県昭和震災誌や同村などによると、同村は1896(明治29)年の三陸大津波で最大26メートルの波が襲い、98人が死亡。家屋も465戸中325戸流失した。1933(昭和8)年の三陸大津波では最大約13メートルの波が押し寄せ、明戸地区で死者3人、行方不明者1人、1戸流失の被害が出た。
60年のチリ地震でも津波が押し寄せたが、人的被害はなかった。震災では最大遡上(そじょう)高25・5メートルの津波が発生し、同村で死者24人、行方不明者15人、225戸が全壊。同地区では死者1人、家屋4件が全壊した。

復旧、再び人集う場へ
三陸鉄道リアス線の田野畑駅から北東約1・5キロに位置する明戸海岸防潮堤は、1969年に海面高9メートル、全長378メートルで建設され、周辺の安全を守ってきた。
震災では、推定17・1メートルの第1波が防潮堤を乗り越え、引き波で堤体が破損。クロマツ林やスポーツ施設ものみ込み、約200メートル沖の海中にあった約8トンの消波ブロックを砂浜に打ち上げた。
壊れた防潮堤は、一部が被災当時のまま保存されている。折れたり波打ったコンクリートが重なり合い、露呈した内部が津波の力の強大さをまざまざと見せつける。
復旧した明戸地区防潮堤は2017年に完成し、海面高12メートル、全長約350メートル。堤防上を県道が通り、以前より海から離れた場所に設置された。遺構の周辺はあずまやなどのある公園に生まれ変わり、周辺のスポーツ施設も再建され、砂浜で遊ぶ人やスポーツを楽しむ人が再び集い始めている。
一方、村へ震災の話を聞きにくる人は減少傾向だ。同村によると、大津波語り部の参加人数は13年度の6220人をピークに、本年度は736人まで落ち込んでいる。
村政策推進課の山口芳美主事は「遺構は激しい被害が一目で分かり、防災意識を養える場だ。近隣自治体とも連携し、震災についてより掘り下げた発信ができるよう工夫していきたい」と語る。
