気象と防災 マメ知識!

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気象と防災 マメ知識!

気象予報士・防災士の神山 浩樹(IBCアナウンサー)がお届けする5分間。

◆放送日時
毎週土曜日17:50~17:55
番組開始:2009年4月〜

◆出演
神山浩樹(IBCアナウンサー)

お便り・お問い合わせ

548回「山田町の状況(台風19号)」2019年11月16日OA

2019年11月16日 6:00 PM

先月の台風19号で山田町の総雨量は347.5ミリに達し、今月2日現在、建物は全壊14棟、半壊63棟など、191棟が被災しました。私は先月17日、災害ボランティアで山田町船越半島の南、田の浜地区に参りました。船越湾に面し、背後には高さ100m~300mの山々が迫り、その斜面に276世帯672人が暮らしています。ボランティアは男性が家の前の側溝の泥出し、女性は漁具や靴、写真の泥を洗い流しました。震災後に建てたというそのお宅は全壊扱い、1階居間の掃き出し窓は無くなり、ブルーシートで覆われていました。家人の20代男性によると、台風の夜は母親と2人、1階にいました。13日未明、テレビを見ていると停電、寝ている母親を起こして2階に上がりました。暫くして土砂を含んだ水が家の中に入り、1階の天井まで浸水し「あと少しで危なかった」と振り返っていました。台風後は2階で暮らし、風呂は近くの親戚から借りています。車が被災し仕事は休んでいて、室内の片付けに追われ途方に暮れていました。

台風19号が過ぎ去った先月13日の朝、田の浜地区は辺り一面茶色く濁った水に覆われ、住宅の1階部分はほとんどが水没しました。被害を拡大させた一因とされているのが津波からまちを守るために整備された堤防です。東日本大震災後、山田町は震災と同じ程度の大津波を防ぐことができる堤防を整備、去年完成し、普段、公園としても利用されていました。しかし台風19号による豪雨の際、堤防地下を通る4本の排水管の内、2本に土砂や流木が詰まりました。住民は「山から流れ込んだ雨水が行き場を失った結果、浸水被害が拡大したのでは」と主張しています。

町は堤防の排水能力について過去のデータから1時間に55.7ミリを想定し整備しましたが、台風19号での1時間降水量は77.5ミリと過去最大を記録しました。田の浜地区で起きた被害について山田町の佐藤信逸町長はIBCの取材に「原因について検証委員会を立ち上げ説明する責任がある」と認識を述べました。町は住宅が被害を受けた世帯に対し独自に最大100万円の支援金を支給することを決めました。しかし田の浜地区には、未だ片付けに追われ、住宅再建の目途が立っていない世帯が多くあります。津波防災のインフラが被害拡大の原因になった可能性があり「やるせない」では片付けられない現実が突き付けられています。

 

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547回「宮古市の被災状況(台風19号)」2019年11月9日OA

2019年11月09日 6:00 PM

先月の台風19号で被災した宮古市についてです。今月1日現在の宮古市の資料によると、台風19号で1時間降水量が84.5ミリ、24時間降水量が393.5ミリとそれぞれ過去最大を記録、総雨量は417ミリに達しました。宮古市築地では大雨による土砂崩れで59歳の男性が亡くなり、又、建物は全壊63棟、大規模半壊54棟など、1894棟が被災しました。重茂の6地区73世帯226人は市の道路の一部が約40mにわたって崩落し孤立しました。しかし山肌を削って迂回路が整備され、先月31日、一般の車両が行き来できるようになりました。孤立状態は解消されましたが、地域の人達の多くが利用する漁港へ続く道はまだ流失したままで、元の生活に戻るまで暫く時間がかかりそうです。

