気象と防災 マメ知識!

気象と防災 マメ知識!

気象予報士・防災士の神山 浩樹(IBCアナウンサー)がお届けする5分間。

◆放送日時
毎週土曜日17:50~17:55
番組開始:2009年4月〜

◆出演
神山浩樹(IBCアナウンサー)

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468回「語り部が案内する陸前高田」2018年4月21日OA

2018年04月21日 6:00 PM

先月末、陸前高田観光ガイド部会の語り部・河野正義(こうのまさよし)さんに市内を案内していただきました。最大12.2mまで盛り土する大規模工事中の新市街地。建て直された「東日本大震災追悼施設」は白木が香る木造の平屋建てで、中には慰霊碑と献花台が設けられています。大津波により犠牲になった1757人に静かに手を合わせます。河野さんは、震災の教訓を2つ挙げます。1つ目は「防潮堤を過信しない」。「昭和35年のチリ地震津波も大丈夫だったから、今回も大丈夫」と逃げない人達がいた為です。2つ目は「避難所に逃げた後も、安心せずより高台へ」。陸前高田市がまとめた東日本大震災検証報告書によりますと、「津波避難場所として指定していた一次避難所67か所のうち38か所が被災するとともに、9か所で推計303人から411人の尊い命が失われた」としています。市は県の津波予測を絶対視し「それ以上の津波の襲来はない」として避難所の見直しを行わなかったのです。

追悼施設近く、BRTの駅舎は、薄い緑色の屋根に白とベージュの外観で、かつての駅舎をモチーフにしています。震災前の賑やかな駅前通りの写真を掲げながら河野さんは「住民の念願が叶ってやっと通った鉄路の復旧ではなく、バスでの再開になってしまった」と悔しさをにじませます。観光物産施設「一本松茶屋」の傍にある被災したガソリンスタンド。残った2本の支柱を見上げると赤い屋外看板「オカモトセルフ」の文字の脇に「津波水位15.1m」と記されています。自分達がいる所も含め町を呑み込んだ大津波の高さに慄然とします。大型トラックが行き交う市街地から仮設の気仙大橋を渡り、奇跡の一本松が見える場所で車を降りました。田畑を守る防砂林として植えられた約7万本の内、1本だけが残った理由として「海側に立つ黄色いユースホステルの建物により津波の力が分散され、又通常の松より下枝が無かったことが考えられる」と説明していました。

形を変えて繰り返し私達を襲う自然災害。河野さんの命を守る為のメッセージ「人の造ったものに頼ってはいけない」「心の防潮堤を高くして」を胸に刻みました。

 

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463回「震災7年の宮古」2018年3月17日OA

2018年03月17日 6:00 PM

東日本大震災から7年。3月11日は宮古市からラジオの特別番組を放送しました。事前取材で、私は新しい住宅地の一角にある集会施設を訪れました。宮古市の中心部から南に約5キロ、宮古湾の奥に位置する金浜地区では、斜面を利用して宅地造成が進んでいます。再建された住宅が20軒以上建ち並び、道路工事が進行中です。3年前に建てられた金浜農漁村センターは、クリーム色の外観の平屋建てで、月に1度のお茶っこの会が行われていました。長机を組み合わせて並べ、10人の高齢の女性達が赤や黄色、青のフェルトを鋏で切って糊付けし、バラのコサージュ作りです。70代の女性は、堤防のすぐ近くの自宅を失い、高台に再建して5年になります。会のことを知り初めて参加したということで「家に居ると、震災のこと、避難所での生活のこと、余計なことを考えてしまう。皆さんの顔を見に、話をしに、また来たい」と交流を楽しんでいました。毎回のように参加しているという80代の女性は、「引っ越してきた平成27年の12月頃は私で2軒目。辺りも暗くて寂しかった。翌年ぐらいから家が建ち始めた。不便なのはバスが通らないこと。国道45号まで出なければならない」と、新しい地域の課題を口にしました。取材を通して、お茶っこの会のような人とのつながりがあれば、辛い気持ちや不安、悲しみは消えなくても、共に歩み続けるきっかけになると感じました。新しいコミュニティで住民が孤立しないような取り組みが引き続き必要です。

宮古市社会福祉協議会では、仮設住宅や災害公営住宅を1軒1軒周り、相談業務を行ったり、集会所でのサロン活動を支援したりしています。サロン活動は参加メンバーの固定化が見られ、今まで参加していない方、参加できなかった方を呼び込む方法に頭を悩ませています。

