気象と防災 マメ知識!

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気象と防災 マメ知識!

気象予報士・防災士の神山 浩樹(IBCアナウンサー)がお届けする5分間。

◆放送日時
毎週土曜日17:50~17:55
番組開始:2009年4月〜

◆出演
神山浩樹(IBCアナウンサー)

お便り・お問い合わせ

479回「震災遺産」2018年7月14日OA

2018年07月14日 6:00 PM

今日は福島県の「震災遺産」についてです。福島県立博物館を事務局としたプロジェクトでは、震災が産み出したものを、次世代に伝え遺すべき歴史的資料、すなわち震災遺産と位置付け、その保全を目的に2014年度からフィールド調査や資料収集に取り組んでいます。「震災の時刻で止まった時計」「安定ヨウ素剤」「配達されなかった新聞包み」など登録された2036件は、原則として福島県立博物館に運ばれ保存処置されました。その内、現地保存された震災遺産が、先月13日に訪れた福島県富岡町に展示されていました。双葉警察署脇、児童公園の一角にあったのは津波で被災した一台のパトロールカーです。ベース車両はトヨタ・クラウン。上部はすっかり無くなり、赤茶けたフレームはへし曲がり剥き出しで、水の力でここまで車が破壊されるのかと身震いします。花や飲み物が捧げられた隣には、展示された経緯がパネルに記されていました。

車両は2003年に双葉警察署に配属後、富岡町や双葉郡内の住民や地域の安全を守る多くの業務に携わり、走行距離は29万2000キロを超えました。2011年3月11日、東北地方太平洋沖地震発生後、双葉警察署から増子洋一警視(当時41歳)と佐藤雄太警部補(当時24歳)がこのパトカーで富岡町仏浜地内に急行し、町民らの避難誘導を行いました。避難した住民の中には、駆け付けたこのパトカーと冷静に避難誘導をしていた2人の姿を鮮明に覚えている人が多くいました。その後パトカーは2人の警察官と共に津波に遭い、多量の土砂が流入した車両は子安橋のたもと付近で見つかりました。増子警視は地震から約1か月後に陸地から30キロ離れた沖合で発見されましたが、佐藤警部補は行方不明のままです。

富岡町ではあの日、震度6強の揺れを観測、21.1mを超える津波が襲い、町内で直接亡くなった人が18人、震災後、体調を崩すなど関連して亡くなった人は425人に上ります。カーポートの下に設置されたこのパトカーは、津波が近づく中、使命感と勇気を胸に多くの住民を守る為に職務を全うした人達がいたこと、そして平穏な町を襲った地震や津波の威力の凄まじさを、静かに語り続けます。

 

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478回「富岡町」2018年7月7日OA

2018年07月07日 6:00 PM

先月13日、東日本大震災で津波・原発事故の被災地となった福島県を地元のガイドが案内する「Fスタディツアー」に参加しました。2011年4月から活動を続けていて、これまで約5000人を案内してきました。緑のビブスを着たガイドは坂本雅彦さん(44)です。いわき市出身で、コンクリート製品の企業に就職しました。しかし震災後、「福島で起きたことを伝えたい」と、2016年、ツアーの本部を置くいわき市の老舗温泉旅館「古滝屋」に転職し、故郷の情報を発信しています。

常磐道を北上し1時間、訪れたのは「富岡町」です。去年4月1日、避難指示が一部、解除されました。5月1日現在の人口は5507世帯、13185人。町内居住者は避難指示解除直後の去年5月1日には86世帯128人、現在は426世帯、614人に増加。全人口の4.6%が戻った計算です。去年春には、スーパーやドラッグストア、ホームセンターや飲食店が入居する公設民営の複合商業施設がオープン。津波で流出し、元の場所から100m北に建て直したJR常磐線・富岡駅は去年秋から一部区間で再開通しました。又、今年4月、7年ぶりに町内で小中学校が再開、富岡校には児童生徒17人が通っています。これらショッピングモール、駅、学校に近いエリアは、真新しい戸建てや集合型の災害公営住宅が建ち並んでいますが、ベランダに洗濯物が干してある世帯は数えるぐらいです。復興工事関係の車両は多く行き交うものの、この地に町民の暮らしがあることは、あまり実感できません。

