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「被災者の思いをかたちに」 横浜からやってきた建築士の男性/大槌町

<ニュースエコー 2019年10月2日>

東日本大震災後、岩手県大槌町で暮らしながら被災者の暮らしの応援する横浜市の男性がいます。建築士として手掛けた物件は150件以上。暮らしや生業の再建にかける被災者の願いを「かたち」にしてきました。

「ここから見る景色が好きですねすごく良くなって歩道が広がって」

 一級建築士の坪谷和彦さん(46)です。横浜市に事務所を構える坪谷さんは、東日本大震災が発生した2011年の11月に、仕事がきっかけで震災の傷跡が色濃く残る大槌町を訪れました。はじめは仕事が終われば横浜にすぐに帰るつもりでした。しかし…。

(坪谷さん)
「大槌町に通ってるうちに大工さんと知り合いになって『仕事手伝ってくれ』って言われて、知り合いの要望に応えていっただけ。それがきょうまでです、みたいな感じです(笑)」

 津波に流された家や事業所の再建が進む中で、大槌町は建築士が圧倒的に足りない状況でした。次々に仕事の依頼が飛び込むようになった坪谷さん。妻と娘を横浜に残して一年のほとんどを大槌で過ごすようになりました。
つつみこども園=岩手県大槌町

家を建てる人の気持ちに入り込むことが大切だが…


「すみません、お願いします。ご無沙汰してます」
「お久しぶりです」

 坪谷さんが設計した大槌町吉里吉里のこども園です。震災前の2010年に新しい園舎を建設する計画でしたが、震災によって敷地を仮設住宅に提供したことから建物の完成が去年3月にずれ込みました。

(こども園・芳賀カンナ園長)
「最初は、建てられるのかなという不安と焦りとかいろんな思いはありましたけど、私たちの思いを全部坪谷さんが形にしてくれたので、思っていた通り、つくりたい園ができたと思っています」

 坪谷さんはこうした施設ではあまり例がない木造の在来工法を採用して、地元の大工さんに建築をお願いすることでコストを圧縮。被災地では経済的な負担を軽くしながらも満足いく機能や仕上がりを追及する設計を心がけています。

 その集大成ともいえるのがこちらの水産加工工場です。震災直後に被災した建物の再建計画を立てましたが、材料費や人件費が高騰し最初に見積もった鉄筋の建物では予算内に収まらなくなってしまいました。相談を受けた坪谷さんは、大きな工場の空間を木造で作り上げるという従来にはない発想で設計を提案しました。

(小豆嶋漁業・小豆嶋映子さん)
「加工場ですから、ある程度の広さ、物が置ける、物が入る余裕がないと、作業場のやりくりに時間がとられる。その点では(坪谷さんの設計は)すごく良かったと思っています」

 建築士は「家を建てる人の気持ちに入り込むことが大切」と話す坪谷さん。ただ、大槌での家づくりは、失われたものの大きさを痛切に感じることでもありました。

(坪谷さん)
「大きな被害を受けて、例えば奥さんを亡くされてるとか、すごい悲しい出来事だし、でもそれを避けては設計できないんで、それを自分の中に入れるのがいつも苦しかったです」
坪谷さんが大槌町で手がけた建物は150件を超えた

家は未来を考えること


坪谷さんが大槌町で手がけた建物は、家や事業所など150を超えました。家づくりを通してまちの厳しい現実が見えてくることもあります。

(坪谷さん)
「こうなっていくんじゃないのか、ということを話しますよね?息子さんはたぶん大槌に就職先がないだろう、出てって帰ってこないよって。だったら部屋一個少なくてもいいんじゃないかとか、そういう会話をするのはホントにきついですけど、避けられない…」
一年のほとんどを大槌で過ごすようになって8年。知り合いや友達もたくさん出来ました。仮設住宅で7年の時を過ごした坪谷さんの友達夫婦の新たな住まいです。失われた日々の分も楽しい時間を送れるようにと、心を込めて設計しました。

(坪谷さん)
「東京オリンピックに間に合わないかなって思ってたんですよ。でも仮設でオリンピックをテレビで見てもらいたくないって、それで急ぎましたね。でも何とか間に合ったんで」

 被災地の復興と足並みをそろえて進めてきた設計の仕事ですが、復興が終盤を迎え、坪谷さんの大槌町での仕事も大きな区切りを迎えています。

(坪谷さん)
「ひとりひとりの事業者さん、施主さんの期待に応えながら、大きなまちづくりは出来なかったけどそのパーツパーツを積み重ねたことはできたと思っています」

 「家は未来を考えること」、そう話す坪谷さん。まだしばらくの間は大槌のまちにとどまって、このまちの未来を見ていたいと考えています。
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