岩手大学地域防災研究センターの齋藤徳美客員教授は「まちのハード整備は目に見えてきた中で、人のつながりが進んでいないのが一番の課題。人が生きる為には人との交流は不可欠。古い仲間も、そうなる前は他人。集まりに出てこない方にも声をかけ、皆さんで知恵を絞って対応してほしい」と、心の復興で大切な、人との交流の大切さを訴えていました。

 

462回「明日につなぐ気仙のたからもの」2018年3月10日OA

2018年03月10日 6:00 PM

今日は岩手県立博物館で開催されている企画展「明日(あした)につなぐ気仙のたからもの」についてです。東日本大震災で被災した陸前高田に伝わる貴重な文化財を中心に、2011年4月2日から連綿と続けられてきた再生作業と、資料が携えてきた未来へのメッセージを紹介するものです。会場には古文書や漁具、着物や絵画など93点が展示されています。あの日、海水と泥に塗れたとは思えない程どれもキレイで、再生への努力に頭が下がります。

発災直後、県内で公的機関によって最初に救出された資料は、岩手県指定文化財の吉田家文書「定留(じょうどめ)」です。役人であった吉田家の執務記録で、江戸時代から明治初期の気仙地方の生活を知ることができます。厚さ10センチ程の和綴じ本には、1850(嘉永3)年「雷かと思ったら空から石が落ちてきたようだ」と隕石について墨で記述されています。その隣には掌程の実物の黒い気仙隕石の破片が展示され、当時の驚愕が伝わってきます。救出された資料は腐敗が進みカビが発生していた為、「除菌」、泥を除く「除泥」、塩を抜く「脱塩」という、国際的にも未確立な方法を早急に構築する必要がありました。処理方法の工程写真では、水道水に浸し土砂を取り除き、中性洗剤による洗浄、水道水を交換しながら4~5日かけて脱塩、水分除去、自然乾燥、点検、凍結乾燥、燻蒸、修理など20の工程が紹介されています。

再生された絵画の内、1997年、吉田啓一さんが描いた油絵「冬の松原」の前で足が止まりました。油絵は海藻を主成分とするシート状のゼリーをカンバス表面に密着させ、残留する汚れと塩分を吸着除去したとのことです。白く雪に覆われた緑の松林、その間から見える薄く青い海。失われた風景が、津波を被り、震災7年後に盛岡で公開されている事実に胸が熱くなりました。赤沼英男・首席専門学芸員は「大津波で被災した資料は約70万点。その内、約50万点を救出し、その半分を再生しました。試行錯誤を繰り返し、7年の歳月をかけて再生した資料から、過去の人がどんな思いで残したか、又、今回どんな方法で再生したかを御覧いただきたい。そして残りの約25万点の再生にご理解をいただきながらやり遂げたい」と故郷の記憶を後世に伝える決意を新たにしていました。この企画展は、岩手県立博物館で今月28日まで開かれています。

 

 

461回「在住外国人の3・11」2018年3月3日OA

2018年03月03日 6:00 PM

間もなくあの東日本大震災から7年を迎えます。今日は、岩手県東日本大震災津波多言語記録集「在住外国人の3・11」についてです。2011年3月11日に発生した巨大地震と大津波の教訓を忘れることなく、岩手県に住む外国人の皆さんが安全に暮らせるよう、岩手県国際交流協会が発行したものです。内容は被害状況を記録したカラー写真、在住外国人の被災体験談、被害状況の資料や緊急時・災害時、日頃からの心構えなどで、日本語、中国語、英語の3か国語で掲載しています。県内在住外国人は、震災前の2010年12月末時点で5942人でした。そして震災では朝鮮籍1人、中国籍2人、アメリカ籍1人、韓国籍1人の5人が命を落としました。

多言語記録集で、大船渡に勤務していた中国出身の2人の女性は、日本語の読み書きができ、かつ家族と一緒だったので避難所で必要な情報を入手できたと話します。しかし、掃除や炊き出し当番の「きまりごと」は、口頭や掲示等で伝えられ「日本語がわからなかったら、きっと何もできなかっただろう」と指摘し、「避難所に身を寄せていた研修生の中国人グループは、はじめの数日間、日本語がよく分からない為『水は必要最低限の量を大切に使う』などのルールを知らずに行動して、周りの人に怒られていた」と当時を振り返ります。宮古に勤務していたイギリス出身の男性は、「雇用先の企業で地震や津波についての情報や避難訓練を受けていたので、津波の時、どうしたらいいか知っていたのは良かった」と在住外国人の備えの大切さを訴えます。陸前高田や大船渡で暮らすフィリピン出身の4人の女性は津波で自宅を失い、「避難場所が分からなければ、とりあえず自宅に戻れば安心だと思ってしまうかもしれない」「避難の呼びかけが日本語だと、どうしていいか分からなかったかもしれない」と震災の教訓を挙げています。