車で15分ほど北に進むと、桜の名所「夜の森(よのもり)」があります。樹齢100年のソメイヨシノの緑のトンネルは全部で約500本。周辺の住宅地一体がバリケードで覆われていて、その向こうは帰還困難区域です。警備員が立っていて、バリケードより先は放射線量が高く立ち入ることはできません。夜の森地区の全ての桜を楽しめる日がいつになるのか未定です。坂本さんは「ツアー参加者の中には、シダレザクラの枝が下がった姿を見て『放射能のせいでは』と心配するような風評が未だにある。イメージだけで福島を見ないでほしい。足を運んでいただいて、同じ東北、お互いに手を取っていけたら」と岩手のリスナーに来訪を呼びかけていました。

 

475回「明治三陸地震津波の記録2」2018年6月16日OA

2018年06月16日 6:00 PM

前回に続いて明治三陸地震津波についてです。気象庁によりますと、1896(明治29)年6月15日午後7時32分に、マグニチュード8.2の明治三陸地震が発生。三陸沿岸では津波により2万人を超える人が犠牲になりました。

津波に関する当時の文献資料に出会い、復刻に取り組んだのが、釜石市の上飯坂哲(かみいいさかさとし)さんです。上飯坂さんは、吉里吉里小学校校長や鵜住居公民館長を務め、2009(平成21)年に71歳で亡くなりました。先日、2005(平成17)年に自費出版された「津波てんでっこ考」を拝読しました。その頃、宮城県沖を震源とするマグニチュード7以上の地震が30年以内に発生する確率が99%と言われていながら、防災意識が高くないことを危惧し書かれたものです。上飯坂さん自身の丁寧な手書きで記されたB5サイズ113ページの本書では、明治三陸地震津波当時の人々の津波に対する考え方や行動を考察しています。例えば大槌町立吉里吉里小学校の初代校長であった海野安見(かいのやすみ)先生が残した記録によると、その日は雨が降り、霧がうっすらかかっていました。自宅に来客があり応対中、地震が発生。その後、夜の海を何度も見ていると津波の第一波が襲来しました。記述では「戸外ヲ望ムコト三四回目ノトキ、海上激浪ヲ湧カセシナラン、急ニ白色銀彩アルヲ見」とあり、この描写は波頭が白く泡立って崩れ落ちる瞬間と考えられる、とのことです。続いて「海嘯(かいしょう)ノ目前ニ逼リタル時トシテ此ノ一刹那、海岸ニアリシ家屋船舶一斉ニ倒潰セラレ」と書かれていることから、第一波が見えてから1分半弱で吉里吉里の集落が襲われたと計算しました。つまり1分、1秒の避難の判断が生死を分けるのです。

翻って現代は、ラジオ、テレビ、インターネット等、リアルタイムで情報が入手できますが、上飯坂さんは、「『だから安全だ』ということには繋がりません」と警鐘を鳴らします。「ただ『何が起きたのか』を知るだけです。その先『自分は、どうしなければならないか』は情報に入っていません。あったとしても『~に気を付けて下さい』ぐらいなのです」。情報を得た後、どう行動するのか、私達の意識と備えが問われています。

 

474回「明治三陸地震津波の記録1」2018年6月9日OA

2018年06月09日 6:00 PM

今日は明治三陸地震津波についてです。1896(明治29)年6月15日午後7時32分、釜石東方沖を震源とするマグニチュード8.2の地震が発生。「いわて震災津波アーカイブ」によりますと、県内では津波によって1万8158人が亡くなり、流出倒壊家屋が6882戸などの大きな被害となりました。中でも釜石地区は当時の町の人口約6500人の内、4000人以上が犠牲になり、全戸数約1100戸の内、約900戸が流されるという壊滅的な被害でした。又、気象庁によりますと大船渡市では津波の遡上高約38.2mを記録しました。

