旧種市町歴史民俗資料館の資料などによると、明治三陸地震で宿戸地区周辺には最大20・3メートルの津波が襲った。同地区は71戸中7戸が流失、38人が亡くなり、船舶も62隻中54隻が流失、3隻が破壊されるなど大半を失った。漁業で生計を立てていた地域は大打撃を受けた。
同地区は1933(昭和8)年の三陸大津波でも大きな被害を受けた。周辺を約6メートルの津波が襲い、19人が死亡、4人が行方不明となった。家屋も8戸が流失、1戸が全壊した。船舶は旧種市村全体で計269隻が流失、全壊するなど、再びなりわいに多大な影響を与えた。
同地区は1933(昭和8)年の三陸大津波でも大きな被害を受けた。周辺を約6メートルの津波が襲い、19人が死亡、4人が行方不明となった。家屋も8戸が流失、1戸が全壊した。船舶は旧種市村全体で計269隻が流失、全壊するなど、再びなりわいに多大な影響を与えた。
津波への意識根付く

洋野町歴史民俗資料館の資料などによると、共同墓地にある石碑を建立した岡本松太郎は1864年生まれ。藩制時代末期から昭和初期までを生きた人物だ。旧種市村の村議会議員や宿戸浜漁協の理事などを務めた記録が残っている。
4代後の子孫で同町種市の町議岡本正善さん(52)は「どういった経緯で建てたのかは分からないが、地区の代表として大きな被害を後世に残したかったのではないか」と先祖の行動に思いを巡らす。
共同墓地の記録によると、墓地は84年に開かれた。石碑が当初どこに建立されたのかは不明だが、地域の人の話では墓地の区画整理を行った1960年以降は同地にあるようだ。石碑のおかげか、同地区では「地震が来たら津波が来る」という認識が根付いている。
2011年3月11日、くしくも松太郎の命日に東日本大震災が襲った。正善さんは自宅でただならぬ揺れを感じ、近所の宿戸小、宿戸中へ走り、地元の子らの安否を確認。消防団として地域の安全を確かめ、浜に人が下りないよう、交代でたき火をたいて一晩を明かした。
宿戸地区は宿戸漁港の荷さばき場などが被災し、特産のウニなど漁業にも大きな打撃を受けたが、幸い同町で犠牲者は出なかった。
町は震災前から毎年避難訓練を行っていたが、震災後は地区内でも参加する人が増えた。
ハード整備だけでなく、ソフト面の大切さを改めて痛感した正善さんは「震災後、石碑は災害を伝える物として見直されている。先祖が建てたこの石碑も未来の人たちに教訓を与える役に立ってほしい」と願う。
4代後の子孫で同町種市の町議岡本正善さん(52)は「どういった経緯で建てたのかは分からないが、地区の代表として大きな被害を後世に残したかったのではないか」と先祖の行動に思いを巡らす。
共同墓地の記録によると、墓地は84年に開かれた。石碑が当初どこに建立されたのかは不明だが、地域の人の話では墓地の区画整理を行った1960年以降は同地にあるようだ。石碑のおかげか、同地区では「地震が来たら津波が来る」という認識が根付いている。
2011年3月11日、くしくも松太郎の命日に東日本大震災が襲った。正善さんは自宅でただならぬ揺れを感じ、近所の宿戸小、宿戸中へ走り、地元の子らの安否を確認。消防団として地域の安全を確かめ、浜に人が下りないよう、交代でたき火をたいて一晩を明かした。
宿戸地区は宿戸漁港の荷さばき場などが被災し、特産のウニなど漁業にも大きな打撃を受けたが、幸い同町で犠牲者は出なかった。
町は震災前から毎年避難訓練を行っていたが、震災後は地区内でも参加する人が増えた。
ハード整備だけでなく、ソフト面の大切さを改めて痛感した正善さんは「震災後、石碑は災害を伝える物として見直されている。先祖が建てたこの石碑も未来の人たちに教訓を与える役に立ってほしい」と願う。


2020年10月01日 公開
[2019年12月19日 岩手日報掲載]