気象と防災 マメ知識!

気象と防災 マメ知識!

気象予報士・防災士の神山 浩樹(IBCアナウンサー)がお届けする5分間。

◆放送日時
毎週土曜日17:50~17:55 【再放送】毎週日曜日18:50~18:55
番組開始:2009年4月〜

◆出演
神山浩樹(IBCアナウンサー)

お便り・お問い合わせ

449回「震災学」2017年12月9日OA

2017年12月09日 6:00 PM

今日は、東北学院大学発行「震災学」についてです。東日本大震災によって浮かび上がる課題を、被災地・東北から発信する学術誌で、先月17日に11冊目が刊行されました。第1章では『地元局アナウンサーの6年』として、震災報道を振り返った座談会の模様が掲載されています。NHK仙台の杉尾宗紀(そうき)さん、東北放送の藤沢智子(ともこ)さん、エフエム仙台の石垣のりこさん、ラジオ福島の菅原美智子さん、そして岩手から私が参加しました。

杉尾さんは、震災時は仙台、その後、出身地の宮崎を挟み、2015年から再び仙台放送局に勤務しています。宮崎県では、南海トラフ巨大地震の津波と揺れにより約35000人が犠牲になる恐れがあります。杉尾さんは、宮崎赴任時、ラジオ番組を通して防災士のネットワークを構築。次なる大震災への備えと、災害時のラジオの重要性を強調していました。藤沢さんからは、震災以降、放送している番組「3.11みやぎホットライン」が紹介されました。部員23人の内、13人が震災未経験者ということで、若手アナを中心に被災地に足を運び、生の声に耳を傾ける機会になっているとのことです。被災された方の事情はそれぞれ、思いもそれぞれです。想像ではなく、自ら取材し伝え続けることの大切さを再確認しました。石垣さんは、震災後に防災士を取得、番組やイベントなどで被災地の今を発信し続けています。最近、放送で「防災の為」と銘打つとリスナーが避ける印象があることから、普段から親しんでもらう入口としての放送の大切さや、又、転勤や進学で仙台に転入する多くの人が震災を体験していないことから、音楽をきっかけに震災について伝えるFMならではの手法について触れていました。飯舘村に特化した取材を続けている菅原さんが最も印象的だったのは、80代の方の言葉「人を恨んで生きるなよ」。原発事故の距離や放射線量による数字で住民を分断し、恨み、妬み、嫉みを生んだ現状に対して、今後を慮る重い一言です。菅原さんは、2011年7月に立ち上げた「いいたてまでいの会」の事務局長として、取材とは違う形でも村を応援しています。

そして私は仮設住宅の取材で見聞きする、住まう高齢者が亡くなったり、介護施設に転居したりするケースから、被災地での月日の重さなどについて語りました。「震災学vоl.11」は一般の書店で販売されています。

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IBCワイドFM

435回「震災を伝える仙台の施設」2017年9月2日OA

2017年09月02日 6:00 PM

今日は仙台の震災を知り、学ぶ場「せんだい3.11メモリアル交流館」についてです。仙台市の南東部、若林区にあり、1階は交流スペース、2階は展示室・スタジオ、3階は屋上庭園になっています。宮城県によると、東日本大震災では、宮城野区で震度6強、若林区などで震度6弱を観測、9mの大津波などにより950人が亡くなりました。

建物1階で目を引くのは縦3m、横5m程の壁一面にある「仙台市東部沿岸メモリアル立体地図」です。仙台平野周辺の地形と東日本大震災における津波浸水域の関係を表しています。太平洋を下にした地図で、壁面の上から山並み、仙台平野、松島湾・仙台港から真っ直ぐな海岸線となっています。立体地図のほぼ中央に仙台東部道路が横断していて、その海側が薄い水色・ベージュで浸水域を表しています。平野を広範囲に亘り津波が襲ったことが見て取れます。

2階の展示室では、震災被害や復旧復興の状況などを写真やパネルで伝えています。床と机の天板には、津波により被災した小学校の体育館の床材が使われています。パネルで目に留まったのは、2011年3月11日午後4時9分に上空から撮影された荒浜小学校の写真でした。海から約700mに位置する4階建ての校舎、その2階部分まで灰色の海に浸っています。緑の屋上に小さく映っているのは、孤立した児童・近隣住民320名で、助けを求める叫び声が聞こえてくるようです。見入っていると「小学校に避難した後、家にカギをかけに行ったり、荷物を取りに戻ったりして亡くなった人がいたんです」と、静かに教えてくれた女性がいました。荒浜地区で自宅を失い、仮設住宅暮らしの経験があるというフロア常駐のスタッフでした。家族は無事でした。震災当初、同じ地区で亡くなった192名を思い、生き残った罪悪感で精神的に辛かった時期もあったと言います。しかし今は「亡くなった方の分まで生きる」と考え「津波で2度と自分のような思いをしてほしくない」と経験を伝え続けています。「せんだい3.11メモリアル交流館」は、仙台駅から地下鉄東西線で13分、荒井駅の構内にあります。

