1933(昭和8)年の大津波では普代地区で29人、全村では137人が犠牲に。「普代に来てみると、まるで目も口も当られぬ程であった」「あちらでもこちらでもお父さんお母さんといふ声がした」。当時の普代尋常高等小(現普代小)の児童作文集には、生々しい情景が記される。
悲劇を繰り返してはならない−。84年、故和村幸得(こうとく)元村長の悲願で海抜15・5メートルの普代水門が完成した。総工費は35億円以上。財源などを巡り反対の声も多かったが、和村元村長は明治の大津波の15メートル以上の高さにこだわった。
そして時は過ぎ、平成の時代。3度目の大津波が村を襲った。

脅威物語る道しるべ
2011年3月11日。普代浜を襲った津波は、広大な園地内にあった海岸林、キャンプ場やプール、サケふ化場などを全て押し流した。波はそのまますさまじいスピードで普代川をさかのぼったが、立ちはだかる巨大な水門が勢いを弱め、中心部の被害を抑えた。村内の人的被害は死者0人、行方不明者1人だった。
同村太田名部の漁業太田正光さん(56)は「林がなくなり、ここの景色はがらりと変わった。だが、水門のおかげで村は助かった。災害から人命を守る村であり続けてほしい」と望む。
被災した普代浜園地は環境省と村が復旧整備。広さは約4ヘクタールで、芝生広場や産直などを備え生まれ変わった。被災後の浜には打ち上がった津波石がいくつもあり、中には3トンほどの石も。同省は芝生広場や駐車場周辺を中心に石を点々とレイアウトし、津波石であることを伝える看板を建てた。
村の復興の象徴である同園地はみちのく潮風トレイルルートのコースにもなっており、国内外から多くのハイカーが訪れる。巨大な津波石は歩き疲れた人々が腰掛け、つかの間休むこともできる。憩いの場であると同時に、後ろにたたずむ普代水門とともに震災の教訓を示す場になっている。
観光を担当する村政策推進室の前川正樹主事は「園地内に津波石が配置されているのは、教訓を未来に残すため。これほどの大きな石を簡単に動かすほど津波は恐ろしいものなんだと、しっかり伝えつないでいきたい」と力を込める。