岩手県国際交流協会では「慣れない外国で災害に遭ったときの不安は、とても大きなものです。重要なのは、語学力ではありません。状況がわからず不安な様子の外国人がいたら、言葉は気にせず、日本語ででも声を掛け、手を取って導いてください。それが何よりの助けになります」と、言葉の壁を越えた災害時のサポートを呼びかけています。この多言語記録集は、岩手県国際交流協会で無料配布しています。

 

457回「語り部バス~南三陸町から」2018年2月3日OA

2018年02月03日 6:00 PM

今日は、宮城県南三陸町の「震災を風化させないための語り部バス」についてです。運行するのは、南三陸ホテル観洋で、2012年2月にスタート、これまでの参加者は団体・個人合わせて30万人余りに上ります。

私が乗車した日の語り部は、渉外部長の伊藤文夫さん(74)。町内にあった自宅を津波で流された被災者でもあります。槌音が響く盛り土の間を縫ってバスが向かったのは冠婚葬祭場「高野会館」です。旧JR志津川駅に近い町の中心地にあり、海から約200mに位置していました。白い外壁の4階建ては、津波により各階が素通しになりネットが張られています。あの日、高齢者の芸能発表会の最中、震度6弱の大地震に見舞われました。従業員は、このまま出席者を帰しては津波に巻き込まれ危険と判断し、上層階へ避難させました。そして約40分後、15m以上の大津波が直撃し、屋上も約30センチ浸水しました。しかし近隣住民を含め327人と、犬2匹が助かったのです。ペットボトルの水を備蓄する等、普段から防災に熱心に取り組んでいたことが適切な行動に繋がりました。しかし伊藤さんによると「玄関で従業員3人が立ちはだかったものの、それでも8人の方が建物を離れ自宅に戻ってしまいました」と明かします。その内、1人は無事でしたが、7人は帰らぬ人となりました。

今回の震災で831人が命を落とした南三陸町。助かったのは海の傍に住んでいて逃げた人で、逆に犠牲になったのは、昭和35年のチリ地震津波では被害が無かったものの、今回は津波が押し寄せた内陸に住んでいた人だったと伊藤さんは指摘し「自分が住む地域の災害を想定し、いつかではなく、いつ来ても良いように備えて欲しい」と訴えます。この語り部バスは、日本の優れた観光・旅行産業の力を発信しているとして2017年度の「ジャパン・ツーリズム・アワード」の大賞を受賞しました。女将の阿部憲子さんは、「命を守る基本は自助・共助。将来の防災・減災への取り組みに役立てていただければ」と話していました。

 

456回「語り部が案内する女川の今」2018年1月27日OA

2018年01月27日 6:00 PM

先月、1年ぶりに訪れた宮城県女川町についてです。駅前には新たに開放的な観光物産施設が、駅裏にはトレーラーハウス型の宿泊施設が移転オープンしていて、確かな復興の歩みを感じました。海が見える公園のまちを案内してくださったのは、女川町観光協会の遠藤達彦さん(47)です。遠藤さんは元々、父親の経営する水産加工会社を手伝っていました。あの日は震度6弱の揺れの後、高齢女性を軽トラックに乗せ、腰の辺りまで津波に浸かりながら逃げ延び、九死に一生を得ました。しかし津波で職場と自宅を失い、父親と伯父が帰らぬ人となりました。父親は見つかりましたが、伯父は行方不明のままです。

町の資料によりますと、東日本大震災では最大14.8mの津波に襲われ、人口1万14人の内827人が亡くなりました。震災で被害を受けた市町村の中で人口に占める犠牲者の割合が最も高く8.2%に達しました。大津波に襲われる度に立ち上がった女川。しかし昭和8年の昭和三陸大津波の犠牲者は1人、昭和35年のチリ地震津波では幸い人的被害はありませんでした。そして今回の震災の犠牲者の7割近くが65歳以上。つまり10代でチリ地震津波を経験した世代です。遠藤さんは「前はここまで来たから、ここまで逃げれば大丈夫というイメージがあったのでは」と、当時の経験が思い込みや過信に繋がり、より高い場所への避難を遅らせたと振り返ります。