423回「青森県防災教育センター」2017年6月10日OA

2017年06月10日 6:00 PM

先日、青森県消防学校内にある「青森県防災教育センター」を訪れました。1979(昭和54)年9月に開設、東日本大震災の教訓等を踏まえ、2014(平成26)年3月にリニューアルしました。震度6までの地震体験や訓練用の水消火器体験の他、青森県の災害の歴史等を動画や写真で学べる施設です。

「119番通報体験」では、タッチ式モニターを使用し、火事や救急の際の119番通報の手順を学びます。画面には公園のゴミ箱から煙が出ているイラストが表示されています。慌てず119番に電話をかけた後は「火事か・救急か」「場所はどこか」「何が燃えているのか」、質問にはっきり答えることを確認します。「青森県の地震・津波被害想定」は、壁一面の青森県の地図上に、想定されている地震の揺れや津波の高さが記され、地震の規模や場所によっては20mを超える津波が押し寄せることがわかります。その左脇の壁には、1m、2m、3mの高さに線が引いてあります。3mの津波は天井まで達する高さということを見上げながら実感します。「防災の心得」パネルコーナーでは、「雪害」「防火」「台風が近づいた時」等、災害の種類別に注意点がまとめられています。2010(平成22)年6月、八甲田山の酸ヶ湯付近で、硫化水素により山菜採りの女子中学生が亡くなっています。「遭難防止」では「他に比べて著しく草木が枯れている場所は火山性ガスが噴出している可能性があるので近寄らないように。特に無風、くもりの時にガスがたまりやすい」と注意を促しています。又、ビスケット、水、ヘルメット、紙オムツなどが並ぶ「備蓄品コーナー」。中でも目を引く「非常用水電池」は開封後、注水口から水を入れると使える単3型で、約20年の長期保存ができると知りました。

日頃の備えや防災の知識を学べる青森県防災教育センターは、新青森駅から車で約5分の所にあり、見学は無料ですが事前申し込みが必要です。

 

417回「学ぶ防災」2017年4月29日OA

2017年04月29日 6:00 PM

先月末、宮古市田老で「学ぶ防災」ガイド・元田久美子さんに町を案内していただきました。2012年4月から始められた学ぶ防災のプログラムは、防潮堤での説明と、たろう観光ホテルでの津波ビデオ上映の2本柱です。宮古市田老地域は昭和三陸大津波の後、市街地の区画整理と防潮堤の整備に取り組みました。そして1979(昭和54)年に総延長2433mの防潮堤が完成しました。しかし6年前の巨大津波は「田老万里の長城」とも呼ばれた第一・第三堤防を越え、第二堤防を破壊。市街地で津波浸水高16.6m、津波遡上高20.72mを記録しました。元田さんは、10mの防潮堤の上で田老の津波の歴史を語りながら「防潮堤は津波が来るまでの時間稼ぎであり、命を守る為には逃げる意識を持つこと」と強く訴えます。

続いて去年、震災遺構として保存工事が終わった6階建ての「たろう観光ホテル」を訪れました。1・2階は壁が破壊され素通しで、赤茶けた鉄骨の躯体がむき出しになっています。3階の窓も全て無く、津波は4階まで来たといいます。外階段を上り最上階のフロアに入りました。宿泊客が今にも部屋から出てきそうな廊下を進み、一番奥にある604号室へ。あの日、ホテル関係者がこの部屋から撮影した大津波の映像が映し出されました。白いしぶきをあげながら黒い水の塊が迫り家並みを呑み込んでいきます。わずか4分で181人の命が失われ町が消えた事実に身震いしました。

上映後、同じ窓の外には、盛り土した復興途中の町や新しい球場が見えました。明治、昭和、東日本大震災と115年で3回も大津波に襲われた町は再び立ち上がりました。元田さんは「目に見える物を一つでも多く残さないと人は忘れてしまう」と震災遺構の意義を強調し「『災害は忘れた頃にやってくる』のではなく『人が忘れるから災害になる』」と結びました。「学ぶ防災」は津波の被害と教訓を、これからも伝え続けます。

