海とともに歴史を刻む同村は、何度も津波の被害に遭ってきた。「見渡す限り屋材が散乱し樹木が流れ、あるはずもない石塊が転がり、一夜にして泥と塵芥(じんかい)の原となった」。野田民俗誌(村教委発行)には、1896(明治29)年の大津波の悲惨な状況が記されている。
野田村誌によると、明治の大津波では村の人口2590人中261人が犠牲に。家屋も411戸中138戸が流失した。1933(昭和8)年の大津波でも、人口4264人中6人が亡くなった。
いずれも船や作業場、地引き網や漁具などの被害が大きく、漁業者にとっては致命的だった。
2011年、幾度も津波から立ち上がってきた同村を巨大な波がのみ込んだ。

痛みを無駄にしない
「だだっ広い太平洋の水平線が一気に盛り上がった。忘れられない光景だ」。消防団員だった同村野田の建設業道上文明さん(61)は、巨大な揺れを感じて大急ぎで警戒活動に向かった。十府ケ浦海岸で遠巻きに海の様子を警戒していると、向こうから巨大な津波が来るのが見えた。
急いで高台に逃げたが、津波はあっという間に集落を襲い、海近くの家々は跡形もなく消え去った。山肌はえぐられ、米田川に架かる米田歩道橋も破壊された。
同村では東日本大震災で37人が亡くなった。米田地区で記録された村内の津波遡上(そじょう)最高到達点は37・8メートル。巨大な水の壁が、尊い命を奪っていった。
道上さんは震災後、海が怖くなった。「港や海岸に行っても、水にはあまり触れたくない」。津波が残した消えない恐怖心。だが同時に、風化の恐ろしさも年々感じている。
「震災後半年ほどは小さな地震でも皆すぐに避難していた。でも人間の心は慣れていってしまうものだからね」
津波で壊れた歩道橋は後に一部が見つかり、村が震災遺構として2017年から展示している。近くには看板や駐車場、トイレがあり、訪れた人々はじっくりと遺構を眺めて触れることで、津波の恐ろしさを心に刻む。
遺構の展示に携わった村地域整備課の藤森秀規総括主査は「命を守るため、将来にわたって震災の残した爪痕を伝え、引き継いでいきたい」と話す。
風化にあらがい、傷ついた人々の痛みを決して無駄にしないため−。大きなコンクリートの塊は、津波を知らない世代へ教訓を確かに伝えていく。
