」といいます。しかし地震が来たら集会所に集まり点呼を取り、中野小学校に避難する、というもので津波を想定したものではありませんでした。津波の歴史は知られていなく「石碑もなく」、津波の認識は薄かったそうです。被災者である佐藤さんは「自然災害を知りながら生活していきましょう」と勉強することの大切さを呼びかけます。着用する黄色いベストの背中に記されている「Iラブ日和山」。佐藤さんは、震災前も後も心の支えとなっている日和山の魅力と、震災の記憶をこれからも伝え続けます。

2023年7月29日 放送

2023年7月29日

石巻市震災遺構 大川小学校

2023年6月14日、宮城県の「石巻市震災遺構 大川小学校」を訪れました。2011年3月11日、高さ8.6mの津波は家や車や土砂、長面(ながつら)海岸の数万本の松の木を巻き込み、黒い壁となって北上川を遡りました。そして海から3.7キロ内陸に位置する学び舎を呑み込んだのです。地震から津波が到達するまで51分ありました。しかし避難開始の意思決定が遅く、かつ避難先を河川堤防付近にしたことから、校庭に留まり続けていた児童74人、教職員10人が犠牲になりました。4人の児童は行方不明のままです。


現地に足を運ぶと、震災の爪痕が色濃く残る、モダンな2階建ての円形校舎がありました。かつて体育館に通じる渡り廊下はガラス張りで、透明なトンネルで繋がっていました。その渡り廊下のコンクリートの根本は鉄筋がちぎれ、海側にねじり倒されています。2方向からやってきた津波が渦を巻き破壊したことが見てとれます。壁の無い教室からは、飛び交う鳥が巣くっているのか、賑やかな鳴き声が響いています。本来は子ども達の声が響く場かと思うと、一層、悲しみが増します。


同じ敷地内には2021年7月から公開されている「大川震災伝承館」があります。平屋の建物の中には、震災前後の航空写真や地域模型、実物資料を展示している他、パソコンで被災校舎の内部写真や裁判記録を閲覧できます。展示の中に「大川伝承の会」がまとめたファイルがありました。その中では「大川小以外にも、備えが不十分だった学校はあります。津波が到達しなかったので助かりましが、学校管理下での安全は『たまたま』で守るものではないはずです。求められているのは、津波が迫る中での判断ではなく、平時の備えです」と避難は勿論、事前防災の大切さを説いています。遺構のパネルにも同様の文言が刻まれています。「あの日のこと 今 そしてこれから」と題したメッセージには「当たり前のことですが どんな時も命を守る行動を優先することが必要です 今 この当たり前が非日常であるのなら 今日から日常に変えてほしいのです」。防災を日常のことにし、命を守ることを優先する。当たり前のことを続けていくことが、私達に問われています。

2023年7月22日 放送

2023年7月22日

請戸小学校

2023年6月14日、福島県にある震災遺構・浪江町立請戸(うけど)小学校を訪れました。2021年10月から一般公開されているもので、2023年3月末までに約7万4000人が訪れています。東日本大震災では15.5mの津波が地区を襲い、海岸から300mにある校舎は2階の床上10センチまで浸水しました。当時校舎にいた児童83人と教職員は約2キロ離れた大平山(おおひらやま)まで歩いて避難し全員助かりました。


野原が一面に広がる海辺に近づくと、倒壊を免れた鉄筋コンクリート2階建ての建物がポツンとあります。1階の教室の壁は落ち、廊下との間の柱は赤茶色に錆び捻じれたままです。床面は公開にあたり片付けられていますが、唯一、職員室前の印刷室は当時のままの姿です。木や鉄骨、鉄板、椅子、機械の一部等、あらゆる物が押し込められたような状態で、乾燥し、ボロボロに崩れた壁材と一体となっています。見ていると胸が苦しくなりました。体育館のステージには横長の看板「卒業証書授与式」が頭上に掲げられ、被災直前の児童の歓声が聞こえてくるようでした。一方、木の床は地下で大蛇が這ったかのように大きくうねり、自然の脅威を静かに伝えています。


児童・教職員は助かった一方、請戸地区では154人が津波で命を落としました。2階フロアには当時を振り返る証言を記載したパネルがありました。中には「私は大きな津波は来ないと思いました。それは先人達より『請戸の浜は遠浅の海だから大きな津波は来ない』と伝えられていたからです」という人がいました。又避難を呼びかけた職員は「どうせ津波は来ないから、俺は居るから、そんなことやらなくてもいいぞ」と道路沿いに立っていた方がいた、と振り返っていました。災害を正しく伝承する難しさを感じます。
見学コースは次のパネルで締めくくられています「地震やその他の災害はいつ、あなたのもとにふりかかるか、わかりません。『あなたにとっての大平山はどこですか』」。津波から命を守る為にはどうすれば良いのか考えると同時に、逃げられたのに逃げない人がいたのは何故かも、1人1人が考える必要があります。

