気象と防災 マメ知識!

気象と防災 マメ知識!

気象予報士・防災士の神山 浩樹(IBCアナウンサー)がお届けする5分間。

◆放送日時
毎週土曜日17:50~17:55 【再放送】毎週日曜日18:50~18:55
番組開始:2009年4月〜

◆出演
神山浩樹(IBCアナウンサー)

お便り・お問い合わせ

429回「やや強い風」2017年7月22日OA

2017年07月22日 6:00 PM

陸前高田の方から気象に関して質問をいただきました。ありがとうございます。「今日(6月22日)の天気予報は『風がやや強く』との事でありますが、『やや』はどの程度の風なのでしょうか。沿岸南部の今日の風は、とても強いのです。通常は何メートルの風が吹くと警報になるのでしょうか。今日は通常でも10m以上は吹いていると思いますが」ということです。

気象庁の風の強さに関する用語によりますと、やや強い風は「風速10m以上15m未満」です。風に向かって歩きにくく、樹木全体が揺れ始める吹き方です。この日は全域に強風注意報が出されていました。平均風速が10m以上の際に出されます。陸前高田市高田町内に設置されているアメダスの観測記録では、この日、西北西の風、最大風速7.3m、最大瞬間風速15.4mでした。実際は、土地の高低差、遮る物の有無などによっては、もっと風の強い場所もあったと思われます。基準通りに強風注意報が出され、実際、それだけの強さの風が吹いていました。しかし「やや強い風」の「やや:いくらか、少し」という言葉のニュアンスと体感とでは違和感があったのかもしれません。

続いて警報に関してですが、強風注意報よりも更に強い風が予想される場合、暴風警報が出されます。その基準は平均風速20m以上で、何かにつかまっていないと立っていられず、飛来物によってケガをする恐れもある非常に強い風です。風向・風速は絶えず変化していて、一般的には観測時刻の前10分間の測定値を平均し、その時刻の平均風向・平均風速としています。瞬間的には、予想される風速の1.5倍から2倍ぐらいの突風が吹くことがあります。例えば台風等で最大風速20mと発表された場合はその2倍の40m程度の走行中のトラックが横転するような突風が吹く恐れがあります。警報が出るような際は、家の周りで飛ばされそうな物がないか、チェックし早めに備えることが必要です。

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428回「飯舘村」2017年7月15日OA

2017年07月15日 6:00 PM

今日は福島県飯舘村について取り上げます。阿武隈山系北部の高原に開けた、飯舘牛やトルコギキョウなど花卉が特産の村です。東日本大震災では震度6弱の揺れに見舞われ、その後、原発事故で計画的避難区域に指定。それまでの暮らしが断ち切られ震災関連などで43人が亡くなりました。

今年3月31日、帰還困難区域となっている一部地域を除いて避難指示が解除されました。村の人口6000人の内、224世帯437人が戻り暮らしています。村民の約9割は県内、それ以外は県外に避難したままです。村民の半分3300人余りが生活している福島市。工業団地の一角にある松川仮設第一住宅を訪れました。最大117世帯が住んでいましたが、復興公営住宅に入居したり、自宅を再建したりして、現在40世帯にまで減りました。アスファルトの広場では、70代80代を中心に約30人がボッチャというスポーツに興じていました。赤いボールを転がし、笑い声が絶えません。

この日、広報に掲載する住民の笑顔を撮影する為、カメラマンと共に訪れていたのは飯舘村役場の木幡貴彦(こわたたかひこ)さんです。南相馬市出身、33歳の木幡さんは、盛岡大学を卒業後、飯舘村の幼稚園教諭になりました。震災後2014年までは仮設の幼稚園で働いていましたが、その後は広報を担当しています。4年程前、木幡さんがショックだったことがあります。園で初めて担任し小学生になった男の子に「先生の子どもの頃は放射線量を気にして生活しなくて良かったね」と言われたことでした。故郷からの避難を余儀なくされた子ども達の心理的負担は相当なものだったのでしょう。先月24日にはふるさと教育の一環で、村外の仮設小学校に通う全児童が、村の3校それぞれの校舎を見学しました。震災後、静まり返った学校に子ども達がいる当たり前の光景に、木幡さんは胸が熱くなったと言います。来年度には村内で学校が再開します。子育て世代がどれだけ村に戻るのか、避難を続ける家庭が多い中での苦渋の決断です。「元通りの復旧ではなく、新しい一歩を踏み出してほしい」、木幡さんは新しく整備される学校と、村の未来に期待を寄せています。

