町教委が82年に発行した山田町津波誌によると、石碑は旧町村ごとの津波浸水線上に建立。山田湾を眺める旧大沢小は、かつて地区の運動会なども開かれた場所で、住民の多くがこの石碑を見て育った。
大沢地区コミュニティ推進協議会の昆暉雄(てるお)会長(76)は「昭和の津波の時はここに逃げ、住民が集まりやすいこの場所に石碑が建ったのではないか」と推測する。
その後、大沢小は74年に現在の場所に移転。時がたつにつれ、石碑が立つ公園に人が集う機会は減り、今では肝心の教えも判読が難しい状態だ。
山田湾に面する側の碑文には、当時の大沢村の被害について「流出戸数七十二戸、半潰(はんかい)三十三戸、溺死者一名」と記されている。ところが、東日本大震災ではそれを上回る犠牲者が出た。「同じ悲劇を繰り返さない」。住民は歴史の伝承へ新たな誓いを立てた。
大沢地区コミュニティ推進協議会の昆暉雄(てるお)会長(76)は「昭和の津波の時はここに逃げ、住民が集まりやすいこの場所に石碑が建ったのではないか」と推測する。
その後、大沢小は74年に現在の場所に移転。時がたつにつれ、石碑が立つ公園に人が集う機会は減り、今では肝心の教えも判読が難しい状態だ。
山田湾に面する側の碑文には、当時の大沢村の被害について「流出戸数七十二戸、半潰(はんかい)三十三戸、溺死者一名」と記されている。ところが、東日本大震災ではそれを上回る犠牲者が出た。「同じ悲劇を繰り返さない」。住民は歴史の伝承へ新たな誓いを立てた。
児童へつなぐ「誓い」

東日本大震災後、元大沢小校長の箱石敏巳さん(77)=山田町大沢=は、大沢地区コミュニティ推進協議会の依頼を受け、「命を守る五(いつつ)の誓い」を考案した。
同協議会は2016年6月、地域の復興工事に携わった建設会社の協力を得て、新たな慰霊碑を建立。同地区の犠牲者約120人の名前と共に、「千年こえて語りつなげ」など五つの誓いを刻んだ。
建立した場所は、お盆などに墓参りする人にも見てもらうため、地元の南陽寺入り口付近を選んだ。
昆会長は「ただ石碑があるというだけでなく、生かさなければいけない。われわれは(旧大沢小の)石碑を見て育ったため、子どもたちにも『五の誓い』を覚えさせたかった」と説明する。
大沢小(及川輝美校長、児童66人)は同年10月から、全校朝会で「五の誓い」を唱和。17年には誓いを考案した箱石さんを招いて「震災を語り継ぐ会」を開き、震災の恐ろしさや、海と共に生きてきた地域の歴史を学んだ。
同校によると、東日本大震災で自宅などが被災した児童は約7割に及ぶ。宮本もあさん(6年)は「津波の怖さを覚えている。大地震があったら津波が来ることを知ったので、誓いを守る」と語り、佐々木悠成君(同)は「大人になったら次の世代にも教えてあげたい」と意識を高める。
「命が一番」と、東日本大震災を思い返し強調する箱石さん。校長時代、旧大沢小の記念碑のほか、南陽寺にある明治と昭和の津波の記念碑も子どもたちに案内してきた。
「津波被害を千年を超えても語り継がなければいけない。学校では機会あるごとに、教えなければいけない」。地域を担う子どもたちが、東日本大震災で得た教訓を次代につないでいくことを強く願っている。
同協議会は2016年6月、地域の復興工事に携わった建設会社の協力を得て、新たな慰霊碑を建立。同地区の犠牲者約120人の名前と共に、「千年こえて語りつなげ」など五つの誓いを刻んだ。
建立した場所は、お盆などに墓参りする人にも見てもらうため、地元の南陽寺入り口付近を選んだ。
昆会長は「ただ石碑があるというだけでなく、生かさなければいけない。われわれは(旧大沢小の)石碑を見て育ったため、子どもたちにも『五の誓い』を覚えさせたかった」と説明する。
大沢小(及川輝美校長、児童66人)は同年10月から、全校朝会で「五の誓い」を唱和。17年には誓いを考案した箱石さんを招いて「震災を語り継ぐ会」を開き、震災の恐ろしさや、海と共に生きてきた地域の歴史を学んだ。
同校によると、東日本大震災で自宅などが被災した児童は約7割に及ぶ。宮本もあさん(6年)は「津波の怖さを覚えている。大地震があったら津波が来ることを知ったので、誓いを守る」と語り、佐々木悠成君(同)は「大人になったら次の世代にも教えてあげたい」と意識を高める。
「命が一番」と、東日本大震災を思い返し強調する箱石さん。校長時代、旧大沢小の記念碑のほか、南陽寺にある明治と昭和の津波の記念碑も子どもたちに案内してきた。
「津波被害を千年を超えても語り継がなければいけない。学校では機会あるごとに、教えなければいけない」。地域を担う子どもたちが、東日本大震災で得た教訓を次代につないでいくことを強く願っている。


2019年05月31日 公開
[2018年11月15日 岩手日報掲載]