416回「三陸鉄道と震災」2017年4月22日OA

2017年04月22日 6:00 PM

1984(昭和59)年4月1日、明治以来、住民の悲願だった三陸を縦断する三陸鉄道が開業しました。運行する2路線は、宮古から久慈間の「北リアス線」が71キロ、大船渡市の盛から釜石の「南リアス線」が36.6キロ、合わせて107.6キロです。トンネルが連続するものの、車窓から太平洋を一望できるスポットが多いのが特徴です。

国土交通省の資料によりますと、2011年3月11日に発生した東日本大震災では、橋や駅、線路など317か所が被災しました。北リアス線が70か所に対して、南リアス線は247か所と3倍以上でした。これは宮古以北の震度が5弱だったものの、釜石以南の震度が6弱だったという地震の強さの違いが要因となっています。南リアス線では揺れにより橋脚が損傷したり、軌道を支える地盤が陥没したりする等が多数発生しました。一方、津波により線路・橋脚等が流出したのは、海岸部に近い堤防・高架橋を中心に5か所、延長5.8キロと極めて局所的な被害でした。そもそも三陸鉄道の路線は明治三陸大津波等の被災経験を踏まえ、ある程度津波を想定したルートが設定されていました。全路線の半分以上がトンネルとなっている他、トンネル以外の周囲が開けた区間でも高台に線路が敷設されていて、比較的津波には強い設計だったのです。その為、復旧にあたり内陸部へルートを変更することなく、震災からわずか3年の2014年4月に全線復旧を成し遂げました。

三陸鉄道では、震災後、津波の恐れがある場合の避難行動を見直しました。これまでは緊急停車後、高台への避難でした。しかし震災後は、線路脇に津波避難路看板を南リアス線12か所、北リアス線11か所に設置し、避難ルートを明らかにする等、更なる安全確保に取り組んでいます。津波により不通となっているJR山田線の宮古・釜石間が来年度末、JRから経営移管される三陸鉄道。地元と観光客の利用促進を図りながら、これからも被災地のインフラを支え続けます。

 

412回「津波の教訓を伝える木碑」2017年3月25日OA

2017年03月25日 6:00 PM

今年、建て替えられた津波の教訓を伝える木製の碑「木碑」についてです。復興工事が進む大槌町の安渡地区。大槌湾から約400m、津波の到達地点だった坂の途中に栗の木でできたその碑があります。刻まれた文は「大きな地震が来たら戻らず高台へ」。2013年3月11日に建立されたもので、雨・風に4年間さらされ、側面には1mほどの亀裂が入り劣化が進んでいます。

木碑を発案したのは当時、大槌高校の生徒だった吉田優作さん(現在20歳)です。津波対策を考える中高生の集まりに参加したことがきっかけで、この木碑を思いつきました。朽ちることを前提に4年毎に建て替えられます。震災前、三陸沿岸には過去の津波襲来を伝える石碑が数多くありました。しかしそれらは風景の一部になり、誰も目に留めなくなっていました。吉田さんは、建て替え行事に参加することで、震災の記憶を1人でも多く共有し後世に伝えられる、と考えたのです。

先月25日、安渡地区には、建て替え準備の為、千葉県の大学から帰省した吉田さんの姿がありました。仮設住宅の談話室に、大槌高校の生徒の他、近隣住民合わせて20人以上が集い、木碑の銘文に墨を入れる作業を行いました。震災の風化に対して、吉田さんは、それが当たり前だと思っています。震災のことを日々、考え続けていると「自分が壊れてしまう、重過ぎるので」と。だからこそ、4年に1度、集まることに意義があります。木碑を通して、高校生は故郷復興への思いを新たにし、住民は「津波を知らない世代の犠牲者が出ないように」と願いを込め作業していました。そして3月11日。地域住民や高校生と共に新しい木碑を建立した吉田さんは、集まった人達を前に「自分たちのように辛い思いをする人を後世に作らないようにしたい」と木碑への思いを述べました。次の建て替えは2021年3月11日。木碑は代替わりしながら、津波の教訓を静かに語り続けます。