427回「まちのこし~浪江町~」2017年7月8日OA

2017年07月08日 6:00 PM

先月、福島県の太平洋に面する最東端・浪江町を訪れました。稲作を中心とした農業、シラス・ヒラメの沿岸漁業、大堀相馬焼等の商工業の町でしたが、東日本大震災では震度6強の揺れと、15.5mの大津波に襲われました。追い打ちをかけるような原発事故により21000人余りの町民が着の身着のまま故郷を離れました。町の資料によりますと、震災により182名の方が犠牲になり、震災と原発事故に関連して383名の方が亡くなりました。

震災から6年。除染が進み、一部地域を除いた上下水道、主要道路等のインフラ復旧がほぼ完了、仮設商業施設のオープン、診療所の開設など、町内で居住する為の環境が必要最低限、整備されました。そして今年3月31日、放射線量が高い一部地域を除いて避難指示が解除されました。現在の人口18000人余りの内、町は避難指示解除後の人口を5000人、2035年までの目標人口を8000人と設定しました。しかし5月31日現在、町内に戻って住んでいるのはわずか165世帯、234人。それ以外の7割の方は福島県内、3割は県外で避難生活を続けているのです。

道路が新しくなったものの、行き交う人はまばらな町内を案内してくださったのは浪江町商工会会長の原田雄一さん(68)です。原田さんは今年4月を境に町民の立場が「これまでの『帰りたいのに帰れない人達』から『帰れるのに帰らない人達』に変化した」と言います。帰らない理由として「中間貯蔵施設の建設が捗らない為、町のあちこちに除染で出た土が詰まった黒い袋の山があり、廃炉への工程が不透明な中『例え放射線量が下がっても原発から10キロと離れていない故郷へは帰らない』という住民も多い」と心情に理解を示します。コミュニティが無くなった町に戻ったとしても、時計店を営んでいた原田さんのような商業やサービス業は、生業が成り立ちません。原田さんは「復興は本来、世代を超えて手を携え進めて行くものだと思います。ところが私達の被災地では気軽に声をかける事ができません。それが原発事故の大きな問題です」と被災地・岩手との違いを指摘していました。来年4月の認定こども園開園、小中学校開設に向け準備が進む浪江町。故郷を残す「まちのこし」は緒に就いたばかりです。

426回「女子の暮らしの研究所」2017年7月1日OA

2017年07月01日 6:00 PM

福島市を拠点に2012年12月から活動している「女子の暮らしの研究所」についてです。高校生や大学生、社会人、ママさんなど、16歳から33歳の約30名の女子たちが商品開発やツアーガイド、イベントなどを企画・運営しています。福島駅から徒歩15分の文化通りにある8坪の小さなお店では、福島の伝統工芸品を可愛らしくアレンジした雑貨やアクセサリーを販売しています。その内「FUKUiro Pierce(ふくいろピアス)」と名付けられた小さなピアスは、会津木綿をアクリルで挟んでいます。丸や三角、四角と様々な形は、放射線に対する多様な選択があることを意味しています。又、8色で展開していて、太陽を表すオレンジ色には「原発事故後、外に出て日の光を浴びることは、放射線量と共に語られることになった」、海の色を表すブルーは「人間の都合で海を汚してごめんなさい」など、可愛いと手に取ることで、福島で暮らす女子の現実や不安を届けたいという思いが込められています。

活動は、女の子が自由に話し合える場を作りたい、というのがきっかけでした。代表の日塔マキさんは「福島の現状は『逃げる』『逃げない』『大丈夫』『大丈夫じゃない』など激しく語られ、どんな選択をしても否定されます。暮らしの中で感じるちょっとした気持ちを、ヤケドしそうな高い温度ではなく、普通の温度感覚で伝えたい」と穏やかに、しかし真っ直ぐな瞳で話します。立ち上げ当初から始めた郡山コミュニティ放送のラジオ番組では、恋バナといったガールズトークや政治に関する話題を取り上げていました。しかし最近は、例えば震災当時、何も分からない小学生だった女の子が高校生になり部活で放射能のことを調べているなど、6年経ってどんなことを感じ、どんな選択をしてきたかなどを伝えていると言います。

