2011年3月11日の東日本大震災は、過去を大きく上回る規模の大津波が襲った。高田町中川原地区の浸水高は14・1メートル。店舗や住家が並ぶ国道45号沿いは壊滅的な状態となり、松林は奇跡の一本松を残して約7万本が流失した。
高田松原の松は昭和三陸大津波とチリ地震津波で一部が被災し、再植林された。震災後はNPO法人高田松原を守る会(鈴木善久理事長)や県が再生を進め、今春にも計約4万本の植樹を終える。
一帯には高田松原津波復興祈念公園が整備され、19年に新しい道の駅と東日本大震災津波伝承館がオープン。20年に運動公園が復旧した。海水浴場は砂浜約1キロを人工再生し、4月にも一般開放が始まる。7月15日には11年ぶりの海開きを行う。

避難施設の在り方は
「死を覚悟した。少しでも波が高かったら、今は生きていない」。千葉さんはあの日を思い返し、言葉をかみしめる。近くで補修工事の仕事中だった。大きな揺れに「すぐ津波がくる」と直感し、同僚2人と走りだした。
1991年に開業したタピック45は海側がイベント広場になっており、普段は三角屋根が観客席として使われていた。さらに、高田松原海水浴場から当時の想定浸水区域の外まで約1・5キロあったため、地理に不案内で避難が遅れた海水浴客らの緊急避難ビルに、キャピタルホテル1000と共に指定されていた。
古川沼の水が引き、波が防潮堤を越えた。水位がぐんぐん上がり、迫ってくる。すぐにまちをのみ込み、一面が海に。市内の建物はほとんど見えなくなった。タピック45にも14・5メートルの津波が押し寄せコンクリートの内壁が押し破られたが、津波にあらがい最後まで立ち続けた。
九死に一生を得たが、市民体育館などの避難所に逃げたとみられる母と息子は犠牲になった。「自分は運よく助かったが、ここなら大丈夫と思った避難先で亡くなった人もいる。犠牲者を出さないために、避難施設はどうあるべきか。遺構を見る人には考えてほしい」と強く訴える。
犠牲者が出ておらず、復興事業にも支障がないとして、市は2012年に遺構としての保存を表明。今春から内部を一般公開する。
内部は流れ込んだ松やがれきがほぼ当時のまま保存されている。見学は有料で、市観光物産協会の高田松原津波復興祈念公園パークガイドが案内する。同協会の桑久保博夫事務局長(43)は「津波の威力を五感で感じてほしい」と願う。