この明治三陸地震津波は地震の揺れに特徴がありました。現在の震度で2か3、緩やかで長く続く振動だったのです。内閣府の「災害教訓の継承に関する専門調査会報告書」には、当時の宮古測候所の談話の要約が掲載されています。津波の状況は「地震は微弱であったが合計13回程あった。その後、7時50分頃に潮が異常な速さで引き始め、同時に遠くで雷が鳴るような音を聞いた。8時7分に約4.5mの津波が来襲し、人畜家屋が流出してしまった。津波はその後6回にわたり繰り返し、海面の振動は翌日の正午頃まで続いた」とのことです。三陸地方は津波の常襲地帯です。明治三陸地震津波の前、1856(安政3)年には、三陸はるか沖で発生した地震により津波が押し寄せました。明治の津波では、その時の経験を元に行動し、逃げ遅れた人がいました。広報「ぼうさい」2005年7月号には当時の記録として「今から41年前に起こった津波は緩やかに来襲し、家屋の二階にいた者の多くが助かった。明治の津波においては、津波の来襲に驚き慌てて逃げた者は助かり、過去の経験から津波はゆっくりやって来るものだと信じていた者は避難が遅れたために、巻き込まれて亡くなってしまった」と掲載されています。

津波は大きな揺れの後に発生する他、長く小さな揺れの後に発生することもあります。安政の津波は大きな揺れの後、1時間前後でゆっくりと押し寄せました。明治の津波は長く小さな揺れの後、30分前後で突如襲ってきました。形を変えて襲う津波から命を守る為、今を生きる私達は、速やかに避難することを決して忘れてはいけません。

 

 

471回「荒浜小学校」2018年5月12日OA

2018年05月12日 6:00 PM

今日は、去年春から震災遺構として公開されている「仙台市立荒浜小学校」についてです。東日本大震災では2階の床上40センチまで津波が押し寄せ、児童、教職員、住民ら320人が避難し取り残されました。当時91人が通っていた校舎は、海岸から約700m内陸に位置します。鉄筋コンクリート造4階建て、各階には11の教室が並びます。1階の窓は無くなりネットが張られ、2階ベランダの手すりは、ガレキがぶつかりひしゃげ、茶色く錆びています。仙台市中心部から東に約10キロ、800世帯、2200人が暮らしていた荒浜地区。黒い津波は家屋を呑み込み200人近い住民が犠牲になりました。施設の女性スタッフは「流されてきた木造家屋のぶつかる音が響き渡り、避難した人達は『校舎も破壊されるのでは』と怖かったそうです」と7年前を振り返ります。その彼女は、あの日、85歳の母親と共に逃げ無事でしたが、海から約200mの所にあった自宅を失いました。

校舎に入るとネットの間を出入りするスズメの鳴き声が響きます。黒板が歪んだ1年1組の教室。破壊され鉄筋が剥き出しになった廊下の天井。脇には、ガレキと共に車が突っ込んだ大きなパネル。震災翌日、校長が撮影した写真を実物大に引き伸ばしたもので、自然の脅威を静かに語っています。4階の展示室では、午後2時46分の地震発生から27時間後の避難者全員の救出までを、約17分にまとめた映像を拝見しました。特に当時の校長のインタビューで「避難方法を見直す。良かれと思うことをできるだけやる。その積み重ねが何かの時に少しでも災害を少なくする」という言葉が心に響きました。実は言行一致の出来事がありました。2010年2月27日、チリ地震により大津波警報が出された際の学校の対応です。校舎西側・体育館内の毛布など備蓄品を「ここに置いていては津波が来た時、使えないのでは」と判断し、職員と共に校舎3階に移したのでした。その1年後の震災で体育館は全壊、しかし移動した備蓄品が避難者の命を守ることに繋がったのです。

「地震は来ても津波は来ない」との伝承を信じ、逃げずに犠牲になった人もいる荒浜地区。荒涼とした野原の真ん中に立つ荒浜小学校は、大津波の記憶と教訓を後世に伝え続けます。