女子の暮らしの研究所は、女子の視点で様々なアプローチをしながら、これからも福島の今と魅力を発信していきます。

 

425回「地震・豪雨の命名」2017年6月24日OA

2017年06月24日 6:00 PM

紫波町のじゃじゃじゃサテライトさんから質問をいただきました。ありがとうございます。「熊本地震や岩手宮城内陸地震みたいに震度6強以上になると、どうして地震の名称が付くんですか?」

去年の熊本地震では、4月14日と16日に最大震度7を記録、地震の規模を表すマグニチュードは7.3、228名の方が命を落とし、2753名の方がケガをしました。9年前の岩手・宮城内陸地震では、最大震度6強、マグニチュード7.2.死者7名、行方不明者6名、ケガ人426名でした。気象庁による「平成28年(2016年)熊本地震」や「平成20年(2008年)岩手・宮城内陸地震」といった命名は、このように顕著な災害を起こした自然現象の経験や教訓を後世に伝承することが目的です。地震の命名には基準があります。規模については、陸域でマグニチュード7.0以上かつ最大震度5弱以上、海域ではマグニチュード7.5以上、かつ最大震度5弱以上または津波2m以上。そして家屋の全壊100棟程度以上など、被害が顕著な場合です。原則として、「元号+地震情報に用いる地域名+地震」と名付けています。

気象庁では、地震・火山現象の他、豪雨により家屋が1000棟程度以上損壊し、10000棟程度以上が浸水した場合、「平成26年8月豪雨」「平成27年9月関東・東北豪雨」のように名前を付けています。3年前の平成26年8月豪雨は、台風や前線などの影響により、全国各地で大雨となり、広島市の土砂災害では74名の方が亡くなりました。2年前の平成27年9月関東・東北豪雨では、台風18号から変わった低気圧の影響で、総雨量が関東地方で600ミリ、東北地方で500ミリを超え、土砂災害、浸水、河川の氾濫などにより、宮城県、茨城県、栃木県で死者8名、損壊家屋4000棟以上、浸水家屋12000棟以上の住宅被害となりました。各地で頻発する大地震や豪雨。時も場所も選ばず起きることを忘れてはなりません。

424回「大正時代の福島台風」2017年6月17日OA

2017年06月17日 6:00 PM

去年夏、岩手を襲った台風10号。8月29日から30日にかけ沿岸を中心に雨が降り続き、30日夕方から夜のはじめ頃にかけては局地的に猛烈な雨を観測しました。総降水量が約300ミリの大雨になった所があり、河川の氾濫により21人が命を落とし、2人の方が未だ行方不明、冠水、倒木、土砂災害等が多数発生しました。台風10号は関東の南東海上から福島県沖を北上し、強い勢力を保ったまま30日午後6時前に大船渡市付近に上陸、東北北部を北西に進んだもので、盛岡地方気象台によりますと、台風が東北地方の太平洋側に上陸したのは、1951(昭和26)年の統計開始以来、初めてでした。

しかし更に記録を遡ると、この台風10号と似たようなコースを通り、岩手に甚大な被害をもたらした台風がありました。今から104年前の1913(大正2)年8月の「福島台風」です。台風は8月26日、関東から福島県沖を通って宮城県石巻市付近に上陸、北北西に進路を変え、中心が岩手と秋田の間を通り、青森県の陸奥湾付近から抜けていきました。新版「岩手百科事典」によりますと、この台風により40人が亡くなり、家屋損壊流出357棟、浸水7932棟、橋の流出883か所と甚大な被害となりました。

福島台風は岩手だけではなく、関東・東北地方など広範囲に被害をもたらしました。長野県蓑輪町(みのわまち)郷土博物館によりますと、福島台風襲来時、修学登山の為、駒ヶ岳に向かった中箕輪尋常高等小学校の生徒・教師ら37名は暴風雨に遭遇し、11名が犠牲となりました。全国的にも衝撃を与えたこの山岳遭難は、1976(昭和51)年、作家の新田次郎が「聖職の碑(いしぶみ)」という小説で描き、映画にもなりました。100年あまりの間に少なくとも2度あった東北地方の太平洋側に上陸した台風。自然災害の記憶は長続きしないことを肝に銘じ、私達は備えなければなりません。