2023年7月15日 放送

2023年7月15日

復興とは~浪江町2~

東日本大震災と原発事故で大きな影響を受けた福島県浪江町には、移住した若者達が2018年に立ち上げた任意団体「なみとも」があります。「町の人と共にここで楽しく暮らそう」「友達の輪を広げよう」をコンセプトに様々なイベントを企画し、町に人のつながりの場を提供しています。2023年6月14日、代表の小林奈保子さんにお会いしました。小林さんは1987年、田村市生まれ。夫が浪江町役場の職員という縁で2017年春、避難指示一部解除と共に移住しました。当時の人口は約200人。若者は、自分と役場職員ぐらいで「暮らしを楽しむ為には集まらないと何も始まらない」と団体を設立しました。当初は浪江のことを何も知らないので、浪江に戻ってきた高齢者とヨガ、英会話、お茶飲みや酒飲みで交流し「暮らしの土台づくり」を行いました。その後、企業や町の内外で活動する団体、支援者とも連携し、輪を広げてきました。町の課題の一つは「人材不足」。求人を出しても人が来ない他、近所に住民がいないので、回覧板が回せない状況です。しかし小林さんは「余所者だから、不便を感じず過ごせている。アイデアや話を聞いてくれ、自分にとっては住み心地が良いです」と目を輝かせます。


小林さんに“復興”という言葉について尋ねると「活動の中で『復興』という言葉を使ったことがありません。元の生活に戻ることが復興かどうか議論になってしまいます。課題に対して何をすべきか、言語化、可視化する。その繰り返しなので、活動の中で『復興』という言葉は使いません」と明快な答えが返ってきました。
浪江町は2026年度に、駅から商業施設までが一続きに繋がる中心市街地再生が完了する他、2030年度迄に、国の内外の研究員や職員数百人が参加する研究施設が整備される等、大きく変わろうとしています。


小林さんは「『浪江って若い人が住めるの?』と思っている人がいますが、知識をアップデートしてほしい。町はこれから物凄いスピードで変わっていきます。放射線、処理水の話はありますが、暮らしの話はありません。こちらから発信しないといけないし、関心のある人と接触したい」と、町への理解の広がりに意欲を燃やしていました。

2023年7月8日 放送

2023年7月8日

復興とは~浪江町1~

震災後、復興への歩みを確かめる為、福島県と宮城県に足を運んでいます。今回は福島県浪江町についてです。町の資料によりますと、2011年3月11日の東京電力福島第一原子力発電所の事故により、町全域の2万1000人を超える町民が避難対象になりました。そして2017年3月31日、一部地域で避難指示が解除。依然、面積の8割が帰還困難区域に指定されています。人口は2023年5月末現在、2059人と震災前の約1割に回復しました。


「元の生活になることが復興と思っていた」と現実とのギャップに落胆するのは、前の商工会長の原田雄一さん(74)です。2023年6月14日、避難先の二本松市で経営している「原田時計店」を訪ねました。原田さんは1925年から続く老舗の3代目で、震災当時、長女夫婦と共に店を切り盛りしていました。原発事故後は避難で各地を転々とし、浪江町からの避難者が多い二本松市に落ち着きました。商工会長として国や東京電力に賠償を求め、会員事業所の事業再開などに奔走。商工会長を引退した2017年11月、二本松市の復興公営住宅の近くに店を構え、現在はメガネや補聴器のアフターサービスを中心に行っています。長女夫婦は2018年4月、茨城県つくば市に店を開いた為、結局、浪江にあった店は二本松とつくばの二つに分かれた形です。


原田さんは当初、浪江の人たちと町外にコミュニティを作り「みんなでまとまって町に帰ること」を望んでいました。その計画書を作成し町に提出するものの、町の考えとの間にずれがあり、結局それは採用されませんでした。コミュニティが無くなった今の浪江で顧客を開拓するのは原田さんにとって難しく、浪江には帰る気持ちは「もうない」と寂しそうに語ります。又、浪江に保有する土地の固定資産税を納めていますが「町外に避難している町民には負担に見合った支援が無い」「土地を処分したいものの買い手も見つからない」と嘆きます。「こういう災害はまた起こるかもしれない。12年経って住民の9割が町外にいる。これは復興ではないと思う。復興行政を検証すべき」。原田さんは今後、地域を壊されるような災害があった場合、自分のような思いをしてほしくないと訴えています。