411回「釜石で迎えた3・11」2017年3月18日OA

2017年03月18日 6:00 PM

3月11日、IBCラジオでは「東日本大震災から6年~忘れない3・11~」を放送しました。私は県と釜石市の合同追悼式が行われた県立釜石高校第一体育館からの中継でした。約800名が参列する中、御遺族代表として、野田町に住む三浦芳男さん(71)が追悼のことばを述べました。あの日、鵜住居地区防災センターに避難した妻・郁子さん(当時63歳)を失い、現在、遺族会の会長です。三浦さんは2012年1月、遺骨と化した郁子さんに再会。警察との確認作業で目にした1枚の写真は、あまりにも変わり果てた姿で、誰に見送られることもなく荼毘に付したことを思い「あふれる涙をおさえることができませんでした」と当時を振り返りました。三浦さんは、自立再建を果たし、庭に郁子さんが育て奇跡的に残ったキキョウを植える日を心待ちにしています。追悼式では「防災センター調査委員会で取りまとめた最終報告書を、次世代への教訓とし、津波による犠牲者を1人も出さない、安全で安心な町づくりを心から願っています」と結びました。

県復興局によりますと、岩手県全体の復興状況は、災害公営住宅は約8割完成、住宅の高台移転は区画数で5割を越えています。防潮堤など海岸保全施設は4割完成、復興道路の整備も進んでいるということです。釜石市では、災害公営住宅は約8割、宅地造成は4割を越えて整備。津波で被災し取り壊された釜石市民文化会館に代わるホールはこの秋、完成予定で、周辺の商店街と共に新たな賑わいの中心になりそうです。釜石は2019年にラグビーワールドカップ日本大会の会場地の一つになっていて、交流人口増加のきっかけになることが期待されています。

復興が目に見えて進む一方、市内で最も多くの犠牲者を出した鵜住居町に整備される震災メモリアルパークは、この3月に開設される予定でしたが、費用を負担する国との間で施設の規模や内容の検討に時間を要し、完成が2年遅れる見通しになりました。仮設・みなし仮設住宅で暮らす方は、釜石市だけで1568世帯、3379人もいらっしゃいます。震災から6年、復興はまだ道半ばです。

 

410回「震災6年、仮設住宅の現状」2017年3月11日OA

2017年03月11日 6:00 PM

震災から6年。県内で未だに仮設住宅、みなし仮設住宅に住んでいる方は、1月31日現在、6179世帯、13283人です。沿岸に立ち並ぶ災害公営住宅には、空いている部屋があります。それでも仮の住まいで暮らしているのは、個人個人で様々な事情があるからです。私は2012年秋から、デジカメを持って仮設住宅を訪れ、住民に今の気持ちや今後についてお聞きしています。震災を風化させたくないという思いで取材し、ニュースエコー内で放送しているものです。3世帯の例をお伝えします。

去年8月に取材した釜石市の70代の男性。元市の職員の彼は消防団に属していて、あの日、水門を閉めた後、高台に逃げて無事でした。しかし自宅にいた、妻、長男、義理の娘、小学生の孫娘の4人を津波で失いました。市内に住む次男家族は無事でした。彼の願いは、元の場所に自宅を再建することです。そして仮設が手狭で次男の元にある仏壇を移し、亡くなった家族を供養したいと考えています。以前の住まい一帯は復旧、復興工事が進んでいるものの、自宅を再建できるのは1年半後。それまで仮設での暮らしが続きます。

去年6月に取材した、盛岡市のみなし仮設に住む80代の女性。次女が住む街へ大槌町から引っ越してきました。故郷に戻りたいのですが、親戚だけでも17人も亡くなり、頼れる親類がなく帰れません。今の時期、盛岡で白鳥の北帰行を見上げながら「帰る場所があっていいなあ」と大槌を懐かしんでいます。今後は内陸に建設される災害公営住宅に住む予定で、それまで先の見えない中、アパートで暮らします。

先月、取材した宮古市の40代の女性。町の中心部にあった店舗兼住宅を津波で失いました。家族は7人。夫婦の他、同じ仮設に70代の実の母、20代の長女夫婦と子ども2人の、3世帯が別々の部屋で暮らしています。7人はこの春、再建した自宅へ引っ越します。震災から6年、家族が同じ場所に帰れる生活がようやく、始まるのです。仮設団地の自治会長である彼女は、自宅に入居後も、まだ仮設に住んでいる高齢者の見守りを続けていくということです。

 