私は先月24日、災害ボランティアで宮古市高浜地区を訪れました。中心市街地から南に約4キロ、国道45号沿いの宮古湾に面しています。西側に高さ150m程の山が連なり、低地に約770人が暮らしています。午前中は1人暮らしの高齢女性のお宅での作業でした。家屋は浸水しませんでしたが、敷地内に土砂が流れ込みました。ボランティア3人で取り除き、土嚢袋に入れて道路の脇に並べます。家の前の道路は坂になっていて、道の端の用水路の上を、水が小川のように流れていました。用水路の土砂が取り除かれていない為、沢水が溢れていたのです。坂を100m程上ると林に突き当り、舗装されていない道路の北側半分が長さ30m程えぐれて通行止めになっていて驚きました。その傍で畑仕事をしていた女性は、1960年のチリ地震津波の後に引っ越してきたと言い「震災の大津波は大丈夫だったけれども、今回は台風の山津波だった」と畑向かいの崩れた法面を見ながら不安そうに語っていました。

午後は高浜地区の別なお宅で駐車場の泥出しでした。乗用車が縦に2台、停められるスペースに黒い粘着質の泥が10センチ程堆積していました。車は避難していて難を逃れたそうですが、敷地内に駐車できず、又、台風後、その男性は体調を崩しボランティアを依頼したとのことでした。2時間作業しましたが、泥を3分の2取り除くのが精一杯でした。高齢世帯が多く、マンパワーの必要性を痛感しました。

546回「台風19号と温暖化」2019年11月2日OA

2019年11月02日 6:00 PM

先月、東日本の広い範囲に記録的大雨をもたらし、県内にも甚大な被害を及ぼした台風19号についてです。10月12日午後7時前、大型で強い勢力の台風19号は伊豆半島に上陸。その後も勢力を維持したまま関東地方を北東へ進み、13日未明から明け方に岩手県に最も接近して海上に抜けました。県内では11日から前線の影響で雨が降り出し、12日には台風の接近により沿岸で夜遅くから非常に激しい雨となり、13日未明には沿岸北部で局地的に猛烈な雨となって、盛岡地方気象台は記録的短時間大雨情報を発表しました。又、沿岸を中心にこれまでに経験したことのないような大雨となった為、13日午前0時40分、宮古地域、釜石地域、大船渡地域、一関市に、午前1時55分には久慈地域にも大雨特別警報を発表し、最大級の警戒を呼びかけました。県内で特別警報が発表されたのは初めてのことです。

11日午後3時から13日午後3時までの48時間の総雨量は、沿岸の広い範囲で300ミリ以上の記録的な大雨となり、普代467ミリ、岩泉町小本450ミリ、宮古416.5ミリと、10月1か月の平年値の3倍以上の雨量となりました。田野畑村では軽トラックが崩落した道路に転落し、運転していた71歳の男性が死亡、又、釜石市片岸町では土砂崩れが民宿を直撃し管理人の50代の男性が胸の骨などを折る重傷を負いました。県のまとめによりますと県内では2人の方が亡くなり、重軽傷者8人の人的被害となりました。土砂災害や河川の氾濫により、多くの家屋が被災し、道路が寸断されました。

台風19号が勢力を保ちながら東日本を襲った背景には、日本近海の海水温の上昇が要因とみられます。台風は本来、北上により水温が低い海域に入ると勢力が弱まります。しかし日本のすぐ南側の海水温は10月としては平年より1~2度高い27~28度でした。この為、台風19号は12日夕方、伊豆半島に上陸する前まで「大型で非常に強い」勢力を維持していました。東日本の大半の地域を、巨大な雨雲が覆っていたのです。海水温上昇は、地球温暖化の影響が考えられます。気温が上がると空気中に含まれる水蒸気量が増え、加えて海水温が上昇し、積乱雲が発達しやすくなるのです。頻発する豪雨から身を守れるかどうかは、私達1人1人の心がけや行動にかかっています。

 

545回「放射冷却」2019年10月26日OA

2019年10月26日 6:00 PM

遠野のラジオネーム「桃太郎」さんから質問をいただきました。ありがとうございます。『天気の良い朝、放射冷却で冷え込む事がこれからの季節よくありますが、同じ天気の良い朝でも夏は冷え込みを感じません。これはなぜでしょうか』