2023年7月1日 放送

2023年7月1日

南極2

2023年6月3日、岩手日報社の鹿糠利和記者と、菊池健生記者に、南極についてお聞きしました。鹿糠さんは2007年~2008年、第49次南極地域観測隊、菊池さんは2021年11月から2023年3月まで約500日、第63次南極地域観測隊に同行されました。菊池さんの取材内容は「南極探見500日 岩手日報特別報道記録集」として5月に発売されました。


菊池さんの南極での仕事は記者業務の他、除雪や建築、雪上車の整備など多岐に亘りました。越冬隊32人と極限の環境を生き抜く為には、専門外の作業も行う必要があります。最大瞬間風速37m、時速に直すと120キロの猛吹雪=ブリザードの中、ライフロープを伝っての移動では「命の危険を感じた」といい、体験談からその過酷さが分かります。南極で一番印象に残ったのは「オーロラ」でした。「運良く激しいオーロラが出ると、ライトがなくても昭和基地全体が見渡せるぐらい明るくなります。カーテンのようになびくものや、頭上に振り込んでくるような動きをするものがあり、生き物のように感じました。北極圏の先住民族は、オーロラを精霊などに例えていたらしいが、実際、そう感じるのも納得します」と感慨深げでした。一方、鹿糠さんが一番、印象に残ったのは南極の湖に潜水した際の世界でした。「植物がほとんど無い南極で、水温3度の湖に潜ったら草原のような植物の大群落がありました。コケ類と藻類の集合体で、育つまで6千年かかっているとのこと。世界でまだ数人しか見たことがない光景を目にして、感動し、潜りながら『うわー』と叫んでしまった」と当時を思い出していました。記録集では、菊池さんが泣いた日が「2日」と小さく記されています。これは観測隊の引継ぎの機会で「63次なので、62次隊・64次隊と入れ替わって活動しました。最後ヘリで見送る時、或いは見送られる時、ウルッと来ました」と極地での絆を感じました。


今回、菊池さんの取材をバックアップした鹿糠さんはリスナーに対し「南極は、岩手と空気も繋がっています。温室効果ガスや、ゴミ問題も繋がっています。日々の生活を見直す意味でも、本を通して南極に触れて頂き、岩手での暮らしを考えてもらいたい」と力を込めていました。

2023年6月24日 放送

2023年6月24日

南極1

2023年6月3日、共に南極地域観測隊に同行した岩手日報社の鹿糠利和記者と、菊池健生記者にお話しを聞く機会がありました。地球最南端の貴重な体験については次回、お伝えします。


この時間は環境省の情報を元に「南極はどんな所か」取り上げます。南極の昭和基地は日本から1万4000キロ以上も離れた場所にあります。「氷の大陸」と呼ばれていて、陸地の上に氷があります。オーストラリア大陸よりも大きい1300万平方キロ。氷の厚さは一番厚い所で富士山よりも高い4000m。平均約2500mの厚さで、地球にある氷のほとんどが南極にあります。地球で一番寒く、昭和基地の夏の気温が平均で氷点下1度、冬は平均で氷点下20度。冷蔵庫と冷凍庫の中で生活しているようです。厳しい自然環境ですが、大陸を取り囲む海には海藻や小魚など豊富なエサがあり、約280種の魚の他、ペンギン、アザラシ、クジラ、イルカも暮らしています。南極には「極夜(きょくや)」と「白夜(びゃくや)」があります。極夜は一日中太陽が出てこない日、反対に白夜は一日中太陽が出ている日です。地球の回転軸が傾いている為に起こる現象で、極夜と白夜は、昭和基地では約45日間、南極点では約半年間、続きます。又南極では大気中の発光現象・オーロラが見られます。地球の大気と、太陽からやってくる電気を帯びた小さな粒子がぶつかり光ってできるもので、地上100〜200キロの高さに現れます。

南極は地球の健康度を測るバロメーターといわれています。文明から遠く離れ、人による環境汚染が最も少ない地域である為、わずかな影響でもすぐに現れるからです。厚い氷の中には、氷ができた際の空気が閉じこめられています。数十万年前の空気を取り出して成分を調べることで、大昔から現在までの気候の移り変わりが分かります。例えば、氷に閉じ込められた二酸化炭素を分析することで、今後の地球温暖化の対策や、将来の地球に与える影響を考えることができるのです。

2023年6月17日 放送

2023年6月17日

岩手の線状降水帯

盛岡のオールドリスナーさんから質問を頂きました。ありがとうございます。「先日、四国から東海地方の広い範囲で線状降水帯の発生により大きな被害がありましたが、北日本、特にも岩手県でも起き得るのでしょうか?盛岡市中心部で道路が冠水する程の大雨は記憶に無いのですが」。


