昭和の大津波後に市街地の区画整理と防潮堤の整備に取り組み、79年に総延長2433メートルの大防潮堤が完成。「田老万里の長城」といわれる威容を誇った。2003年には「津波防災の町」を宣言し、長年の努力で「災害に強いまち」の歩みを進めていた。
しかし11年3月11日。激しい揺れの後に猛烈な黒い波が地域を襲った。市街地で津波浸水高16・6メートル、津波遡上高20・72メートルを記録した巨大津波が第1・第3堤防を越え、第2堤防が破壊された。1691棟が被災し、魚市場や消防分署などの主要施設が全壊。死者・行方不明者181人は、市全体の35%に及んだ。

最上階で見える真実
東日本大震災が起きた2011年3月11日、ホテルは午後3時からのチェックイン前で宿泊客はいなかった。「えらく長い地震」に松本勇毅社長(63)は津波襲来を確信。急いで外に出ると、予想津波高3メートル以上とする大津波警報が防災無線で伝えられた。従業員ら5人を避難させ、自身は予約客が入っていたため1人ホテルに残った。
この時点で防潮堤を越える津波を想像しておらず、最上階の6階に避難。同3時15分ごろに外を見ると既に津波が押し寄せていた。当時は北海道奥尻島やインドネシアのスマトラ島の被害が記憶に新しく「この津波も記録に残さなくては」と映像を撮り始めた。
程なく第2波とみられる高波が押し寄せ、あっという間に住宅などをのみ込みながらホテルを直撃。田老漁港付近を見下ろすように撮影していた映像は一時、建物の軒先を見上げるようなアングルになる。
「波が突き抜けてからの記憶はない。のみ込まれてしまったと勘違いしたのではないか」と松本社長。「十数秒後に、『あ、生きてた』とわれに返った」という過酷な状況に立ち向かいながら、ビデオカメラを握りしめた。
生々しい映像は、松本社長があの晩を明かしたホテル6階でしか公開していない。巨大災害の教訓はその時々の最大限の知恵で後世に受け継がれてきたが、災禍は繰り返された。「あの日と同じ撮影場所で見てほしい。真実は現物を使って伝えることも必要だ」。これからも唯一無二の手法で、風化にあらがう。