放射冷却とは、物が熱を出して冷えることを言います。難しい言葉ですが、全ての物が持っている性質です。熱したフライパンも放置していると次第に冷めてきますが、これはフライパンの放射冷却なのです。天気予報で「明日の朝は放射冷却により冷え込むでしょう」とお伝えした場合、主に地面の放射冷却を指しています。地面が冷えると地面の近くの空気が冷やされ気温が下がるという意味です。特に風が弱く星がキレイな晴れた夜は、冷えた空気が周りの空気と混ざりにくいことに加え、地面の熱は雲によって遮られることがなく空へ出て行くので冷え込みます。

さて同じ放射冷却でも季節によって冷え込みの感じ方が違う理由は「気温」に加えて「日射量」の違いではないかと思われます。盛岡で放射冷却が起きた8月3日と10月1日について調べてみました。天気図を見てみると8月3日は太平洋高気圧に覆われ、10月1日は移動性高気圧にすっぽり覆われています。両日共、前日の午後9時から午前6時にかけ上空に雲が無い快晴です。午前6時のデータを比べてみると、8月3日は22.7度、北北西の風0.7m。10月1日は12.9度、南東の風0.5mです。どちらも晴れて風が弱いという放射冷却の条件を満たしていますが、気温は10度の差があり、冷え込みの感じ方は全く違うと思われます。又、8月3日の日の出は午前4時36分、午前6時の日照が0.7時間で、日射量は0.31メガジュール毎平方メートル。10月1日の日の出は午前5時31分、午前6時の日照が0時間で、日射量は0.03メガジュール毎平方メートル。専門的な単位ですが、太陽から降り注ぐ光のエネルギーの総量は、8月3日の方が10月1日の約10倍ありました。結論として、夏の方が秋と比べ朝の気温が高く、日の出も早いことから朝から日射量が大きく、冷え込みを感じないようです。

 

544回「普代水門」2019年10月19日OA

2019年10月19日 6:00 PM

北緯40度の東端に位置する「青の国」普代村は、海と山、空の美しい「青」に包まれた人口2646人の小さな村です。村の記録誌によりますと、東日本大震災では村民1人が行方不明となった他、野田村で村民7人が津波によって命を落とし、又、7つの漁港は壊滅的な被害を受けました。しかし普代水門と太田名部防潮堤が機能し、村内の住家の被害はありませんでした。

普代村政策推進室観光交流推進係の前川正樹さん(34)に普代水門を案内していただきました。外海に面した普代浜から普代川を遡り海から300m地点に、高さ15.5m、総延長205mの巨大な普代水門があります。130トンもの重さがある門扉4つと、水門の南側、県道44号上に設けられた開閉式門扉で構成され、水門上部には、建屋が5つ並びます。よく見ると建屋の途中に「23.6m」と東日本大震災の津波の高さを示すプレートがありました。実は大津波は水門の高さを8m上回ったのです。県道にかかる門扉も5分の1程度しか閉じないトラブルがありましたが、それでも水門の1キロ上流までの浸水で津波を防いだのです。又、普代水門の1キロ南東にある太田名部防潮堤は、漁港を囲む防波堤と共に集落を守りました。

普代水門と太田名部防潮堤を実現させたのは、故和村幸得(わむらこうとく)元村長です。普代村では明治29年の津波で302人が、昭和8年の津波では137人が犠牲になりました。昭和8年の津波を経験した和村元村長は、明治29年の津波で記録した15.2mの高さにこだわりました。財源や土地の活用に村民から反対の声が上がりましたが、『二度あったことは、三度あってはならない』と説得し、総工費35億6000万円をかけ昭和59年に高さ15.5mの普代水門を完成させ、又、同じ高さの太田名部防潮堤を整備したのです。普代水門完成の翌年に生まれた前川さんは、村を守った大事業を「未来の為の持続可能な開発目標であるSDGs(エスディージーズ)だったと思います」と和村元村長の英断を称えます。被災地で震災の被害を伝える跡はありますが、普代水門のような被害を抑えた跡を見ることは殆どありません。前川さんは「『被害を最小限に食い止められて良かった』だけではなく、『なぜここに水門が必要だったのか』学び『次の自然災害に私達はどう備えたら良いのか』考えてほしい」と、見学を呼びかけています。

