東日本大震災から8年半 内陸移住者の今/岩手
<ニュースエコー 2019年9月11日>
震災で津波で家を失い、沿岸から内陸に住まいを移した被災者も、それぞれに新たな土地で歩みを進めています。立場は「避難者」から、内陸に住む1人の「住民」へ…。宮古から盛岡に移住し、悲しみを乗り越え、前向きに生きる女性を取材しました。
今月4日。「もりおか復興支援センター」に6人の女性が集いました。楽しくおしゃべりしながら裁縫を楽しんでいます。この「手芸クラブ」は、被災し故郷を離れて内陸に移住した人たちの集いの場にしようと、震災翌年から週に5回、開かれています。
「(どういう話をするんですか?)やっぱり故郷の話ですよね。人柄が良い方が多くてね、お友達もできたり」
中澤朝子さん76歳。宮古市で被災し、盛岡市に移転しました。新たな仲間と集う時間は、中澤さんを悲しみや苦しみから開放してくれました。
(中澤朝子さん)
「震災のことはだんだん…思い出さないようにしてるから、前向きですから、その時の話題に溶け込んで」
中澤さんはいま、盛岡で夫の忠和さんと二人で暮らしています。
「ウニご飯にはヒジキを入れてね」
「ちゃんと宮古の味がする」

宮古から盛岡への移住後にも…
中澤さん夫婦は宮古で理容店を営んでいましたが、店舗を兼ねた住宅は津波で全壊。代々続いた店を閉め、2人は理容師を引退しました。
(中澤朝子さん)
「私たちのうちは、(これは)閉伊川なんですけど、このあたりです。こういって魚市場なんですよ」
(夫・中澤忠和さん)
「本当に一日で一生が変わったようです。一瞬にすべてを失う。水の力は防げません」
中澤さん夫婦は避難所で1か月生活した後、盛岡で理容店を営んでいた長男と住むため、盛岡に家を建てました。しかし、震災の2年後、長男が心不全で急死。更にその2年後、仙台に住む次女をガンで失います。震災、そして我が子2人の相次ぐ死。ただ、中澤さんが心を閉ざすことはありませんでした。盛岡で仕事を探し、また働くことにしたのです。
(中澤さん)
「子どもたちの分、働こうと思ってね。道半ばで逝ったから。仕事好きだったからね。私も仕事好きだし、だから色んな方との出会いを楽しみながら」
現在は、盛岡市内の蕎麦屋で「シニア採用」を受け、仕出し弁当の調理補助をしています。
(中澤さん)
「涙は流しません。やっぱり生きなきゃない。自分で生きなきゃならないから」
震災から8年余りの時間で、立場は「避難者」から、盛岡に暮らす一人の「住民」へ。居場所や生き方を自ら求め、見つけ、困難を乗り越えていかなければなりません。月命日の11日、盛岡で開かれたシンポジウム。被災者のコミュニティづくりやその支援について、講演やパネルディスカッションが行われました。
(岩手大学 三陸復興・地域創生推進機構・船戸義和特任助教)
「内陸に来た方というのは、まず最初の一歩ですね、最初に内陸の方々と関係を気づいていくという一歩を踏み出すのが、非常に大変。内陸に避難してきた被災者が『一住民』として地域の中に溶け込んでいくという長期的な視点から、支援に頼らない自立した地域の一員となっていくための『伴走の支援』が必要なんですけど」

生きることは、出あうこと
今年3月、ふるさとを離れ、盛岡で生活する被災者が記した手記が出版されました。中澤さんも寄稿しました。タイトルは「備えあれば憂いなし」。
(中澤さん)
「何しろ突然ですから、荷物を持ってきた方は少なかったようでした。本当に津波の辛い思いをした人たちを見てないで、背を向けて(内陸に)逃げたものですから…」
胸に残る記憶と、無力感…。教訓を形にして、後世に遺せる手記に想いを託しました。
(中澤さん)
「遺せるもの(手記)があって良かったんじゃないか。文章になればやっぱり良いですもんね」
今月、中澤さんたち手記を寄稿した内陸への避難者が、災害や福祉などに関わるボランティア団体のイベントで、震災の語り部として「あの日の出来事」を話しました。
(中澤さん)
「私は本当のメインストリートを走りました/学校の校庭に上がって下を見下ろしたら/車から何から津波ってこんな全然見てなかったんでわからなかったんですけど」
(聞いた人)
「忘れてはいけない体験だったと思います。みんなでこういった感じでお茶を飲みながら話し合う場を作っていって、そこに自分も参加できたらと思います」
(中澤さん)
「真剣に聞いていただけたので、ためになったら良いかなと思いました。とにかく外に出ることですよね。一歩出たら誰かに会える。戸を閉めてたら誰にも会えないから」
生きることは、出会うこと。一歩を踏み出し、得た出会いが、中澤さんの盛岡での心の復興を支えています。