2023年6月2日、台風2号や梅雨前線により、線状降水帯が四国から東海地方の広い範囲で発生し、記録的な大雨となりました。線状降水帯は、湿った空気の流入が持続することで次々と積乱雲が発生し、線状の降水域が数時間に亘って、ほぼ同じ場所に停滞するものです。強い雨の区域は、長さ50~300km程度、幅20~50km程度です。線状降水帯というと西日本で発生という印象ですが、岩手でも発生したことがあります。2013年8月9日、岩手の県央部と秋田県は、これまでに経験したことのない記録的大雨に見舞われました。雫石町では1日で264ミリと8月1か月に降る雨量を上回りました。花巻市大迫では観測史上1位、1時間に63.5ミリという滝のような雨が降りました。大雨で怖いのは土砂災害と河川の増水で、県内では2人が犠牲になりました。花巻では90代の女性が、自宅裏山が崩れて家屋内に流入し亡くなりました。西和賀町では釣りをしていた60代の男性が川に流され命を落としました。又、盛岡市、雫石町、矢巾町、紫波町、花巻市などで、住まいの床上浸水や床下浸水、がけ崩れなどの土砂災害、道路の損壊や冠水が発生しました。気象庁気象研究所は、大雨の要因について「2つの線状降水帯が停滞することでもたらされ、それぞれの線状降水帯は風上にあたる奥羽山脈で積乱雲が繰り返し発生することで形成された」と分析しています。


豪雨災害から命を守る為に、改めて「ハザードマップや避難ルート」を確認しましょう。又、線状降水帯発生情報は「未明から早朝」という就寝時間帯に発表される傾向があり、早めの避難が大切になってきます。

2023年6月10日 放送

2023年6月10日

森林の役割

2023年6月4日、第73回全国植樹祭が、天皇皇后両陛下をお迎えして陸前高田市で開かれました。森林や緑に対する国民の理解を深めようと行われているもので、県内では旧松尾村、現在の八幡平市での開催以来49年ぶりです。岩手県の森林面積は約118万ヘクタールで県土の77%を占めています。


さて森林は木材の生産の他、私達の生活にどんな役割を果たしているのでしょうか。林野庁では「水を育む森林のはなし」として大きく3つ挙げています。1つ目は「水資源を溜める機能」です。森林土壌はスポンジに例えられます。急勾配な山地の森林に降った雨は、一旦土壌の隙間に蓄えられ、ゆっくり時間をかけて川へ送り出されます。例えば晴天が続いても渓流の水がすぐに枯れないのは、こうした機能によるものと考えられます。2つ目は特に中小規模の「洪水の緩和」です。森林土壌に浸透した雨は、様々な経路を辿りゆっくりと流れ出ていくことから、雨が降った際、川の水量のピークを低下させたり遅らせたりする働きがあります。3つ目は「水質の浄化」です。雨水が森林を通って土壌に染み込み、最後に渓流に流れ出るまでに、リンや窒素などの富栄養化の原因となる物質は、土壌中に保留されたり、植物に吸収されたりする一方、土壌中のミネラル成分等がバランス良く溶け出すことにより、森林は美味しい水を作り出すと考えられています。


続いて森林内に入り清浄な空気に身を置く、所謂「森林浴」の健康効果についてです。環境省の「データで見る国立公園の健康効果とは?」によりますと、免疫機能増強効果が森林浴前と比べて1日で27%、2日で53%上昇。都市よりも森林を眺めると、リラックス状態を示す副交感神経活動が1.5倍増加し、ストレスホルモンが13%減少した、とのことです。今後も森林を維持していく為に、自然環境に配慮した製品を選んで購入したり、動物が破片でケガをしたり間違って食べたりしないようゴミを捨てない等、意識と行動が求められます。

2023年6月3日 放送

2023年6月3日

巨大地震と津波の応援派遣

日本海溝・千島海溝沿いで発生が想定される巨大地震と津波に備えた政府の計画がまとまりました。これは2023年5月23日、政府の中央防災会議の幹事会で決定したものです。計画では、特に大きな被害が予想される岩手と青森、宮城の3県と北海道を対象に、生存率が急激に低下する災害発生72時間、3日以内に自衛官や警察官、消防士など最大15万人を派遣します。具体的には43都府県から最大で警察約1万7000人、消防約2万3000人、自衛隊約11万人を投入。人命救助や消火活動にあたるのは「被害が想定されない地域に所在する、警察災害派遣隊、緊急消防援助隊、国土交通省 TEC-FORCE 及び自衛隊の災害派遣部隊」です。派遣される人員の割合は被害規模の想定に応じて、北海道が7割、東北の3県が合わせて3割と設定されました。また救援物資については、発生から3日間は家庭や自治体の備蓄で対応することを前提としていて、4日目から7日目までに食料や毛布、おむつなどを4道県に届けるとしています。


