県昭和震災誌などによると、1896(明治29)年の三陸大津波では、普代地区が最高18メートル浸水。中心地で95人が亡くなった。村全体では当時の人口2038人中、ほぼ半数の1010人が死亡した。
昭和の三陸大津波では14メートルの波が襲来。中心地を含む同村普代で6人が死亡、28人が行方不明になった。供養塔には村全体で計135人が命を落としたと刻まれている。
度重なる津波を受け、当時の和村幸得(こうとく)村長(故人)が「二度あったことは三度あってはならない」と普代水門の築造を訴え、1984年5月に完成。過去の津波を参考にした高さ15・5メートルの防壁は「高すぎる」と批判も受けた。
完成から27年後に襲ってきた東日本大震災の津波は24メートルに達し、水門を越えて普代川をさかのぼった。だが水門のおかげで町中心部には到達せず、防潮堤の外側にいた1人が行方不明になったが、住家被害は出なかった。
昭和の三陸大津波では14メートルの波が襲来。中心地を含む同村普代で6人が死亡、28人が行方不明になった。供養塔には村全体で計135人が命を落としたと刻まれている。
度重なる津波を受け、当時の和村幸得(こうとく)村長(故人)が「二度あったことは三度あってはならない」と普代水門の築造を訴え、1984年5月に完成。過去の津波を参考にした高さ15・5メートルの防壁は「高すぎる」と批判も受けた。
完成から27年後に襲ってきた東日本大震災の津波は24メートルに達し、水門を越えて普代川をさかのぼった。だが水門のおかげで町中心部には到達せず、防潮堤の外側にいた1人が行方不明になったが、住家被害は出なかった。
避難意識 園児に伝承

普代村中心部は東日本大震災の津波を免れたが、普代水門を越える津波を目の当たりにした住民は「いつ津波が来てもおかしくない」と思い知らされた。
昭和の三陸大津波の供養塔がある妙相寺に隣接する同村普代の村立はまゆり子ども園(鎌田和也園長、園児59人)は、2011年4月の開園から毎月避難訓練を行っている。内容は火災や不審者対応などさまざまだが、中でも津波の避難訓練は年5回と重点的に取り組み、避難経路などを確認している。
震災は前身の普代児童館の昼寝時間に襲ってきた。かつてない揺れを受け、職員らはすぐに子どもたちを連れて高台へ避難。災害用の持ち出し袋を持っていったが、おむつなどの衛生用品や防寒用具の数が少ないなど反省点もあった。
経験を基に毛布やおむつをストックするなどの対策を進め、歩けない乳幼児をおんぶする担当者を決めたり、避難先をバスが駐車しやすい大きな道路が近い場所にしたりと、毎回改善を重ねている。
熱心な訓練は子どもたちに根付いている。避難時はどの子も真剣な表情で取り組み、職員の指示通りしっかりと列をつくって坂道を上る。保護者からは、家で地震が起きた時、大人に言われなくても机の下に隠れていたという報告もあった。
鎌田園長(64)は「子どもたちはここで、自分の身は自分で守ることを学んでいってほしい。訓練は積み重ねが大切。震災から10年だからといって何も変わらず、これから来る園児にも避難の大切さを伝えていく」と誓う。
昭和の三陸大津波の供養塔がある妙相寺に隣接する同村普代の村立はまゆり子ども園(鎌田和也園長、園児59人)は、2011年4月の開園から毎月避難訓練を行っている。内容は火災や不審者対応などさまざまだが、中でも津波の避難訓練は年5回と重点的に取り組み、避難経路などを確認している。
震災は前身の普代児童館の昼寝時間に襲ってきた。かつてない揺れを受け、職員らはすぐに子どもたちを連れて高台へ避難。災害用の持ち出し袋を持っていったが、おむつなどの衛生用品や防寒用具の数が少ないなど反省点もあった。
経験を基に毛布やおむつをストックするなどの対策を進め、歩けない乳幼児をおんぶする担当者を決めたり、避難先をバスが駐車しやすい大きな道路が近い場所にしたりと、毎回改善を重ねている。
熱心な訓練は子どもたちに根付いている。避難時はどの子も真剣な表情で取り組み、職員の指示通りしっかりと列をつくって坂道を上る。保護者からは、家で地震が起きた時、大人に言われなくても机の下に隠れていたという報告もあった。
鎌田園長(64)は「子どもたちはここで、自分の身は自分で守ることを学んでいってほしい。訓練は積み重ねが大切。震災から10年だからといって何も変わらず、これから来る園児にも避難の大切さを伝えていく」と誓う。


2021年04月30日 公開
[2021年02月08日 岩手日報掲載]