470回「消防署職員の手記」2018年5月5日OA

2018年05月05日 6:00 PM

東日本大震災では、宮城県仙台市でも甚大な被害となりました。市の資料によりますと、宮城野区で震度6強、青葉区・若林区・泉区で震度6弱を観測、仙台港では推定で7.1mの津波が押し寄せました。904人の方が亡くなり、27人が行方不明、負傷者は2275人。30034棟の家屋が全壊、27016棟が大規模半壊となりました。

先日、津波被災現場の最前線に立っていた消防署職員の記録を拝見しました。地下鉄東西線・荒井駅舎内「せんだい3.11メモリアル交流館」で開かれた企画展「結(ゆい)~消防・命のプロが見た東日本大震災」です。展示の中心は仙台市沿岸の大部分を管轄する若林消防署職員の手記です。2011年5月から7月に記された手紙が7年の時を経て紹介されることになりました。救助活動のモノクロ写真が添えられた60枚の文章のパネルには、想像を絶する事態に立ち向かった人達の心情が綴られていました。「心の底から湧きあがる『恐怖』とメラメラ湧き上がる『奮起』が交差した」「消防とは、なんて非情な組織なのか。力尽きるまで戦えというのか」「今やるべきことは何か?真に必要なことは何か?」災害現場で活動するプロも生身の人間だと再認識し、現場の真実、心の真実に胸が張り裂ける思いです。

エピローグに掲載されていたのは祖父や友人を失い、実家が全壊した職員の手記でした。「全員助けたかった。流された人、閉じこめられた人、取り残された人、建物の上に残された人、車に乗ったままの人、全員、助けたかった。全員、生きて家族の元へ帰してあげたかった。私には足りなかった。知識、技術、体力、行動力、判断力、勇気、様々なものが不足していた。しかし前を向いていくことに決めた。両親や弟夫婦もアパートを借りて生活を始め冗談を言えるようになった。イチゴ農家の友達は必ずやり直すと言ってビニールハウスを作り直し始めた。私ももう一度やり直そうと思っている。救助隊員として揺るぎない気持ちをもてるように」。消防救助の基本である結び=結索(けっさく)から着想を得た企画展タイトル「結(ゆい)」。この展示は命と命の「結(ゆい)」を見つめる時間となりました。

 

469回「大船渡津波伝承館」2018年4月28日OA

2018年04月28日 6:00 PM

今日は大船渡市赤崎町にある「大船渡津波伝承館」についてです。館長の斎藤賢治さん自らが撮影した震災時の津波の映像を視聴し、命の大切さ、そして、防災について学ぶ施設です。東日本大震災から2年目の2013年3月11日、被災しなかった内陸のさいとう製菓の工場の会議室を借りて開館しました。

スクリーンには、本社事務所2階で激しい揺れの中、撮影された映像から始まります。物が散乱する中、齋藤さんはカメラを回しながら従業員に「逃げろ、津波が来る」と呼びかけます。瓦屋根の家々やビルを見下ろす高台へ。15時22分、大船渡湾から防潮堤を越えて津波が市街地に流れ込んできます。15時23分、社屋前を自販機が流れ、水かさが増し勢いが強くなります。白い飛沫と灰色の煙を上げながら、ミシミシと音を立て移動する家屋。地域の建物が塊になって崩れて黒い海に呑み込まれ、圧倒的な自然の猛威の前で、人は無力だと感じます。15時24分、「何が防波堤だよ、何が防潮堤だよ」「収まってくれ」とビデオを回しながら叫ぶ齋藤さんの声が。そこには全てを奪った大津波の一部始終が記録されていました。

