地域コミュニティーの核を担っていた越喜来小は、海からほど近い低地に立地していた。震災の大きな揺れを受け、児童と職員は学校から高台の避難場所を目指した。
避難経路の一つは校舎2階裏側と市道を結ぶ非常階段。地元の市議が市に要望を続け、震災の3カ月前に整備されたばかりだった。
児童らは学校の第1避難所としていた三陸鉄道三陸駅へ向かう。「ここにも津波が来るかもしれない」。一行はさらに高台の南区公民館へと迅速に避難した。津波は校舎3階までのみ込んだが、児童73人は全員無事だった。
同校は甫嶺(ほれい)小校舎に居所を移して学校生活を送り、12年4月には両校に崎浜を加えた3校が統合。16年には高台に建設した新校舎へ移った。
避難経路の一つは校舎2階裏側と市道を結ぶ非常階段。地元の市議が市に要望を続け、震災の3カ月前に整備されたばかりだった。
児童らは学校の第1避難所としていた三陸鉄道三陸駅へ向かう。「ここにも津波が来るかもしれない」。一行はさらに高台の南区公民館へと迅速に避難した。津波は校舎3階までのみ込んだが、児童73人は全員無事だった。
同校は甫嶺(ほれい)小校舎に居所を移して学校生活を送り、12年4月には両校に崎浜を加えた3校が統合。16年には高台に建設した新校舎へ移った。

混ざり合う人の思い
東日本大震災で低地が壊滅的な被害を受けた大船渡市三陸町越喜来の浦浜地域。旧越喜来小跡地近くに2012年7月、がれき材を組み合わせた震災資料館「潮目」が開館した。
建物は地元で建設業に携わる片山和一良(わいちりょう)さん(69)が手掛け、海流が交わる潮目のような人と人の交流を願って名付けた。
震災から間もなく10年。低地は産業用地として整備され、イチゴ生産施設が稼働。トマト栽培施設の立地も計画されている。3年前、産業用地の整備に伴い潮目は三陸鉄道三陸駅に向かう道沿いに移設した。
赤や黄色でカラフルに彩色された外観。津波の写真や、がれきの中から拾い集めた時計、震災直後に子どもたちが描いた未来の越喜来の絵も展示する。
BAR・ばハウスと名付けた元仮設店舗や、タレントのSHELLY(シェリー)さんが支援したラフラブハウスも隣接。みちのく潮風トレイルのハイカーらが立ち寄るスポットになった。
潮目の屋上には越喜来小旧校舎から移設した非常階段を取り付けた。片山さんは「階段は子どもたちの命を守った『プラス』の震災遺構。BAR・ばハウスもラフラブハウスも震災があったからできた物で、いろいろな人の思いが詰まっている」と解説する。
非常階段は設備として有効性を発揮したが、当時の校長今野(こんの)義雄さん(64)=同市立根町=は「日ごろの訓練があったからこそ」と振り返る。
非常階段には2カ所の鍵が付いているが、事前に解錠作業を何度も確認したことがスムーズな避難につながり、1次避難所から2次避難所へと行動を移す時間も生まれた。
「精いっぱい想定して、備えておくことが大切」と今野さん。震災前後の人々の思いが「陸の潮目」のように混ざり合い、遺構を形作っている。
建物は地元で建設業に携わる片山和一良(わいちりょう)さん(69)が手掛け、海流が交わる潮目のような人と人の交流を願って名付けた。
震災から間もなく10年。低地は産業用地として整備され、イチゴ生産施設が稼働。トマト栽培施設の立地も計画されている。3年前、産業用地の整備に伴い潮目は三陸鉄道三陸駅に向かう道沿いに移設した。
赤や黄色でカラフルに彩色された外観。津波の写真や、がれきの中から拾い集めた時計、震災直後に子どもたちが描いた未来の越喜来の絵も展示する。
BAR・ばハウスと名付けた元仮設店舗や、タレントのSHELLY(シェリー)さんが支援したラフラブハウスも隣接。みちのく潮風トレイルのハイカーらが立ち寄るスポットになった。
潮目の屋上には越喜来小旧校舎から移設した非常階段を取り付けた。片山さんは「階段は子どもたちの命を守った『プラス』の震災遺構。BAR・ばハウスもラフラブハウスも震災があったからできた物で、いろいろな人の思いが詰まっている」と解説する。
非常階段は設備として有効性を発揮したが、当時の校長今野(こんの)義雄さん(64)=同市立根町=は「日ごろの訓練があったからこそ」と振り返る。
非常階段には2カ所の鍵が付いているが、事前に解錠作業を何度も確認したことがスムーズな避難につながり、1次避難所から2次避難所へと行動を移す時間も生まれた。
「精いっぱい想定して、備えておくことが大切」と今野さん。震災前後の人々の思いが「陸の潮目」のように混ざり合い、遺構を形作っている。