423回「青森県防災教育センター」2017年6月10日OA

2017年06月10日 6:00 PM

先日、青森県消防学校内にある「青森県防災教育センター」を訪れました。1979(昭和54)年9月に開設、東日本大震災の教訓等を踏まえ、2014(平成26)年3月にリニューアルしました。震度6までの地震体験や訓練用の水消火器体験の他、青森県の災害の歴史等を動画や写真で学べる施設です。

「119番通報体験」では、タッチ式モニターを使用し、火事や救急の際の119番通報の手順を学びます。画面には公園のゴミ箱から煙が出ているイラストが表示されています。慌てず119番に電話をかけた後は「火事か・救急か」「場所はどこか」「何が燃えているのか」、質問にはっきり答えることを確認します。「青森県の地震・津波被害想定」は、壁一面の青森県の地図上に、想定されている地震の揺れや津波の高さが記され、地震の規模や場所によっては20mを超える津波が押し寄せることがわかります。その左脇の壁には、1m、2m、3mの高さに線が引いてあります。3mの津波は天井まで達する高さということを見上げながら実感します。「防災の心得」パネルコーナーでは、「雪害」「防火」「台風が近づいた時」等、災害の種類別に注意点がまとめられています。2010(平成22)年6月、八甲田山の酸ヶ湯付近で、硫化水素により山菜採りの女子中学生が亡くなっています。「遭難防止」では「他に比べて著しく草木が枯れている場所は火山性ガスが噴出している可能性があるので近寄らないように。特に無風、くもりの時にガスがたまりやすい」と注意を促しています。又、ビスケット、水、ヘルメット、紙オムツなどが並ぶ「備蓄品コーナー」。中でも目を引く「非常用水電池」は開封後、注水口から水を入れると使える単3型で、約20年の長期保存ができると知りました。

日頃の備えや防災の知識を学べる青森県防災教育センターは、新青森駅から車で約5分の所にあり、見学は無料ですが事前申し込みが必要です。

 

422回「岩手の地震観測の歴史」2017年6月3日OA

2017年06月03日 6:00 PM

先月、国立天文台水沢の敷地内にある「木村榮(ひさし)記念館」を訪れました。1900(明治33)年に建築された臨時緯度観測所創立時の庁舎です。緯度観測所とは、緯度の変化を観測して地球の回転と変形とを調べる機関のことです。木村榮は水沢の緯度観測所初代所長で、地球の自転軸の傾きに関する式に加えられた「Z項」の発見者です。

記念館によりますと、実は緯度観測所では創立間もない1901(明治34)年10月から地震観測が始まりました。地球全体の変動である極運動を引き起こす原因を探る為に行われたものです。観測当初は、地球の基本的な内部構造もよく知られていませんでした。国内、国外の地震観測点は少なく、その中で天文観測を行っていた水沢は時刻の精度も良く、世界的に信頼された観測点だったのです。地震観測は、緯度観測所設立直前の1896(明治29)年6月に発生した明治三陸大津波、又、同じ年の8月の陸羽地震による地震研究の高まりもあったようです。

館内には観測に使われた「大森式地震計」が展示されています。国立科学博物館地震資料室によりますと、大森式地震計は地震学者の大森房吉が1898(明治31)年頃に作った地震計です。地震動を感知してから動き出すというそれまでの欠点を改めて、常に動いて連続記録ができる地震計として登場しました。真鍮の板で覆った鉛の重りを鉄の棹に取りつけ、これを根元の円錐状の軸・ピボットと鋼の吊り線で支え水平振り子にしています。記録は煤書き式で、記録紙を巻いたドラムは重り又はゼンマイを動力にしてゆっくりと回転します。日本の代表的地震計で、大学の他、気象台・測候所、更に海外でも使われました。地震計の前には、水沢で検知した1923(大正12)年9月1日、関東大震災の地震波の記録も展示され、天地を観測していた歴史を知ることができます。奥州市水沢区星ガ丘町の木村榮記念館は、無料で御覧になれます。