計画では「被害全容の把握を待つことなく、震度6弱以上が観測され、大津波警報の発表があった場合、災害応急対策活動を直ちに開始する」としています。陸路で被災地に向かう際、県内では広域に展開する拠点として、警察庁が西和賀町の秋田自動車道・錦秋湖SA下り線に、消防庁は八幡平市の東北自動車道、岩手山SA下り線、奥州市の前沢SA上り線、下り線に参集することになっています。


計画の中には「食料、飲料水、医療物資、燃料及び生活必需品を、被災地向けに全国からできる限り確保し、遅滞なく供給すると共に、これらの物資の買いだめ、買い急ぎを防止すること」とあります。災害が起きた際、被災地以外に暮らす住民は、物資供給の妨げにならないよう冷静な行動が求められます。

2023年5月27日 放送

2023年5月27日

エルニーニョ現象と岩手の夏

夏になると日本列島は南から太平洋高気圧に覆われます。加えて、更に上空の高い所に、もう一つの高気圧があって大陸から日本付近に広がってきます。この高気圧を、チベット高気圧と言います。気象庁は2023年5月23日に、6月から8月の3か月の天候の見通しを発表しました。2023年の夏はチベット高気圧の東への張り出しが強いことから、沖縄・奄美から東日本にかけて暖かい空気に覆われやすい為、東日本、西日本では高温傾向。沖縄・奄美で高温と予想されています。つまり猛暑です。北日本の気温は平年並みで夏らしい暑さ、又、全国の降水量もほぼ平年並みです。


気になるのは「エルニーニョ現象」です。夏までの間に80%の確率で発生すると予想されています。「エルニーニョ現象」は、太平洋赤道域の日付変更線付近から南米沿岸にかけての海面水温が平年より高くなり、その状態が1年程度続く現象です。世界中の異常な天候の要因になり得ると考えられています。エルニーニョ現象が発生すると、北日本の夏の平均気温は平年並みから低い傾向があります。3か月予報でも、日本の南で太平洋高気圧の西への張り出しがやや弱く、南から暖かく湿った空気が流れ込みやすい為、北日本・東日本・西日本では低気圧や前線の影響をやや受けやすい時期がある予想が出されています。


2000年代のエルニーニョ現象は、2002年夏から2002年・03年の冬にかけて、2009年夏から2010年春にかけて、2014年夏から2016年春にかけてと3回発生しています。この時、どんな夏だったのか、盛岡と宮古に関して調べました。3回共、平均気温はほぼ平年並み。2002年夏の降水量は平年の150%から160%と多く、日照は平年の8~9割。2009年夏の降水量は盛岡が平年並み、宮古は平年の9割、日照は盛岡・宮古で平年の8割前後。2014年の日照は平年並み、降水量は、盛岡は平年並み、宮古は140%でした。2000年代の岩手のデータでは、エルニーニョ現象発生の夏は、気温は平年並みですが、「日照不足」「多雨」という不順な夏もありました。岩手で陽射しが降り注ぎ、夏らしい暑さが長続きするのかどうか、太平洋赤道域の海面水温がカギを握ります。

2023年5月20日 放送

2023年5月20日

能登地震

今回は2023年5月5日に石川県の能登半島沖で起きたマグニチュード6.5の地震についてです。石川県珠洲市では最大震度6強を観測し、市内で65歳の男性がはしごから転落し死亡し、石川県と富山県で42人がけがをしました。石川県では住宅の全半壊が31棟に上りました。「震度6強」は、這わないと動くことができず飛ばされることもあり、東日本大震災の際、一関市、大船渡市等で観測した県内の「最大震度6弱」よりも大きな揺れでした。


今回の地震について研究者の多くは2020年12月頃から活発化した群発地震の一つと見ています。地下の水などが移動するのに連れて次々と発生するタイプです。2022年6月19日に珠洲市で震度6弱を観測した能登地方を震源とする地震のマグニチュードは5.4でした。今回の地震のエネルギーはその40~50倍になります。政府の地震調査委員会は13日の記者会見で「地下5キロから10キロの断層が大きくずれて強い揺れをもたらした」と説明しました。観測されたデータの分析から、震源の断層は能登半島の地下から北側の海底に続くような形状としています。更に「海底には沢山の断層があり、水が浅い所に染み出して地震を起こしていると解釈できる」と指摘しました。しかし、付近の海底にある活断層と今回の震源断層とは一致せず「3次元的に見ると動いていない」という考えを示しました。また「地震の回数は減ってきたが、活発な状態が続いている」として警戒を呼びかけました。そして能登半島北側には活断層があり、地震の多発で活断層が刺激され動くことで、津波が起きる恐れもある、ということです。