齋藤さんは改めて映像を止めながら分析します。市街地が30センチ程の水かさの際、海に向かって走る、2台の車が映っていました。津波が来ているのに逃げない異常行動の背景は5つ、考えられると言います。「1.津波の知識が無い、2.車中からは津波が迫っていることが分からない、3.土地勘の無い人は方向が分からない、4.避難行動を考えない人は、いつも通りの行動をする、5.海の方向に家がある、家族がいる」です。齋藤さんは「津波の際は車を捨てて高台に逃げるなど命を守る適切な行動を」と訴えます。又、市街地の浸水が始まっているのに避難せず、普通に歩いている黄色いジャンパーを来た女性がいました。防災無線を耳にして、津波来襲はわかっていたはずです。齋藤さんは「正常性バイアス」という心理学用語を用い説明します。自分にとって都合の悪い情報を無視したり、過小評価したりする人の特性のことです。逃げ遅れを防ぎ、落ち着いて行動する為には、地域の避難訓練に参加する等、日頃から防災に対して意識することが必要なのです。津波伝承館は今後、市内の別の場所に本格的な施設を作り津波の恐ろしさを伝えていくことにしています。

 

468回「語り部が案内する陸前高田」2018年4月21日OA

2018年04月21日 6:00 PM

先月末、陸前高田観光ガイド部会の語り部・河野正義(こうのまさよし)さんに市内を案内していただきました。最大12.2mまで盛り土する大規模工事中の新市街地。建て直された「東日本大震災追悼施設」は白木が香る木造の平屋建てで、中には慰霊碑と献花台が設けられています。大津波により犠牲になった1757人に静かに手を合わせます。河野さんは、震災の教訓を2つ挙げます。1つ目は「防潮堤を過信しない」。「昭和35年のチリ地震津波も大丈夫だったから、今回も大丈夫」と逃げない人達がいた為です。2つ目は「避難所に逃げた後も、安心せずより高台へ」。陸前高田市がまとめた東日本大震災検証報告書によりますと、「津波避難場所として指定していた一次避難所67か所のうち38か所が被災するとともに、9か所で推計303人から411人の尊い命が失われた」としています。市は県の津波予測を絶対視し「それ以上の津波の襲来はない」として避難所の見直しを行わなかったのです。

追悼施設近く、BRTの駅舎は、薄い緑色の屋根に白とベージュの外観で、かつての駅舎をモチーフにしています。震災前の賑やかな駅前通りの写真を掲げながら河野さんは「住民の念願が叶ってやっと通った鉄路の復旧ではなく、バスでの再開になってしまった」と悔しさをにじませます。観光物産施設「一本松茶屋」の傍にある被災したガソリンスタンド。残った2本の支柱を見上げると赤い屋外看板「オカモトセルフ」の文字の脇に「津波水位15.1m」と記されています。自分達がいる所も含め町を呑み込んだ大津波の高さに慄然とします。大型トラックが行き交う市街地から仮設の気仙大橋を渡り、奇跡の一本松が見える場所で車を降りました。田畑を守る防砂林として植えられた約7万本の内、1本だけが残った理由として「海側に立つ黄色いユースホステルの建物により津波の力が分散され、又通常の松より下枝が無かったことが考えられる」と説明していました。

形を変えて繰り返し私達を襲う自然災害。河野さんの命を守る為のメッセージ「人の造ったものに頼ってはいけない」「心の防潮堤を高くして」を胸に刻みました。

 