 

543回「いのちをつなぐ未来館」2019年10月12日OA

2019年10月12日 6:00 PM

今年3月23日、釜石市の鵜住居駅前エリアに「うのすまい・トモス」がオープンしました。「いのちをつなぐ未来館」「釜石祈りのパーク」「鵜の郷交流館」で構成されています。この内、「いのちをつなぐ未来館」は、東日本大震災の出来事、教訓、釜石での防災学習の取り組みを紹介する展示スペース、震災に関する資料閲覧室、防災学習室に分かれています。

鵜住居地区にあった鵜住居小学校、釜石東中学校は、学校同士が道路を挟んで向かい合っており、災害が起きた時に助け合う為、2009年から合同で避難訓練を行っていました。子どもたちが学んだ「避難三原則」があります。1つ目は「想定にとらわれるな」。相手は自然であり、到達時間や高さなど人間の想定通りに津波が来るとは限らないからです。2つ目は「その状況下において最善を尽くせ」。その時、できることに全力を注ぎ、少しでも早く、少しでも高い所に避難するのです。3つ目は「率先避難者たれ」。いざという時、人は自分から進んで逃げない傾向があります。誰かが避難している姿が、周りの人々の避難を促し、多くの命を救うことに繋がるからです。2011年3月11日午後2時46分、激しく長い揺れが襲い、校庭では地割れが起き、水が噴き出しました。訓練では地震が起きたら校庭での整列、点呼の後に避難することになっていましたが、中学生の多くは揺れが収まると直ぐに走り出しました。小学生は校舎の3階へ集まっていましたが、中学生が避難していく姿や消防団の呼びかけにより、避難を開始しました。東日本大震災の釜石市内の津波の遡上高は最大で32.87mにもなり、1063人が犠牲になりました。しかし鵜住居では、中学生が率先避難者となり、小学生と地域の大人たちなど総勢600人が高台を目指し津波から逃れることができたのです。子ども達の命が助かったのは偶然や幸運によるものではなく、日々の防災教育と、どう行動するか考えた成果だったのです。

津波犠牲者ゼロへの取り組みを行っている釜石市では「津波注意報、警報及び大津波警報が発表された時に、保護者は学校に児童を迎えに来ないものとする」「あわせて保護者は家で待機することなく指定避難場所など高台に直ちに避難すること」などとしています。災害に強いまちにする為には、避難行動や備えを実践し続け、次の世代、また次の世代へと伝えていかなければならないのです。

 

542回「リアス・アーク美術館(気仙沼市)」2019年10月5日OA

2019年10月05日 6:00 PM

今日は宮城県気仙沼市にある「リアス・アーク美術館」についてです。発災後2年間にわたり学芸員が行った被害記録調査活動によって得られた記録写真約30000点の中から203点、収集した被災物約250点の中から155点などを常設展示しています。

被災現場写真の特徴は、撮影した際に感じたことなどを文章で添えていることです。例えば2011年4月15日、気仙沼市波路上崎野(はじかみさきの)で撮影した写真は、津波の勢いでアスファルトの一部がえぐれ、流出した冷凍カツオなどが、深緑色の水たまりに漂っています。写真下には「おぞましい光景とともに落胆させられたのが、辺りに漂っていた異様な臭いである。季節柄、ハエの大量発生が懸念される」と心情が綴られています。又、「被災物」とは、文字通り被災した物を意味します。一般的に表現されているガレキは「割れた瓦のかけらや石ころ。転じて値打ちのないもの」を意味します。被災者にとって、それらは破壊され、奪われた大切な家、家財、何より大切な人生の記憶であることから「被災物」と表現しています。そして展示被災物には、収集日時、場所の他、ハガキ状の用紙に物語を綴った補助資料が添えられています。白い掛け時計は、文字盤の「1」の部分が破損し3時33分で止まっています。補助資料には「俺はね、2時46分でなくて3時33分に黙祷すんだよね。気仙沼では、その時間に亡くなった人が一番多いはずだからね」と記されています。被災地での会話を元に、記録として残すことが困難な諸事象を例示した創作物語とのことです。又、調査活動から見えてきた課題などを「東日本大震災を考えるためのキーワード」として資料と並行し108点掲示しています。「支援・元気」というキーワードでは「『被災者は元気だった』そういう言葉を何度も耳にした『支援に行って逆に元気をもらった』そういう言葉を沢山聞いた。そして『私たちは元気です』そういう被災者の言葉も沢山聞いた。現実を語れば確かに元気な人もいる。しかし大半の被災者は顔で笑って心で泣いている」と、表面と内面が一致していないことを鋭く指摘しています。