今回の地震のけが人の中にはタンスの下敷きにより負傷した人もいます。岩手に住む私達も、大きな揺れが襲った際、室内で落ちてきたり倒れてきたりして、けがをするような物がないかどうか、改めて確認する等、住宅を安全に保つ必要があります。

2023年5月13日 放送

2023年5月13日

震度5・6の強弱

宮古原産のさだとしぞうさんから質問を頂きました。ありがとうございます。「なんで震度って4以上は5強とか6強とかの区分なんですかね」。


気象庁の震度階級は、小数点第一位までを用いて表した「計測震度」と、整数のみを用いて表した「震度」があります。かつて震度は体感や周囲の状況から推定していましたが、1996年4月以降は「計測震度計」による観測に切り替えました。水平や上下の揺れの強さの程度を計算して数値化した計測震度から、震度に換算し速報するものです。震度6強、6弱、5強、5弱の区分は、1996年10月から適用されています。契機となったのが1995年1月17日に発生した「阪神・淡路大震災」です。各地の震度は神戸、兵庫県淡路島の洲本(すもと)で「震度6」、兵庫県豊岡、滋賀県彦根、京都で「震度5」でした。しかし現地調査を行ったところ、木造や鉄筋コンクリートの建物の倒壊・崩壊・傾斜、家具の移動・転倒、棚の食器や書籍類の落下など、同じ震度5、震度6でも被害の幅が大きいことが分かりました。そこで被害の様相を反映させる為、計測震度4.5以上5.0未満を「震度5弱」、5.0以上5.5未満を「震度5強」、5.5以上6.0未満を「震度6弱」、6.0以上6.5未満を「震度6強」と細分化することで、適切な防災対応ができると判断したものです。


尚、1995年当時の震度階級は、震度0から7までの8階級で、震度7については現地調査により決定するものとなっていました。その調査で、神戸市須磨区から西宮市・宝塚市にかけてと、淡路島の北部で震度7に達していることが分かりました。その後、気象庁はこのデータを元に、震度階級を改正し現在の震度6強、6弱、5強、5弱も加えた10階級にすると同時に、震度7についても計測震度計で速報できるようにしました。

2023年5月6日 放送

2023年5月6日

高齢者の熱中症対策

総務省消防庁によりますと、2022年5月1日から9月30日の間に岩手県内で熱中症により救急搬送された方は516人でした。その内、65歳以上の高齢者が330人と最も多く、全体の約64%を占めています。又発生場所は、炎天下の屋外を連想しますが、意外にも住居が251人と約49%、ほぼ半数を占めています。


厚生労働省等の資料によりますと、高齢者が特に注意が必要な理由は大きく3つあります。1つ目は「体内の水分が不足しがち」です。高齢者は若年者よりも体内の水分量が少ない上、体の老廃物を排出する際、沢山の尿を必要とするのです。2つ目は「暑さに対する感覚機能の低下」です。加齢により、暑さやのどの渇きに対する感覚が鈍くなります。3つ目は「暑さに対する体の調節機能の低下」です。高齢者は体に熱が溜まりやすく、暑い時には若年者よりも循環器系の負担が大きくなります。


日本気象協会の資料では、高齢者の室内での熱中症対策を5つ挙げています。1つ目は「気温や湿度を計る」です。今いる環境の危険度を知りましょう。2つ目は「室内を涼しくする」。日差しの無い屋内でも、高温多湿・無風の環境は熱中症の危険が高まります。冷房や除湿機・扇風機などを適度に利用し、涼しく風通しの良い環境で過ごしましょう。3つ目は「水分を計画的に摂る」。のどが渇く前に、定期的な水分補給をしましょう。キュウリやナスなど、水分を多く含む食材を食事に取り入れるのもお勧めです。4つ目は「お風呂や寝る時も注意」です。入浴時や就寝中にも体の水分は失われます。入浴前後に十分な水分補給をしたり、寝る時は枕元に飲み物を置いたりしておくとよいでしょう。5つ目は「周りの人が気にかける」。高齢者は自分で暑さやのどの渇きに気づきにくい上、体調の変化も我慢してしまうことがあります。周りの人が体調をこまめに気にかけ、予防対策を促しましょう。

2023年4月29日 放送

2023年4月29日

久慈市の保育園

久慈市の記録によりますと、2011年3月11日の東日本大震災で、久慈市では震度5弱を観測。地震発生から約40分後、波の高さ8.6m、陸地を這い上がった高さが約27mの津波が襲い、漁港施設や漁船、沿岸の家屋や工場を一瞬にして呑み込みました。