463回「震災7年の宮古」2018年3月17日OA

2018年03月17日 6:00 PM

東日本大震災から7年。3月11日は宮古市からラジオの特別番組を放送しました。事前取材で、私は新しい住宅地の一角にある集会施設を訪れました。宮古市の中心部から南に約5キロ、宮古湾の奥に位置する金浜地区では、斜面を利用して宅地造成が進んでいます。再建された住宅が20軒以上建ち並び、道路工事が進行中です。3年前に建てられた金浜農漁村センターは、クリーム色の外観の平屋建てで、月に1度のお茶っこの会が行われていました。長机を組み合わせて並べ、10人の高齢の女性達が赤や黄色、青のフェルトを鋏で切って糊付けし、バラのコサージュ作りです。70代の女性は、堤防のすぐ近くの自宅を失い、高台に再建して5年になります。会のことを知り初めて参加したということで「家に居ると、震災のこと、避難所での生活のこと、余計なことを考えてしまう。皆さんの顔を見に、話をしに、また来たい」と交流を楽しんでいました。毎回のように参加しているという80代の女性は、「引っ越してきた平成27年の12月頃は私で2軒目。辺りも暗くて寂しかった。翌年ぐらいから家が建ち始めた。不便なのはバスが通らないこと。国道45号まで出なければならない」と、新しい地域の課題を口にしました。取材を通して、お茶っこの会のような人とのつながりがあれば、辛い気持ちや不安、悲しみは消えなくても、共に歩み続けるきっかけになると感じました。新しいコミュニティで住民が孤立しないような取り組みが引き続き必要です。

宮古市社会福祉協議会では、仮設住宅や災害公営住宅を1軒1軒周り、相談業務を行ったり、集会所でのサロン活動を支援したりしています。サロン活動は参加メンバーの固定化が見られ、今まで参加していない方、参加できなかった方を呼び込む方法に頭を悩ませています。

岩手大学地域防災研究センターの齋藤徳美客員教授は「まちのハード整備は目に見えてきた中で、人のつながりが進んでいないのが一番の課題。人が生きる為には人との交流は不可欠。古い仲間も、そうなる前は他人。集まりに出てこない方にも声をかけ、皆さんで知恵を絞って対応してほしい」と、心の復興で大切な、人との交流の大切さを訴えていました。

 

462回「明日につなぐ気仙のたからもの」2018年3月10日OA

2018年03月10日 6:00 PM

今日は岩手県立博物館で開催されている企画展「明日(あした)につなぐ気仙のたからもの」についてです。東日本大震災で被災した陸前高田に伝わる貴重な文化財を中心に、2011年4月2日から連綿と続けられてきた再生作業と、資料が携えてきた未来へのメッセージを紹介するものです。会場には古文書や漁具、着物や絵画など93点が展示されています。あの日、海水と泥に塗れたとは思えない程どれもキレイで、再生への努力に頭が下がります。

発災直後、県内で公的機関によって最初に救出された資料は、岩手県指定文化財の吉田家文書「定留(じょうどめ)」です。役人であった吉田家の執務記録で、江戸時代から明治初期の気仙地方の生活を知ることができます。厚さ10センチ程の和綴じ本には、1850(嘉永3)年「雷かと思ったら空から石が落ちてきたようだ」と隕石について墨で記述されています。その隣には掌程の実物の黒い気仙隕石の破片が展示され、当時の驚愕が伝わってきます。救出された資料は腐敗が進みカビが発生していた為、「除菌」、泥を除く「除泥」、塩を抜く「脱塩」という、国際的にも未確立な方法を早急に構築する必要がありました。処理方法の工程写真では、水道水に浸し土砂を取り除き、中性洗剤による洗浄、水道水を交換しながら4~5日かけて脱塩、水分除去、自然乾燥、点検、凍結乾燥、燻蒸、修理など20の工程が紹介されています。

再生された絵画の内、1997年、吉田啓一さんが描いた油絵「冬の松原」の前で足が止まりました。油絵は海藻を主成分とするシート状のゼリーをカンバス表面に密着させ、残留する汚れと塩分を吸着除去したとのことです。白く雪に覆われた緑の松林、その間から見える薄く青い海。失われた風景が、津波を被り、震災7年後に盛岡で公開されている事実に胸が熱くなりました。赤沼英男・首席専門学芸員は「大津波で被災した資料は約70万点。その内、約50万点を救出し、その半分を再生しました。試行錯誤を繰り返し、7年の歳月をかけて再生した資料から、過去の人がどんな思いで残したか、又、今回どんな方法で再生したかを御覧いただきたい。そして残りの約25万点の再生にご理解をいただきながらやり遂げたい」と故郷の記憶を後世に伝える決意を新たにしていました。この企画展は、岩手県立博物館で今月28日まで開かれています。

 

 

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