記念碑は34(同9)年に浪板海岸のそばに建てられたが、80年前後に海岸に沿って通る国道45号沿いに移設された。東日本大震災で約200メートル流されたが破損はなく、数年前、同駅前に場所を変えて建てられた。
同地区では1896(明治29)年の大津波で、50軒ほどあった民家のうち、約半分が被災。54人が犠牲になった。昭和の大津波や、1960(昭和35)年のチリ地震津波は明治の大津波に比べ、浸水域が狭く、建物や人的被害はなかった。
チリ地震津波の際は、海岸から約20メートルの高さにあった当時のJR山田線の線路に立ち、海を眺める人の姿があったというが、東日本大震災ではその線路まで津波が押し寄せ、同じ場所に立って海を確認しようとした複数の住民が流された。
同記念碑には「地震があったら津浪の用心せよ」など、三つの戒めが刻まれているが、古く、文字も読みづらくなっていたため、ほとんど住民の目に留められることがなくなっていた。
今年3月に解散した浪板地域復興協議会の会長を務めていた台野宏さん(74)=同町吉里々々(きりきり)=は「昭和やチリの津波を経験した住民は『津波はここまで来ない』という過信があっただろう」と振り返る。
同地区では1896(明治29)年の大津波で、50軒ほどあった民家のうち、約半分が被災。54人が犠牲になった。昭和の大津波や、1960(昭和35)年のチリ地震津波は明治の大津波に比べ、浸水域が狭く、建物や人的被害はなかった。
チリ地震津波の際は、海岸から約20メートルの高さにあった当時のJR山田線の線路に立ち、海を眺める人の姿があったというが、東日本大震災ではその線路まで津波が押し寄せ、同じ場所に立って海を確認しようとした複数の住民が流された。
同記念碑には「地震があったら津浪の用心せよ」など、三つの戒めが刻まれているが、古く、文字も読みづらくなっていたため、ほとんど住民の目に留められることがなくなっていた。
今年3月に解散した浪板地域復興協議会の会長を務めていた台野宏さん(74)=同町吉里々々(きりきり)=は「昭和やチリの津波を経験した住民は『津波はここまで来ない』という過信があっただろう」と振り返る。
風化防ぐ願いを形に

大槌町では東日本大震災で1286人が犠牲となった。浪板地区では当時の住民約380人のうち、関連死を含め、27人が亡くなった。民家や施設は約140棟中、半壊を含め、計71棟が被災。海岸から500メートル以上ある居住地まで津波が押し寄せ、約20メートルの高さにあった当時のJR山田線浪板海岸駅も波をかぶった。
台野さんが高校時代に経験したチリ地震津波は何回かに分けて周期的に襲い、押したり、引いたりを繰り返したと記憶していたが、東日本大震災では「壁のような黒い波が一気に上ってきた」と違いを強調する。
明治の大津波で被災した低地に再建された民家の多くは、東日本大震災で再び流失した。被災し、3年前に高台に自宅再建した佐藤勝美さん(74)=同町吉里々々=は「海が近い地域で長く暮らすと、元の場所に戻りたいと思うが、大海嘯記念碑に刻まれた『危険地帯に住居をするな』の言葉をかみしめなければならない」と実感を込める。
台野さんが会長を務めていた浪板地域復興協議会は大海嘯記念碑の劣化も踏まえ今年2月、「津波が来た場所がはっきりと分かるものが必要だ」との思いから同記念碑の隣に「東日本大震災備忘の碑」を建立。津波の襲来時刻、高さや地区の被害状況を記し、「地震が起きたら津波が来ると思え 高台に避難し解除が出るまで戻らない。今次の震災が永久に教訓となることを願って」と刻んだ。
同会は「津波到達の地」と記した石碑も同駅前を含め、地区内5カ所に設置。住民の意識向上を図ろうと伝承に取り組んできた。
JRから三陸鉄道に移管、再建された同駅周辺には約5メートル盛り土された土地に災害公営住宅が整備され、他地区から移住した住民もいる。台野さんは「『盛り土で高くなったから大丈夫』ではない。必ずまた津波が来ると頭に入れ、石碑も通じ、地震がきたら逃げるよう周知を徹底していく」と語る。
台野さんが高校時代に経験したチリ地震津波は何回かに分けて周期的に襲い、押したり、引いたりを繰り返したと記憶していたが、東日本大震災では「壁のような黒い波が一気に上ってきた」と違いを強調する。
明治の大津波で被災した低地に再建された民家の多くは、東日本大震災で再び流失した。被災し、3年前に高台に自宅再建した佐藤勝美さん(74)=同町吉里々々=は「海が近い地域で長く暮らすと、元の場所に戻りたいと思うが、大海嘯記念碑に刻まれた『危険地帯に住居をするな』の言葉をかみしめなければならない」と実感を込める。
台野さんが会長を務めていた浪板地域復興協議会は大海嘯記念碑の劣化も踏まえ今年2月、「津波が来た場所がはっきりと分かるものが必要だ」との思いから同記念碑の隣に「東日本大震災備忘の碑」を建立。津波の襲来時刻、高さや地区の被害状況を記し、「地震が起きたら津波が来ると思え 高台に避難し解除が出るまで戻らない。今次の震災が永久に教訓となることを願って」と刻んだ。
同会は「津波到達の地」と記した石碑も同駅前を含め、地区内5カ所に設置。住民の意識向上を図ろうと伝承に取り組んできた。
JRから三陸鉄道に移管、再建された同駅周辺には約5メートル盛り土された土地に災害公営住宅が整備され、他地区から移住した住民もいる。台野さんは「『盛り土で高くなったから大丈夫』ではない。必ずまた津波が来ると頭に入れ、石碑も通じ、地震がきたら逃げるよう周知を徹底していく」と語る。


2019年12月11日 公開
[2019年05月17日 岩手日報掲載]