2023年3月2日、久慈川河口に面した久慈湊保育園の岩山優子園長に、当時の様子や園の防災への取り組みについてお聞きしました。大地震のあった時間は昼寝の最中でした。パジャマ姿の0歳から5歳まで55人に上着を着せ、職員、近隣住民も合わせ約80人が避難しました。避難場所の金刀比羅神社には震災2日前の地震で避難していたこともあり、岩山さんは「泣き叫ぶ子どもがおらずスムーズに逃げることができました」と振り返ります。夕方、社務所から、地域住民の車に同乗し自家発電のある安全な場所に移動。夜9時頃には園児全員を家族に引き渡すことができました。翌日、園を確認すると、壁にひびが入っている所はありましたが、幸い津波の被害はなく、3日後には保育を再開することができました。園では毎月1回の火災や防犯を含めた避難訓練の他、毎年5月に園庭を回るマラソン大会も、避難する為の体力作りと捉えています。又、園児には紙芝居やアニメを通して津波の怖さを伝えていますが、岩山園長は「冷静に対処する為、あまり不安を与えないように」配慮しています。

県が2022年3月に公表した最大クラスの津波の浸水想定によりますと、久慈市の浸水面積は13.1平方キロメートルで、東日本大震災の浸水面積4平方キロメートルの3倍以上と示されました。最大クラスの津波で懸念しているのは冬場の避難です。外に逃げる際、着替えをすぐに取り出せる場所に置く等、備えています。園では訓練を通して、津波避難の課題を解決していくことにしています。

2023年4月22日 放送

2023年4月22日

久慈市の新防災マップ

久慈市は県による最大クラスの洪水と津波浸水想定を受け、2023年3月、総合防災ハザードマップを5年ぶりに改訂しました。洪水・土砂災害と地震・津波の2種類の地図を拡大し、危険区域を分かりやすく表示しています。


今回は大雨災害発生を前提に、各世帯の避難行動を時系列で整理した計画「マイ・タイムライン」のページを新たに設けました。例えば久慈市役所周辺を例に見てみます。まずは「洪水」「土砂災害」のリスクをチェックすると「洪水浸水想定区域」ということがわかります。北は久慈川、南は長内川が流れる三角州にあり、2日間で704ミリから924ミリという1000年に一度レベルの大雨が降った場合、3m以上浸水すると想定されています。そして避難に支援を必要とする人やペットの有無、最寄りの指定避難所、避難手段は徒歩か車か、又、避難時間はどれぐらいか、記入する欄を設けています。警戒レベルに応じて、非常持ち出し品の確認から避難開始まで、どのタイミングでどう動くか、自分の取るべき行動について具体的に考えることができます。新しいハザードマップは市内約1万5000戸に配布した他、市のホームページからもご覧になれます。市防災危機管理課の田中淳茂(あつしげ)課長は市民に対して「自然災害はいつ起こるかわかりません。普段からご家庭や職場などでハザードマップを活用し、ご自宅やお仕事先の災害リスクや避難経路の確認などを行い、有事の際、速やかに避難できるよう備えていただきたいと思います」と活用を呼び掛けています。


市は2023年5月には住民説明会を開催することにしています。このハザードマップを、いかに速やかな避難行動に結び付けるか。逃げ遅れのない防災行動の為には、避難が困難、又、避難訓練参加自体が困難な方も含めて、自治体、地域でサポートすることが大切になります。

2023年4月15日 放送

2023年4月15日

春の強風と山火事

2023年4月13日の県内は、内陸に一時暴風警報が発表され、朝から昼過ぎにかけて風の強い状態が続きました。北上市本石町(ほんごくちょう)では13日午前10時頃、住宅の屋根がはがれる被害が発生しました。市内ではこの他にも消防に「屋根が飛ばされた」との通報が数件寄せられましたが、けが人はいませんでした。盛岡市神子田町の2階建ての集合住宅でも屋根がはがれる被害が確認されるなど、各地で強風の影響がありました。最大瞬間風速は紫波で27.1メートル、奥州市若柳で23.5メートル、盛岡と花巻で23.1メートルを観測しました。


春3月~5月は強風の季節です。1年を通して風速10m以上の日数は盛岡で平均16.3日あります。その内、春が最も多く8.5日、次いで冬が3.5日、秋が3.0日、夏が1.3日です。これは低気圧の発達が関係してきます。冬の間、冷たい北西の季節風を周期的に吹かせていたシベリア高気圧は、春になると勢力を弱め、代わって移動性高気圧や低気圧が、日本付近を交互に通過するようになります。その際、冬の冷たい空気と春の暖かい空気がぶつかり合い、低気圧が急速に発達し突風が吹きやすいのです。


