釜石市鵜住居地区防災センター
町の中心部にあった「釜石市鵜住居地区防災センター」
東日本大震災の津波は、建物の2階天井近くまで達した
町の中心部にあった「釜石市鵜住居地区防災センター」
東日本大震災の津波は、建物の2階天井近くまで達した
この「防災センター」には196人が避難した
うち生存者は34人とされ、160人以上が犠牲となった(2016年3月推計)
岩手日報の「犠牲者の行動記録」にも、この防災センターに避難者が集中している様子が記録されている
*デジタルアーカイブ「犠牲者の行動記録」岩手日報 2016
「防災センター」近くにあった
釜石市立鵜住居幼稚園
地震後、臨時職員の片桐理香子さん(当時31歳)ら職員4人は、園児2人を連れて「防災センター」に避難した
「ここは絶対安全だから」
そう声をかけ、園児2人を抱き寄せた
釜石市鵜住居地区防災センターは、東日本大震災の約1年前、2010年2月に開設
防災センターには、消防出張所・行政窓口・生活応援センター(保健福祉サービス)・公民館・消防団屯所が集約された
「防災センター」は標高が低い場所にあり、避難施設としては中長期の避難生活に備えた「拠点避難所」との位置づけだった
一方、津波が来た場合の1次避難場所は、別の場所が指定されていた
ではなぜこの「防災センター」に多くの人が避難してしまったのか
「防災センター」をめぐり2013年4月、釜石市は遺族の要望を受け第3者による調査委員会を設置した。
(釜石市鵜住居地区防災センターにおける東日本大震災津波被災調査委員会)
約1年をかけ翌年3月にまとめられた調査報告書は、多くの犠牲者を出した要因を複数にわたって指摘した。
調査報告書を釜石市長に提出(2014年3月4日)
提出された調査報告書 [PDF]
その一つが「呼称」について。
この施設の建設時、財源を確保するため国の防災関係資金を借り入れていた。
このため施設は「防災」センターと名付けられ、地域の災害対策拠点として位置付けられた
また、ここでは避難訓練も行われていた。訓練への参加者を増やすため、市や自主防災会が本来の津波避難場所ではない「防災センター」で避難訓練を実施。市もこれを容認していた。
「防災センター」という名称、そして誤った運用での避難訓練
これらを通じ、「住民の多くは、防災センターが津波の「避難場所」であると思い込んでいた」
調査報告書はそう指摘する
翌日から産休に入るはずだった幼稚園の臨時職員 片桐理香子さん
園児2人は住民が肩車をしてなんとか助かった
しかし片桐さんら幼稚園の職員3人は津波の犠牲になった
正しい避難場所が周知されていれば、多くの犠牲は避けられたのではないか
片桐さんの両親ら遺族は「母子の死を無駄にしたくない」と釜石市を提訴した(2014年9月9日)
裁判では「震災前の1次避難場所の周知のあり方」が主な争点となった
1審の盛岡地裁では原告側が全面敗訴
裁判所は「市が避難場所を誤解させたとは言えない」とした(2017年4月21日)
しかし2審の仙台高裁で裁判官が遺族の思いをくんで釜石市の行政責任を指摘する
そして・・・
裁判官のこの言葉が両者を和解に導いた
提訴から3年10か月が過ぎていた(2018年7月3日)
*鵜住居訴訟 裁判所の所見[PDF](2018年7月4日岩手日報掲載)
釜石市は行政責任を認めて謝罪
片桐さんら園職員が園児2人の救命に尽力したことへ感謝し
防災体制の強化を約束した
「防災センター」跡地に整備された「釜石祈りのパーク」
震災で犠牲になった方々の芳名板と献花台
鵜住居を襲った津波の高さ(海抜11メートル)を示すモニュメント
震災後に制定された釜石市防災市民憲章碑が設置されている
*釜石祈りのパーク
*釜石市防災市民憲章*釜石市防災市民憲章
この場所に「防災センター」があったこと、
ここで多くの人が津波の犠牲になったこと、その事実を忘れないよう後世に伝える碑も建立された
また解体された「防災センター」のがれきの一部も残された
大勢の犠牲者の無念と遺族の思い
「未来の命を守る教訓として、生かされると信じたい」
片桐さんの両親はそう願って見守り続けている