409回「東北各県の地震・津波(山形県)」2017年3月4日OA

2017年03月04日 6:00 PM

東北地方各県で過去にあった、又、今後、大きな被害が想定される地震・津波について、今回は「山形県」です。山形県の「主な地震記録と被害状況」によりますと、山形県で最大の被害をもたらしたのは1894(明治27)年10月22日の「庄内地震」です。マグニチュードは7.0、揺れは庄内の一部で震度7と推定されます。726人が亡くなり、負傷者1060人、家屋の全壊3858棟で、被害は酒田付近が最も大きく、山形、本庄にまで及びました。2011(平成23)年3月11日の東日本大震災では本震で震度5強、2人の方が亡くなり、又、4月7日の最大余震では震度5弱を観測、1人の方が亡くなりました。津波による被害はありませんでした。このように太平洋側沖合で発生する地震でも被害を受けることがあるのです。

今後、山形県沿岸に最大クラスの津波や被害をもたらすと想定されるのは、山形県沖の「F30断層」「F34断層」という津波断層です。山形県が去年3月に公表した資料によりますと、F30 断層では酒田市に属し日本海に浮かぶ飛島(とびしま)で震度7、庄内平野の広い範囲で震度6強、F34 断層では庄内平野に加え鶴岡市南西部で震度6強以上の強い揺れが発生すると想定されています。鶴岡市を襲う津波はF30 断層で最大16.3m、F34 断層では最大12.7m。県全体の人的被害は、F30 断層では海岸付近に漁業関係者や海水浴客などが多い夏の正午に最大約3290人、F34断層では就寝中で避難開始が遅れ、更に積雪で避難に時間を要すると考えられる冬の深夜に最大約5250人の方が犠牲になると想定されています。県全体の家屋の全壊棟数は、最も被害が多くなる冬の午後6時、強風時において、F30 断層の場合約10290棟、F34 断層の場合に約5490棟と想定され、被害は庄内地域に集中しています。酒田市では揺れによる被害、鶴岡市では津波による被害が多く、これは酒田市での被害が市中心部に集中しているのに対し、鶴岡市での被害が沿岸部に点在することにも表れています。

山形県では「発災後、すぐに避難を開始し、又、建物を耐震化することで、人的被害と建物被害を大幅に減少させることができる」と、今回の基礎資料を活用した防災対策を呼びかけています。

408回「東北各県の地震・津波(秋田県)」2017年2月25日OA

2017年02月25日 6:00 PM

東北地方各県で過去にあった、又、今後、大きな被害が想定される地震・津波について、今回は「秋田県」です。秋田県の資料によりますと、明治以降、最大の自然災害は1896(明治29)年8月31日の「陸羽地震」です。マグニチュード7.2の内陸直下型地震で、仙北郡の南東部の平野部では震度7、秋田県内の被害は死者205人、負傷者736人、家屋の全壊は5682棟に上ります。犠牲者の9割は家屋の倒壊によるもので、午後5時頃の夕食の支度をする時間にあたり、多くの方が台所で亡くなりました。1983(昭和58)年5月26日には「日本海中部地震」が発生しました。マグニチュード7.7、震源は秋田県能代沖約100キロ、深さ約14キロとごく浅い海底で、秋田市では震度5を記録。沿岸の津波は最大14mにも達し79人の方が命を落とした他、倒壊物による死者2人、ショックにより2人の計83人が亡くなりました。

今後、大きな被害が想定されているのは、男鹿半島北西沖から新潟県北部沖、山形県沖の3つの海域が連動したマグニチュード8.7の巨大地震や、岩手との県境に近い横手盆地、真昼山地連動のマグニチュード8.1の巨大地震です。2013(平成25)年8月に秋田県がまとめた報告書によりますと、3つの海域が連動した巨大地震の場合、男鹿市や三種町(みたねちょう)で最大震度7、津波は秋田県北西部の八峰町(はっぽうちょう)で地震28分後に約14.4m、秋田市でも34分後に約13.6mなど沿岸各地で10mを超える大津波襲来。そして冬の深夜の場合12606人の方が犠牲になり、60741棟の家屋が全壊すると想定されています。又、内陸直下型の連動地震が発生した場合、横手市や湯沢市などで最大震度7、72594棟の家屋が全壊し、やはり冬の深夜に発生した場合、4524人の方が犠牲になると想定しています。秋田県では現在の耐震基準が導入された1981(昭和56)年以前に建てられた建物が過半数で、しかも冬は夏に比べて積雪により倒壊数が増加する恐れがあります。

県では、住宅等の耐震化率向上や、安全な避難場所や避難経路の確保及び「津波ハザードマップ」の見直し、津波を想定した避難訓練の実施などに取り組んでいます。

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