2011年3月11日の東日本大震災による犠牲者は越喜来地区全体で88人、住家被害戸数は533戸と甚大な被害に遭った。
浦浜地域は震災前、越喜来小や住居が立ち並んでいた。三陸鉄道リアス線三陸駅から続く道沿いは商店街として住民に親しまれ、にぎわいの中心地だった。
昭和の大津波後、一帯では復興事業が本格化した。中央部に道路を整備し、山側は飲料水を山から引くなどして集団移転用地を造成した。しかし、漁業者らは浜から離れた移転地を敬遠した。
1989年発行の町史は「三陸町では、対津波施設に守られているとはいいながら、明らかに明治三陸地震津波、昭和三陸地震津波の浸水地域に住居が建設されている」と指摘。被災域への現地復帰が進んでいた状況を「我々(われわれ)は、同じ轍(てつ)を踏み始めてはいないか、再考の段階にある」と警鐘を鳴らしていた。

住民に再起への勇気
震災直後、一面にがれきが広がる中で1本のポプラが悠然と立っていた。商店の敷地内にあり、住民が気にも留めていなかった無名の存在。昭和の大津波以後に植樹され、津波に耐えた高さ約25メートルの巨木は人々に再起への勇気を与え、いつしか「ど根性ポプラ」と呼ばれるようになった。
近所で食堂・秀(しゅ)っこねぇを営む金野秀子店主(55)は「ポプラは越喜来の希望。訪れた観光客も見て感動している。枯れずに生きて、残ってくれたシンボルがあるから私たちも頑張れる」と思いを寄せる。
被災を経て集落の光景は大きく変わった。防災集団移転促進事業(防集)で住宅は高台に移転。被災した越喜来小も高地に移った。ポプラからほど近くの移転元地(被災跡地)にはイチゴ栽培施設も完成し、新産業が芽吹いた。
2018年5月、ど根性ポプラを中心とした浦浜地区緑地広場(0・24ヘクタール、愛称・ど根性ポプラ広場)が完成。緑が広がる住民の憩いの場になった。
広場の完成に併せ、地元の女性有志7人がポプラの会を結成。週に1度、草取りやトイレの清掃に当たっている。
会員の葈沢(からむしざわ)容子さん(69)は「冬に落ちた葉が、春になって一気に若葉として出てくると『あぁ、いいな。まだ生きていこう』って思う」、片山啓予(ひろよ)さん(68)も「小さい子どもを安心して遊ばせられる場所ができて良かった」と愛着をにじませる。
住民に勇気や希望、癒やしを与え続けるポプラ。何も語らない巨木だが、緑をたたえるその姿は、震災の記憶と力強い復興へのメッセージを送り続ける。