震災後、女川町は、防潮堤に頼らないまち作りを選択。商業施設は海に近く、居住地は高台に造成しています。市街地は浸水しても、逃げることで命だけは守るという方針です。人口が6637人にまで減ったまちのかさ上げ工事は半ばで、土煙を上げながら大型トラックが行き交い、槌音が響いています。遠藤さんは「まち作りは後2、3年かかる。水産業・観光のまちとして多くの人が訪れてくれれば」と交流人口の増加に期待を寄せていました。

 

455回「まちの記憶を伝える~石巻」2018年1月20日OA

2018年01月20日 6:00 PM

先月、宮城県石巻市の「南浜つなぐ館」を訪れました。館内には震災前のまちの再現模型、震災直後の写真や資料、復興祈念公園の計画等を展示しています。かつて1885世帯が暮らし、小学校やスーパーもあった南浜(みなみはま)・門脇(かどのわき)地区は、あの日、6.9mの大津波に呑みこまれ539人が犠牲になりました。

南浜つなぐ館を起点に住宅跡地を歩いて学ぶ「南浜メモリアルツアー」に参加しました。案内して下さったのは、みらいサポート石巻の藤間千尋さんです。横浜で生まれ育った藤間さんは、震災時、東京湾に面した横浜みなとみらい21内で働いていました。津波警報が出ているにも関わらず、多くの人達と共に海の傍を避難した自身の行動を悔やんでいます。その後、震災ボランンティアが縁で訪れた石巻に2011年11月に移住、防災意識を高める活動を続けています。外に出ると、西側には日本製紙石巻工場から立ち上る数本の白い煙が青空に映えています。震度6弱の揺れの後、従業員全員が高台に避難し、当時構内にいた1306人が助かりました。工場は丸太や瓦礫に囲まれ水没したものの、2011年9月には操業を再開。「24時間体制で立ち上る煙は故郷の風景で、再開はもの凄く嬉しかったそうです」と藤間さんは地域の声を代弁します。歩みを進めると、一面に広がる薄の間から剥き出しになったコンクリートの基礎がありました。南浜町会館の跡で、藤間さんは「小学校入学や敬老のお祝い、習い事の発表会など、地域にとっては欠かせないそうでした」と当時の2階建ての写真を掲げ話しました。高盛土道路を境に山側では区画整理事業が進められ、海側には2020年度を目途に国営の追悼施設を含む石巻南浜復興祈念公園が整備されます。会館跡は、暮らしの記憶を再生する手がかりとして公園内に残されることになっています。

藤間さんは、「『今更、足を運んでも良いのか』と思った時が行き時。復興はまだ終わっていないので、変わり続けるまちの姿を見ていただけたら」とリスナーに石巻への来訪を呼びかけていました。

 

449回「震災学」2017年12月9日OA

2017年12月09日 6:00 PM

今日は、東北学院大学発行「震災学」についてです。東日本大震災によって浮かび上がる課題を、被災地・東北から発信する学術誌で、先月17日に11冊目が刊行されました。第1章では『地元局アナウンサーの6年』として、震災報道を振り返った座談会の模様が掲載されています。NHK仙台の杉尾宗紀(そうき)さん、東北放送の藤沢智子(ともこ)さん、エフエム仙台の石垣のりこさん、ラジオ福島の菅原美智子さん、そして岩手から私が参加しました。

杉尾さんは、震災時は仙台、その後、出身地の宮崎を挟み、2015年から再び仙台放送局に勤務しています。宮崎県では、南海トラフ巨大地震の津波と揺れにより約35000人が犠牲になる恐れがあります。杉尾さんは、宮崎赴任時、ラジオ番組を通して防災士のネットワークを構築。次なる大震災への備えと、災害時のラジオの重要性を強調していました。藤沢さんからは、震災以降、放送している番組「3.11みやぎホットライン」が紹介されました。部員23人の内、13人が震災未経験者ということで、若手アナを中心に被災地に足を運び、生の声に耳を傾ける機会になっているとのことです。被災された方の事情はそれぞれ、思いもそれぞれです。想像ではなく、自ら取材し伝え続けることの大切さを再確認しました。石垣さんは、震災後に防災士を取得、番組やイベントなどで被災地の今を発信し続けています。最近、放送で「防災の為」と銘打つとリスナーが避ける印象があることから、普段から親しんでもらう入口としての放送の大切さや、又、転勤や進学で仙台に転入する多くの人が震災を体験していないことから、音楽をきっかけに震災について伝えるFMならではの手法について触れていました。飯舘村に特化した取材を続けている菅原さんが最も印象的だったのは、80代の方の言葉「人を恨んで生きるなよ」。原発事故の距離や放射線量による数字で住民を分断し、恨み、妬み、嫉みを生んだ現状に対して、今後を慮る重い一言です。菅原さんは、2011年7月に立ち上げた「いいたてまでいの会」の事務局長として、取材とは違う形でも村を応援しています。

