種市歴史民俗資料館の資料などによると、同地区では明治の大津波で36戸中30戸が流失・全壊し、地区の約半数にあたる126人が犠牲になった。昭和の大津波では98戸中37戸が流され、79人が亡くなった。
石碑は明治の大津波の二十三回忌、そして昭和の大津波の犠牲者供養を兼ねて地元有志によって建てられ、当時の被害の様子を克明に記している。
明治の大津波は畑地まで家屋や船舶の破片が到達し、未明の発生だった昭和の大津波では地震の後、再び床に就き被害に遭った人が多数いたことを記録。地震があったら必ず高所に逃げろ、と後世への伝言が刻まれている。
以前、石碑の近所に住んでいた同町種市の粒来(つぶらい)アイ子さん(71)は「津波の恐ろしさは親から言われ続けてきた。地震が来れば、必ず家族と高い所に逃げていた」と地域に根付く教えを守る。
石碑は明治の大津波の二十三回忌、そして昭和の大津波の犠牲者供養を兼ねて地元有志によって建てられ、当時の被害の様子を克明に記している。
明治の大津波は畑地まで家屋や船舶の破片が到達し、未明の発生だった昭和の大津波では地震の後、再び床に就き被害に遭った人が多数いたことを記録。地震があったら必ず高所に逃げろ、と後世への伝言が刻まれている。
以前、石碑の近所に住んでいた同町種市の粒来(つぶらい)アイ子さん(71)は「津波の恐ろしさは親から言われ続けてきた。地震が来れば、必ず家族と高い所に逃げていた」と地域に根付く教えを守る。
心構えつなぐ慰霊祭

「想(おも)へ惨禍の三月三日」。八木地区には昭和の大津波の犠牲者を悼む石碑もあり、建立された1934(昭和9)年から毎年欠かさず3月に慰霊祭が執り行われてきた。地区住民は幼い頃から参列し、「地震が起きたら高所に逃げる」という心構えを養ってきた。
東日本大震災当時、同地区に防潮堤はなく、高さ約11メートルの津波が八木港や海から約500メートル離れた国道45号手前まで押し寄せた。しかし、地区住民は二つの石碑の教えを守って高台へ避難し、犠牲者は1人も出なかった。
八木北地区会長を23年間務める蔵徳平(くらとくへい)さん(82)は総会や敬老会など、事あるごとに「地震があったら高い所に逃げ、絶対に戻らない」ということを住民に訴え続けてきた。
蔵さんも若い時から、昭和の大津波を体験した親や地区の先輩に、むごたらしい被害の様子やいずれ津波が必ず来ることを聞かされてきた。
この地区から津波の犠牲者を二度と出さないという思いを胸に「生きていればなんとかなる。先人の教えを忘れず、必ず行動に移すことが命を守ってくれる」と力を込める。
震災後、同地区には海抜高12メートル、全長約400メートルの防潮堤が建設された。石碑は工事に伴って移設されたが「いつでも住民が津波のことを忘れないように」と、目につきやすい道路沿いに据えられた。
震災の津波で倉庫や自宅に被害を受けた洋野町種市の下道豊子さん(70)は「防潮堤はできたが、地震があれば必ず逃げる。津波は逃げるが勝ちだ」と変わらぬ行動を誓う。
東日本大震災当時、同地区に防潮堤はなく、高さ約11メートルの津波が八木港や海から約500メートル離れた国道45号手前まで押し寄せた。しかし、地区住民は二つの石碑の教えを守って高台へ避難し、犠牲者は1人も出なかった。
八木北地区会長を23年間務める蔵徳平(くらとくへい)さん(82)は総会や敬老会など、事あるごとに「地震があったら高い所に逃げ、絶対に戻らない」ということを住民に訴え続けてきた。
蔵さんも若い時から、昭和の大津波を体験した親や地区の先輩に、むごたらしい被害の様子やいずれ津波が必ず来ることを聞かされてきた。
この地区から津波の犠牲者を二度と出さないという思いを胸に「生きていればなんとかなる。先人の教えを忘れず、必ず行動に移すことが命を守ってくれる」と力を込める。
震災後、同地区には海抜高12メートル、全長約400メートルの防潮堤が建設された。石碑は工事に伴って移設されたが「いつでも住民が津波のことを忘れないように」と、目につきやすい道路沿いに据えられた。
震災の津波で倉庫や自宅に被害を受けた洋野町種市の下道豊子さん(70)は「防潮堤はできたが、地震があれば必ず逃げる。津波は逃げるが勝ちだ」と変わらぬ行動を誓う。


2019年04月11日 公開
[2018年10月18日 岩手日報掲載]