421回「釜石山林火災」2017年5月27日OA

2017年05月27日 6:00 PM

今月8日、釜石市で発生した山林火災は、発生から2週間が経った22日午後、完全に消し止められたことが確認され、市が「鎮火」を宣言しました。8日正午頃、釜石市平田の尾崎白浜(おざきしらはま)地区で「青出浜(あおだしはま)近くの山から煙が見える」と漁に出ていた船から消防に通報がありました。火は強い風にあおられて勢いを増し、煙が激しく吹き上げる様子は火山の噴火のような光景でした。けが人や住宅への被害はありませんでしたが、およそ400haの山林と、神社の柱や社務所を焼きました。

8日の県内は発達した低気圧の影響で西寄りの風が強まり、沿岸部では山を越えた乾いた風が気温を上昇させるフェーン現象が起きたと見られます。釜石では25.9メートルの最大瞬間風速を観測。最小湿度は大船渡で22%と空気が乾燥した状態でした。それに加えて釜石では4月18日に65.5ミリのまとまった雨が降って以降、3週間ほとんど雨が降らず空気も地面もカラカラに乾いていました。火事の現場につながる道路がなく消火活動は難航しました。強風のため本格的な空中からの消火が始まったのは発生から1夜あけた9日朝でした。3日目の10日、雨が降り火の勢いが弱まりました。市は11日「集落付近への延焼の恐れはない」と判断、136世帯348人に出されていた避難指示は解除されました。15日には「鎮圧」が宣言されましたが、その後も消防が現地に入り残り火の確認を行ってきました。そして22日、地上と上空から目視と熱感知センサーとで改めて確認を行ったところ煙や熱が認められなかった事から「鎮火」が宣言されたものです。森林は一度焼失すると再生するまでに数十年の歳月を要します。また土壌の保水能力の低下を招き、大雨により土砂崩れが起きやすくなる恐れがあります。

山林火災は乾燥して強風が吹く春に多く発生しています。原因のほとんどが、農作業や、山菜採りなどの入山者による、たばこ火やたき火、野焼きなど人為的なものです。1人1人の心がけで防ぐことができるのです。

 

420回「八甲田山遭難事件」2017年5月20日OA

2017年05月20日 6:00 PM

先月、青森市郊外にある「八甲田山雪中行軍遭難資料館」を訪れました。入口には雪の中、立ったまま仮死状態で救援隊に発見された後藤伍長の銅像があります。今から115年前の1902(明治35)年1月23日、「青森歩兵第五連隊」は緊迫する日露関係を背景に敵の上陸を想定し、八甲田山での雪中行軍訓練を行いました。しかし日本の観測史上最強の寒波が一行を襲います。行軍3日目の1月25日、北海道旭川では日本の最低気温の記録、氷点下41度を観測しています。猛吹雪に阻まれ総勢210名の隊員が遭難し199名が犠牲となりました。その内、岩手県出身者は139名と約7割に上ります。他宮城46名、青森5名、東京、神奈川等の出身者各1名が命を落としました。

悲劇を招いた原因について、資料館では3つの点を指摘しています。1つ目は「心構え」です。行軍は田代までの約20キロを1泊2日で計画していました。将校と下士官は毛織物の軍服に厚手のマントだったものの、多くの兵卒は綿の夏服、手袋や耳袋程度の軽装で、危機意識が低かったのです。2つ目は「食糧」です。この時、青森の最高気温が氷点下8度。携帯していたおにぎりは凍結して歯が立たず石のように硬くなった為、捨てる者が続出しました。2回目の露営では既に食糧が尽きる結果となり体力の消耗へと繋がっていきました。そして3つ目は「疲労」です。激しい風雪と寒気により進退窮まった一行は、露営を決し雪濠を掘りますが、一刻でも早い帰着をと、早朝5時の出発を2時に早めほとんど休憩をとらず、更に疲弊していったと考えられます。一方、同じ時、弘前第三一連隊37名は、弘前から十和田湖・三本木を巡る行程を無事、踏破していました。隊員に青森出身者が多く、雪中行軍を熟知していたことが背景にあります。

敷地内にある幸畑(こうばた)陸軍墓地には犠牲者の墓標が整然と並び、岩手県の御遺族が今でも供養に訪れるそうです。冬山の危険と備えの大切さを伝える資料館は、青森駅からバスで約30分の所にあります。

 

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