そして私は仮設住宅の取材で見聞きする、住まう高齢者が亡くなったり、介護施設に転居したりするケースから、被災地での月日の重さなどについて語りました。「震災学vоl.11」は一般の書店で販売されています。

435回「震災を伝える仙台の施設」2017年9月2日OA

2017年09月02日 6:00 PM

今日は仙台の震災を知り、学ぶ場「せんだい3.11メモリアル交流館」についてです。仙台市の南東部、若林区にあり、1階は交流スペース、2階は展示室・スタジオ、3階は屋上庭園になっています。宮城県によると、東日本大震災では、宮城野区で震度6強、若林区などで震度6弱を観測、9mの大津波などにより950人が亡くなりました。

建物1階で目を引くのは縦3m、横5m程の壁一面にある「仙台市東部沿岸メモリアル立体地図」です。仙台平野周辺の地形と東日本大震災における津波浸水域の関係を表しています。太平洋を下にした地図で、壁面の上から山並み、仙台平野、松島湾・仙台港から真っ直ぐな海岸線となっています。立体地図のほぼ中央に仙台東部道路が横断していて、その海側が薄い水色・ベージュで浸水域を表しています。平野を広範囲に亘り津波が襲ったことが見て取れます。

2階の展示室では、震災被害や復旧復興の状況などを写真やパネルで伝えています。床と机の天板には、津波により被災した小学校の体育館の床材が使われています。パネルで目に留まったのは、2011年3月11日午後4時9分に上空から撮影された荒浜小学校の写真でした。海から約700mに位置する4階建ての校舎、その2階部分まで灰色の海に浸っています。緑の屋上に小さく映っているのは、孤立した児童・近隣住民320名で、助けを求める叫び声が聞こえてくるようです。見入っていると「小学校に避難した後、家にカギをかけに行ったり、荷物を取りに戻ったりして亡くなった人がいたんです」と、静かに教えてくれた女性がいました。荒浜地区で自宅を失い、仮設住宅暮らしの経験があるというフロア常駐のスタッフでした。家族は無事でした。震災当初、同じ地区で亡くなった192名を思い、生き残った罪悪感で精神的に辛かった時期もあったと言います。しかし今は「亡くなった方の分まで生きる」と考え「津波で2度と自分のような思いをしてほしくない」と経験を伝え続けています。「せんだい3.11メモリアル交流館」は、仙台駅から地下鉄東西線で13分、荒井駅の構内にあります。

423回「青森県防災教育センター」2017年6月10日OA

2017年06月10日 6:00 PM

先日、青森県消防学校内にある「青森県防災教育センター」を訪れました。1979(昭和54)年9月に開設、東日本大震災の教訓等を踏まえ、2014(平成26)年3月にリニューアルしました。震度6までの地震体験や訓練用の水消火器体験の他、青森県の災害の歴史等を動画や写真で学べる施設です。

「119番通報体験」では、タッチ式モニターを使用し、火事や救急の際の119番通報の手順を学びます。画面には公園のゴミ箱から煙が出ているイラストが表示されています。慌てず119番に電話をかけた後は「火事か・救急か」「場所はどこか」「何が燃えているのか」、質問にはっきり答えることを確認します。「青森県の地震・津波被害想定」は、壁一面の青森県の地図上に、想定されている地震の揺れや津波の高さが記され、地震の規模や場所によっては20mを超える津波が押し寄せることがわかります。その左脇の壁には、1m、2m、3mの高さに線が引いてあります。3mの津波は天井まで達する高さということを見上げながら実感します。「防災の心得」パネルコーナーでは、「雪害」「防火」「台風が近づいた時」等、災害の種類別に注意点がまとめられています。2010(平成22)年6月、八甲田山の酸ヶ湯付近で、硫化水素により山菜採りの女子中学生が亡くなっています。「遭難防止」では「他に比べて著しく草木が枯れている場所は火山性ガスが噴出している可能性があるので近寄らないように。特に無風、くもりの時にガスがたまりやすい」と注意を促しています。又、ビスケット、水、ヘルメット、紙オムツなどが並ぶ「備蓄品コーナー」。中でも目を引く「非常用水電池」は開封後、注水口から水を入れると使える単3型で、約20年の長期保存ができると知りました。

日頃の備えや防災の知識を学べる青森県防災教育センターは、新青森駅から車で約5分の所にあり、見学は無料ですが事前申し込みが必要です。

 

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