この時期、気を付けたいのが山火事です。県によりますと2022年は30件の山火事が発生し、約8割が3月~5月に集中しています。又発生原因は焚火・野焼きによるものが約6割を占めています。2023年も4月3日午前、盛岡市の休耕地で草などを焼く火事があり、焼け跡から80代女性の遺体が見つかりました。現場は田畑の中に民家が点在していて、亡くなった女性は周辺でごみ焼きか野焼きをしていたとみられています。又、同じ日の午後、雫石町で田んぼ近くの林を焼く火事があり、焼け跡から性別不明の遺体が見つかりました。枯草や廃棄物を焼却する野焼きは原則禁止です。しかし農業、林業又は漁業を営む為にやむを得ない焼却や、日常の軽微なものは、消防署へ届け出ることで実施できます。野外での火の取り扱いには十分注意し、又、強風時や乾燥時には野焼きを控えましょう。

2023年4月8日 放送

2023年4月8日

舟下りの安全対策

2023年3月28日、京都府亀岡市で川下りの舟が座礁し、船頭2人が死亡しました。この事故について花巻のござ引きさんからメールを頂きました。「船が急流で弾んで、舵が水面上に出て空振りする『空舵(からかじ)』が起きて、船が航行不能になりました。船の構造を見直すなどのハードウエア、水量、波の状況をあらかじめ下見をして運行の可否を検討するソフトウエア、いろいろな対策があったと思います」。

さて岩手の観光事業者は、どんな安全対策を行っているのでしょうか。一関市東山町の景勝地・猊鼻渓を取材しました。北上川の支流・砂鉄川沿いにそびえる高さ50メートル以上の断崖絶壁が織り成す勇壮な景色を、舟の上から楽しむことができます。この事故を受け、猊鼻渓の舟下りを運営する「げいび観光センター」は、運航の安全対策や緩やかな川の特徴をホームページに掲載しました。「砂鉄川は、船頭さんが竿一本で往復出来るほど流れが緩やかで、急流箇所はなく、自然と船頭さんの案内をゆったりと楽しむタイプの舟下りです。船着き場付近の農業用の堰が、流れをせき止めており元々緩やかな砂鉄川の流れを更に緩やかにしています。運航するルートも、万が一川に落ちても足が川底につくような浅瀬を運航しています」としています。又、法律に基づき乗客1人ずつに座布団式の救命用具を配布し、船頭は紐を引いて膨らませるライフジャケットを身に着けています。舟の方向を決める、竿と呼ばれる木の棒を川底に押し付けることで、舟を操ります。折れたり流されたりした場合を想定して予備の竿も積んで運航しています。運航基準も明確に設けていて、基準となる場所の水位が35センチ以上となった場合か、風速が10メートル以上の場合は、運航中止となります。

新型コロナの影響で例年の半分以下にまで観光客が減った猊鼻渓舟下り。安全対策を徹底して、春の行楽シーズンを迎えています。

2023年4月1日 放送

2023年4月1日

最大クラスの津波対応(久慈市の自治会)

最大クラスの津波対応について、今回は久慈市の住民の声です。2023年3月2日、湊上組町内会を訪れました。128世帯が暮らす家々は高さ8mの防潮堤に囲まれています。避難場所である金比羅神社までは歩いて10分程。赤い鳥居をくぐった後は、苔むした159段の急な階段が待ち受けます。境内まで上りましたが、普段、運動している私も息が切れ、高齢者等、災害弱者といわれる方がたどり着くのは難しいと実感しました。

区長の佐々木喜美雄さん(73)は「防潮堤が壊れてしまえば10数メートルの津波が来る。全滅になる」と危機感を募らせます。佐々木さんは12年前の東日本大震災の際、消防団として避難を呼びかけましたが、自宅から逃げない方もいました。そのお宅は幸い床下浸水で一命を取り留めましたが「年配の方が素直に応じてくれれば良いが。『私は残る』『どうせ死ぬなら家と一緒に死にたい』という方もいる」「車椅子利用者を親に持つ家族に『私達は構わなくてもいいですから』といわれている」と語り、12年前の避難と同じ状況になることを危惧しています。支援が必要な人は、自動車を使うことでスムーズに安全な場所に逃げることができます。町内会では車避難を含めた逃げる手段や、これからの取り組みについて議論を進めています。佐々木さんは「避難訓練はどこの地域も一括の考え。地域によって山の方もあれば海辺の方もある。地域にあった避難訓練をした方がよい。自主防災組織もあるから、訓練前に、自主防で机上訓練、机の上で訓練。やったことがないから、やった方が良いのではと思う」と、地域の実情にあった避難訓練を模索しています。

岩手県の地域防災計画では、避難手段は原則として「徒歩」としながらも「避難所までの距離や避難行動要支援者の存在など地域の実情に応じ、やむを得ず自動車により避難せざるを得ない場合においては、避難者が自動車で安全かつ確実に避難するための方策をあらかじめ検討する」としています。自然災害から命を守る為、どのように安全に避難するのか、地域と自治体との連携が鍵となります。


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