1933(昭和8)年の三陸大津波では現在の同市の範囲で死者、行方不明者が計405人。同町の死者は2人、流失家屋は2戸だった。60年には市全体で53人の死者、行方不明者を出したチリ地震津波が発生した。
東日本大震災の同町の主な被害は死者137人、行方不明者19人、全壊住家1112世帯。市内で最も大きな被害となった。現在は商店街があった場所周辺は住家の建築が制限され、店舗だけが並んでいる。

まち変化も風化防ぐ
茶茶丸パークは大船渡商店街の一角にあった公民館の一部だった。あずまやや水飲み場が整備され、時計塔の周りには木々が生い茂り、バスを待つ人が座って休むなど、住民の憩いの場になっていた。当時から近所のガソリンスタンドで働く小野出孝民(こうみん)さん(60)は「町の美化活動として職場のみんなでよく掃除していた。公民館もお茶や生け花などの行事でにぎわっていた」と振り返る。
穏やかな生活を送っていた大船渡の中心市街地を東日本大震災の津波は一気にのみ込んだ。約10メートルの波は家々をがれきに変え、建物の屋根の上に船が乗った。時計塔も水没したが流失せず、辛うじてつながった盤面を示した針が、まちが変わってしまった時刻として人々の記憶に刻み込まれた。
その後、時計塔は土地区画整理事業区域内に盛り土をするため、2015年に同市大船渡町の高台にある加茂公園に仮置きされた。復興工事が進み、大船渡駅周辺には、かつての商店街を構成していた商店などが本設を果たしたおおふなと夢商店街やキャッセン大船渡、市防災観光交流センターが整備。一歩ずつにぎわいが戻ってきている。
時計塔は19年4月に完成した夢海公園に移された。公園には遊具があふれ、遊びにきた子どもたちの歓声が響くのを静かに見守っている。大船渡市防災管理室の鈴木文武係長は「まちの様子は変わっていくが、時計塔は津波の恐ろしさを風化させず伝え続けてくれるだろう」と見据える。