リアス・アーク美術館では「ただ資料を見る場としてだけではなく、自分自身の『震災の記憶』を呼び起こし、語り合う場にして頂けることを期待しています」と来館を呼びかけています。

 

541回「東日本大震災遺構・伝承館(気仙沼市)」2019年9月28日OA

2019年09月28日 6:00 PM

今日は宮城県の「気仙沼市 東日本大震災遺構・伝承館」についてです。気仙沼市では東日本大震災の大津波と、その後の大規模な火災により1366人が命を落としました。この施設は、震災の記憶と教訓を伝え、警鐘を鳴らし続ける「目に見える証」として、気仙沼市が目指す「津波死ゼロのまちづくり」に寄与することを目的に、今年3月10日に開館しました。気仙沼向洋高校の校舎として利用されていた建物と震災伝承館で構成されています。2011年3月11日、約170名の生徒は数名の教職員と共に避難。教職員20名は南校舎に残り、北校舎の改修工事を行っていた工事関係者25名と共に屋上に逃げました。津波は南校舎4階まで達し学校を破壊しましたが、犠牲者を出さず難を逃れました。

見学は震災伝承館で震災時及び直後の映像をスクリーンで見た後に、渡り廊下を通り、震災遺構である気仙沼向洋高校旧南校舎に入ります。各教室にはガラス窓が無く、外と繋がるネットを通って風が吹き込みます。廊下と隔てられたグレーの柵越しに見る保健室の天井からは、剥がれた鉄筋の骨組みが赤茶けてぶら下がっています。ベッドだったと思しき板の脇には、茶色く捻じれて破れ塊となった布団が転がっています。3階の電気磁気室では、折り重なったキャビネットと共に、車輪を上にしてひっくり返った紺色の車が突っ込んでいて、ライトは外れて落ち、フロントは破壊されています。教室床には、乾いた泥に塗れた電気工事士のテキストやトロフィーが転がり、8年半前のまま時間が止まっています。4階の通信実習室の床の上にはグレーのレターボックスが置いてあり、下半分25センチまで錆びています。地上から高さ12mのこの地点まで津波が来たことがわかります。部屋のベランダから見える4階角の壁の一部は半月型にえぐれ、鉄筋が剥き出しになっています。あの日、冷凍工場が建物ごと流され南校舎を直撃した跡で、室内にゴロゴロと散らばる、くすんだオレンジ色のスポンジは、冷凍工場の壁材の一部ということです。当時の様子を想像し、自然の脅威に身震いします。

館長の佐藤克美さんは「あの日、何があったのか、一目で分かる施設です。災害時、命を守る為に何をすれば良いのか、1人1人が考えるきっかけになってくれれば」と、震災遺構を通し、自分で考える大切さを訴えていました。

 

540回「気仙大工左官伝承館」2019年9月21日OA

2019年09月21日 6:00 PM

今日は、陸前高田市小友町、箱根山の中腹に位置する「気仙大工左官伝承館」についてです。明治初期の気仙地方の民家を想定した母屋は、気仙杉を用いた木造平屋建茅葺の重厚な造りで、気仙大工左官の技術の高さが伝わってきます。

