震災から10年 亡き母を思いながら前へ/陸前高田市
<ニュースエコー 2021年2月10日>
東日本大震災の津波で母親が犠牲になった陸前高田市の美容師の男性。震災から10年。亡き母を思いながら生業の再生と町おこしなど前に向かって歩む姿を取材しました。
陸前高田市の中心部から少し外れた高台に新たにできた住宅街。その一角に小さな美容室があります。店主の伊藤英(さとる)さんです。利用客との楽しそうな会話が響きます。自宅を兼ねたこの店は伊藤さんが父・徳太郎さんとともにおととし再建しました。(2011年3月12日 ヘリコプターからリポート)
「もはや、どこがもともと海でどこが陸地なのかわからないような状況になっています。陸前高田市からお伝えしています」
東日本大震災による陸前高田市の被害は死者1606人、行方不明者202人。家屋は4047棟が倒壊し甚大な被害を受けました。中心部にあった伊藤さんの自宅も被災。最愛の母、涼子さんを津波で失いました。
(2014年3月11日)
震災から3年。伊藤さんは米崎町の仮設住宅で母の遺影に手を合わせていました。当時、盛岡の大学に通っていた妹のみどりさんも帰省し、一緒に暮らす父と3人で母・涼子さんが発見された漁港に向かいます。港に転がるコンクリート片を祭壇代わりに線香と花を手向けました。
(伊藤英さん)「あの日からここまで町が変わったんだよって、そこを(母に)見せてあげたいです」

震災から10年がたち、故郷の風景も大きく変化
(記者・再建した高台の家はどう?)
(伊藤英さん)「快適ですね、風が強いです」
この日、伊藤さんが向かったのは、震災前に自宅があった場所・高田町です。
(伊藤英さん)「ちょうどエリア的に…そうそうそう、多分ここ。ナビにあるのがここが家になるわけですよ」
かさ上げされ、変わってしまった町。自宅があった場所も分からなくなってしまいました。
(伊藤英さん)「この辺…この辺?」(辺りを見回す)」
元の地形を残しているのは裏山だけ。その山を目印に自宅があった場所を探します。
(伊藤英さん)「震災前は、自宅の2階の部屋からは松原の海の遠いところは見えましたね。」
元々は住宅街だった地域。かさ上げした後は更地が目立ち、枯れた草が空き地を覆っています。

家庭を持ったことで、さらに前に進むことができる
伊藤さんは震災から1年後、勤めていた市内の美容室を辞め、同級生が立ち上げたNPO法人「SAVE TAKATA」でまちの復興を後押しする活動を3年間続けました。
(伊藤英さん)「自分ひとりの力では、本当に微力すぎて何もできないかもしれないんですけど、何かひとつでも新しい震災後の陸前高田市になにか関わることができたらって」
その後は本業である美容師に戻り、東京のサロンで4年間腕を磨いたあとふるさとに帰ってきました。住まいの再建とほぼ同じ時期に結婚。今では2歳と生後3か月、2人の男の子の父親です。震災後に生まれた新たな命が今の伊藤さんの「力」です。もしも、母親が生きていたらと問うと。
(伊藤英さん)
「ドライな話をすれば、まあいないので、『たら・れば』的な感じになるよりは、今いる人たちで仲良くやって行けた方がいいかなと」
母の死に心を乱された時期を乗り越えたという伊藤さん。店の開業だけでなく新たな事に挑戦もしています。陸前高田市の花・ツバキの植樹や六次産業化をめざす「レッドカーペット・プロジェクト」の理事として去年から活動をスタート。伊藤さんが手がけるのはツバキの実から採取した椿油のヘアオイルです。
(伊藤英さん)
「サラサラな仕上がり感になるようにちょっと(椿油の量を)調整したものを作ってみたいなといってですね、やっちゃいました」
「なんていうんでしょう、今亡くなった事実は変わらなくて、震災10年を迎えるにしても受け入れて前に進んでる時点で…、きょう1日あったこと、こんなことあったよっていう報告はして。みんな元気で毎日笑顔で過ごしているよって、ありがとうって」
亡き母を思いながら前へと進む日々。10年という時間の経過が、伊藤さんの心を解すとともに一歩踏み出す力になっています。