石碑は全て花こう岩で、建立に関わった個人の名前を記している。華蔵寺の過去帳によると、1896(明治29)年の明治の大津波で272人が犠牲となり、津波から2年後の98年に最初の溺死者の供養碑が建立された。
翌年の99年には気仙郡内で赤痢が大流行した。目時さんの調査では、盛(現大船渡)警察署管区内で738人が罹患(りかん)し、無数の死者を出したという。
伝染病の知識や情報も少ない時代。畑山住職(52)は「津波の後、追い打ちをかけるように赤痢がはやり、寺として何をすべきか考えた当時の住職の思いを感じる」と実感を込め、「自然と闘うのではなく危険を感じたら逃げる。亡くなった方々と話せるのなら何を伝えたいか、冷静に思いを巡らせる時間も大切だ」と説く。
翌年の99年には気仙郡内で赤痢が大流行した。目時さんの調査では、盛(現大船渡)警察署管区内で738人が罹患(りかん)し、無数の死者を出したという。
伝染病の知識や情報も少ない時代。畑山住職(52)は「津波の後、追い打ちをかけるように赤痢がはやり、寺として何をすべきか考えた当時の住職の思いを感じる」と実感を込め、「自然と闘うのではなく危険を感じたら逃げる。亡くなった方々と話せるのなら何を伝えたいか、冷静に思いを巡らせる時間も大切だ」と説く。
教訓込め残す写真集

「生きる者の務めとして記録にとどめようと思った」
華蔵寺近くに暮らしている陸前高田市小友町の宮城秀次さん(87)は、東日本大震災直後から小友地区の現状を撮影し、写真集「大津波の爪痕」にまとめた。記録を残して津波の恐怖、避難の重要性を伝える「現代の石碑」だ。
3月11日午後2時46分の地震発生後、自宅から見える高さ約8メートルの赤磯岩にカメラを向けた。津波が襲来するとすっぽりと海中に隠れ、津波の巨大さが見て取れる。波が引いた後、えぐるように削られた地面も猛威を物語る。
宮城さんの自宅は浸水を免れたが、震災前に修理に頼んでいた自家用車は流された。「どこから撮影すれば分かりやすいか、人が写っていないかなど配慮をしながら撮った」。華蔵寺に避難した住民の様子やライフラインの状況を記した後、翌日以降、破壊された水門やがれきが押し寄せた様子など、変わり果てた古里を歩き回った。
写真集では復興の様子も載せている。2011年5月に小友小の校庭で行われた小友中の運動会は、自衛隊が撤去したがれきが周囲を囲むグラウンドの様子が分かる。救援物資の分別作業、14年の被災水田での田植えなど、B5判50ページの作品から復旧・復興の歩みが伝わってくる。
「津波は三陸の宿命。父や祖父から地震の30、40分後には津波が来るから高台に逃げろと言われてきた。まさに津波てんでんこだ」
同市や大船渡市など沿岸部を中心に38年間中学校教員として、生徒たちに津波の恐ろしさを伝えてきた。石碑も写真も思いは変わらない。後世に震災の記憶をつなげていく。
華蔵寺近くに暮らしている陸前高田市小友町の宮城秀次さん(87)は、東日本大震災直後から小友地区の現状を撮影し、写真集「大津波の爪痕」にまとめた。記録を残して津波の恐怖、避難の重要性を伝える「現代の石碑」だ。
3月11日午後2時46分の地震発生後、自宅から見える高さ約8メートルの赤磯岩にカメラを向けた。津波が襲来するとすっぽりと海中に隠れ、津波の巨大さが見て取れる。波が引いた後、えぐるように削られた地面も猛威を物語る。
宮城さんの自宅は浸水を免れたが、震災前に修理に頼んでいた自家用車は流された。「どこから撮影すれば分かりやすいか、人が写っていないかなど配慮をしながら撮った」。華蔵寺に避難した住民の様子やライフラインの状況を記した後、翌日以降、破壊された水門やがれきが押し寄せた様子など、変わり果てた古里を歩き回った。
写真集では復興の様子も載せている。2011年5月に小友小の校庭で行われた小友中の運動会は、自衛隊が撤去したがれきが周囲を囲むグラウンドの様子が分かる。救援物資の分別作業、14年の被災水田での田植えなど、B5判50ページの作品から復旧・復興の歩みが伝わってくる。
「津波は三陸の宿命。父や祖父から地震の30、40分後には津波が来るから高台に逃げろと言われてきた。まさに津波てんでんこだ」
同市や大船渡市など沿岸部を中心に38年間中学校教員として、生徒たちに津波の恐ろしさを伝えてきた。石碑も写真も思いは変わらない。後世に震災の記憶をつなげていく。


2019年04月19日 公開
[2018年10月19日 岩手日報掲載]