小友町で生まれ育った館長の武蔵裕子さん(59)にお聞きしました。2011年3月11日、陸前高田市小友町には最大16.8mの大津波が押し寄せ、小友町で62人が犠牲になりました。武蔵さん自身は家族も自宅も無事でした。当時、伝承館にいた武蔵さんは眼下の広田湾に「ブルドーザーで土砂を押したような、どす黒い波が捲れることなくやってきて建物を潰していった」と振り返ります。午後4時で閉館でしたが、標高220mの高台には、人々が次々と避難。結局11日夜は、生後5か月の乳飲み子から80代のお年寄りまで計28名を受け入れることになりました。寒さと余震に耐えながら、貯水槽の水をプロパンガスで沸かし、自宅から持ってきた乾麺を茹でて分け合い飢えを凌ぎました。避難者はその後、内陸などで受け入れてもらい、最も長く居た方は2011年7月まで過ごしました。

武蔵さんは、震災後、伝承館で休憩する全国から訪れたボランティアに、自身の体験を伝えたことがきっかけで、語り部としての活動を続けています。講演の中では3つの事をお願いしています。1つ目は「駐車場には基本的にバックで車を停める」。震災後、津波注意報が出た際、武蔵さんはスーパーの駐車場に車を停めていました。バックで駐車していなかった為、逃げ惑う人たちを割って車を出せなかったのです。2つ目は「携帯電話の電話帳に親戚の番号をできるだけ登録しておく」。被災地から離れている親戚に連絡する際、避難所に設置された衛星電話や公衆電話から繋がりやすく、被災地の状況も把握している可能性が高いからです。3つ目は「津波てんでんこ」。浸水の恐れがあるエリアに家族を迎えに行く、又は家族の迎えが来ると待ち続ける心の鎖を断ち切り、それぞれが安全な場所に避難、又は避難していることを信じ、より高い所を目指し逃げるのです。これは津波に限らず集中豪雨など、あらゆる自然災害に当てはまると言います。武蔵さんはリスナーに「当たり前の生活が実は幸せでした。自然災害からの身の守り方を今一度、考えてほしいです」と来館を呼びかけています。

 

539回「転落防止ゲート付き収納ラック」2019年9月14日OA

2019年09月14日 6:00 PM

今日は、工場や倉庫内の積荷の落下による作業員のケガや荷物の破損を防ぐ、転落防止ゲート付きの収納ラックについてです。「S・G・B(セイフティ・ゲート・ボックス)」と名付けられたこの装置は、愛知県に本社があるウエイト東海が開発しました。標準サイズは高さ2.2m、奥行き1.45m、横幅1.6mで、見かけは金属フレームの直方体です。動作は次の通りです。フォークリフトで、積荷を荷台ごと、棚の中に収納します。底板に重量がかかると、ラックの天井から、跳ね上げ式の門扉のようにゲートが降りてくるものです。電源が不要で、てこの原理により自動で閉まります。積荷を取り出す際は、ゲートの隙間からフォークリフトを差し込みます。積荷を10センチほど持ち上げると、前面のゲートが上昇し、積荷を取り出すことができる仕組みです。人と荷物を守るこのアイデアは、平成30年度文部科学大臣賞創意工夫功労者賞を受賞しました。

この装置は荷物の重さを利用して安全対策のゲートが上下するので、地震などで停電した際にも使用できます。又、荷物をフォークリフトでラックの底板に載せるだけで自動的にゲートが降りてくるので作業効率に優れ、又、ゲートの締め忘れもありません。地震の際、崩れてきた物に当たって怪我をしたり、崩れて散らばった製品が避難経路を塞いだりするような事態を防ぎます。震災の被害を最小限にとどめ、地震後の復旧を素早く行うことに繋がりそうです。

片山和洋社長は、2016年4月14日の熊本地震の際、ある機械製造工場内で、地震の揺れにより工場内に積み重ねてあったケースが崩れ、部品やケースが散乱したり、高い棚の上に乗せていた荷台が崩れ落ちてきたりした様子を見て、日頃からの安全対策、減災対策の必要性を感じ開発したとのことです。ウエイト東海では今後、想定される大地震に備えて「工場や物流倉庫などで働く人の防災意識を高めていただき、皆様と一緒にこれからの社会をより安全に“人と荷物を守る”企業として活動をしていきたい」としています。

 

 

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